前田利常

前田利常(まえだとしつね)  

加賀藩第2代藩主
前田利家の4男
母は千世(寿福院)
従三位権中納言
子に加賀藩3代藩主の前田光高
微妙公、小松中納言

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生涯  

  • 生母の千世(寿福院)は下級武士の娘であったが、前田利家の侍女となりお手がつき、文禄2年(1594年)11月に利常が生まれた。利家の56歳の時の子である。
     浄光院
      ├──────保科正之───────┬保科正経
    ┌徳川秀忠               ├保科正容───────常姫
    │ ├─────┬徳川家光       └松嶺院摩須姫      │
    │崇源院江   ├千姫    ┌松平頼重  │          │
    │       ├東福門院  ├徳川光圀  │          │
    ├徳川頼房───│──────┴清泰院大姫 │          │
    │       └天徳院珠姫   ├──前田綱紀──前田吉徳─┬前田宗辰
    │ 寿福院千代保  ├────前田光高        │   ├前田重煕
    │   ├────前田利常【加賀前田家】       │   ├前田重靖
    │ 前田利家                     │   ├前田重教
    └徳川義直────────徳川光友───徳川綱誠──松姫   └前田治脩
    
  • 幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられた。
  • 利家に初めて会ったのは利家死の前年、慶長3年(1598年)に守山城を訪ねた折りのことで、利家は6歳の利常を気に入り、大小2刀を授けたという。
  • 関ヶ原直前の慶長5年(1600年)、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重(丹羽長秀長男)の人質となった。

    利長之を延見して曰く、和議既に成る、宜しく舊怨を一洗せざるべからず。是を以て我は舍弟猿千代(利常)を出して質たらしめんとす。

  • 人質として小松城内に抑留されていた際、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話したという逸話が残る。

    其頃我等幼少に候故、五郎左衞門特の外かはゆがられ、梨の皮を自身取候而贈候。我等の顏をつく〲と見、譽被申、御仕合能可有御座候、御目の内宜と被申候。

秀忠娘との婚姻  

  • 慶長5年(1600年)に跡継ぎのいなかった兄前田利長の養子となり、名を利光(としみつ)と改める。
    のち、寛永6年(1629年)には諱を利光から「利常」に改めている。これは元和9年(1623年)の3代将軍家光の就任を受け、光の字が下にあるのを避けたためという。
  • 慶長5年(1600年)9月末、前田利長は大坂入りし、翌10月17日に加賀、能登、越中の三国120万石を領せしめることを伝える。さらに11月に嗣子利光(利常)を徳川秀忠の娘珠姫と結納を交わすことが約され、翌慶長6年(1601年)婚儀が行われる。※珠姫3歳、利常8歳

    慶長五年正月、利長は別に使を江戸に發し、書を秀忠に送りて、去年以後の矛盾に就きて分疏し、秀忠も亦答書を與へて之を慰籍したりき。三月利長、横山長知及び有賀直政を大阪に遣り、家康に謁して和親を締せしめ、遂に芳春院を徳川氏に質たらしめ、之に代ふるに秀忠の女を利長の弟利常の配として迎へ、以て二氏の親眤を繋がんことを約し、芳春院も亦家門の存亡に關する大事なるが故に、敢へて關東に赴かんことを諾せり。

    是の月利長は大阪に於いて家康の盛饗を受く。蓋し利長の弟にして嗣子と定められたる利常は、曩に徳川秀忠の第二女珠姐の佳壻たるべきを約せられたるを以て、家康と利長とは互に姻戚の關係を有するに至りしも、當時國家多事にして未だ膝を交へて欵唔するの餘裕あらず。因りてこの事ありしなるべし。次いで十一月十日利長書を江戸の村井長頼に與へ、徳川氏に使して珠姫來嫁の納釆を上らしめき。

    珠姫は秀忠の次女(母はお江)で、姉に千姫、妹には松平忠直室の勝姫、京極忠高室の初姫、3代将軍家光、松平忠長、東福門院徳川和子(後水尾天皇中宮、第109代明正天皇の母)がいる。婚儀が無事終わった後、慶長7年正月に利長は江戸に赴き、御礼言上をしている。この時に拝領したのが「鍋藤四郎」という。

加賀藩世継  

  • 慶長10年(1605年)6月、2代藩主利長が隠居し利常が前田家の家督を継ぎ、第2代藩主となる。

    六月十六日利長退老の期將に近きに在るを以て、重臣に命じて誓書を上らしめ、次いで二十八日將軍の許諾を得て封を利常に讓り、越中新川郡二十二萬石を隱居領として富山に移り住めり。利長の從臣横山長知・篠原一孝・神尾之直・今枝重直・淺井左馬以下、皆今明年を以て邸を富山に構へ、而して城中殿閣の築造は、越えて十二年に至りしものゝ如し。

    是よりさき中納言利長卿の子猿千代利常首服加へ。從四位下侍從に拜任し。御家號を賜はり松平筑前守と稱す。大御所より長光の御刀。光包の御脇差をたまはり。御所より長光の御刀。吉光の御脇差をたまひしとぞ。

    ただし、元服し従四位下侍従兼筑前守に叙任されたのは慶長6年(1601年)、 松平の苗字を与えられたのは慶長10年(1605年)であるとされる。

  • 慶長19年(1614年)には生母千世(寿福院)がまつ(芳春院)の代わりとして江戸藩邸に上っている。
  • 利常は自ら襲封の挨拶を行い、加越能三ヶ国の領地判物を得ている。

    七月十三日利常の臣前田長種・奧村榮頼・水原左衞門は駿府に至りて命を請ひしに、家康は三人を召して、特に利長の遺領を利常に與ふることを告げ、且つその中三萬石を分かちて秀忠の女なる利常夫人が鉛黛の料に宛てしめき。家康又三人に告げて曰く、利常齡尚若し、汝等力を協せてこれを輔けよと。長種等感泣して退き、各加賀絹五十匹を献じ、又利長の遺品備前三郎の太刀及び不動正宗の脇指を上る。次いで利常は、自らその恩命を謝せんと欲し、九月十六日駿府に至り、即日家康に謁して黄金三百枚・紅染絹二百匹・白絹百匹・守家の太刀及び二字國俊の脇指を贈りしに、家康は報ずるに寺家の太刀長光の脇指とを以てせり。利常の從臣奧村榮明・奧村榮頼亦時服を献ず。この日哺時、本多正純・土井利勝繼目の朱印状を奉じて來り、之を利常に傳ふ。是に至りて加賀・能登・越中三國の領土、再び利常の併有する所となる。二十三日、利常江戸に至りて秀忠に謁す。利常の物を献ずること尚駿府に於けるが如くなるべしといへども、その品目は傳はらず。而して秀忠は利常に長銘正宗太刀を、奧村榮明に來國光の太刀を賜へり。この日秀忠も亦家康と同じく、三ヶ國永封の朱印状を利常に與ふ。是に於いて利常は、十月朔日を以て江戸を發し十一日金澤に歸城せり。

    この間のやりとりの整理
    慶長19年7月13日 加賀藩家臣より家康に利長の遺品「備前三郎の太刀」及び「不動正宗」の脇指を献上
    慶長19年9月16日 利常より家康に「守家の太刀」及び「二字國俊」の脇指を献上
    慶長19年9月16日 家康より利常に「寺家の太刀」と「長光の脇指」を下賜
    慶長19年9月23日 利常より秀忠に献上品不明
    慶長19年9月23日 秀忠より利常に「長銘正宗」の太刀、奧村榮明に「來國光」の太刀を下賜

    なお襲封の挨拶で江戸へ下る際に名古屋によっており、その際に本阿弥光瑳から「北野江」を買い上げている。

大坂冬の陣  

  • 慶長19年(1614年)大坂冬の陣では徳川軍中最大となる2万の兵を率いて参陣する。

    利常乃ち十三日を以て軍令を出し、又部署を定めて奧村永福を金澤城代とし、小松城に前田長種、大聖寺に近藤甲斐、七尾に三輪吉宗・大井直泰、魚津に青山長正、富山に津田義忠、今石動に篠原滿了を置き、本多政重・長連龍・前田知好・篠原一孝・山崎長徳・山崎長常・村井長光陣代・岡島一吉・富田重政・富田宗高等の諸將をして皆軍に從はしめき。當代記には、その兵凡べて二萬といへり。

  • 出発の際、馬取りが遅参してしまい、「軍神への生贄」として殺している。

    十四日利常將に城を出でんとせしに、圉人未だ至らざりしかば、直に奧村永福の馬に乘りて發せり。既にして圉人利常の馬を牽きて追ひ至りしに、利常は日比小兵衞に命じて之を斬らしめ、以て軍神の犧牲とせり。

  • 琵琶湖を通って近江大津にいたり、ここで家康の到着を待って合流した後、大坂に進軍し阿倍野に陣を布いている。

    利常小松に宿し、十五日大聖寺に入り、十六日越前麻生津に營せしに(略)
    利常は十七日麻生津を發し、終夜行軍の後、十八日朝近江の海津に著し、直に舟に乘じて琵琶湖を横ぎれり。この日使者名古屋に在りし家康の許に達し、利常の既に征途に上れることを告げ、十九日利常大津に至りて家康の來るを待つ。

  • 冬の陣では、真田丸に篭った真田幸村と対峙している。家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、12月4日丑刻(午前2時頃)、軍令に反し独断で真田丸に攻撃をかけ、結果的に井伊直孝や松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北した。

    十二月三日に至り、前田軍初めてその攻撃行動を開始す。この日家康、諸營を巡廻して前田軍に來り、利常に語りて曰く、この城急に薄るべからず、宜しく塹濠を穿ち掩堡を設けて長圍の計を爲し、大礮を城中に放ちて敵を苦しむべしと。利常乃ち之に從へり。然るに本丸の巽に方百聞許の出丸ありて、眞田幸村之に據りしが、幸村の兵その南なる伯母瀬の柵山又は笹山と稱する小丘に出でゝ、前田軍を銃撃するものあり。利常乃ち高所に登りて之を觀望せしが、諸將或はその危からんを憂へ、利常に勸めて山下に避けしめんとせしも、利常は泰然胡床に倚りて動かざりき。山崎長徳乃ち進みて曰く、今日風威甚だ凜烈、若し主將の病に冐さるゝあらば、我が軍の不利是より甚だしきはなし。請ふ共に低所に下らんと。利常之を容れ、徐歩してその所を去れり。是に於いて先鋒の將本多政重等、敵の爲す所を惡み、翌朝未明を以て伯母瀬山を奪取せんと期したりき。

大坂夏の陣  

  • 翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、岡山口(四条畷市)の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれた。

    奧村易英・三輪長好二人を金澤城代とし津田重久を大聖寺に、岡島一吉を高岡に、津田義忠を富山に、三輪吉宗・大井直泰を七尾に置き、十八日金澤を發して出征の途に上れり。從軍の將士一萬五千と稱す。(略)この夜家康は使を松平忠直の營に派し、明朝天王寺に向かひて家康軍の先鋒たるべきを命じ、利常も亦同時に岡山口の秀忠軍の先鋒たるべき命を得たり。

  • 大坂方の大野治房軍4000人と戦い、苦戦しながらも勝利した。

    七日敵兵皆城より出でゝ戰陣を張り、眞田幸村は茶臼山に、毛利勝永は天王寺に、大野治房は岡山に在り、而して大野治長等は後軍と爲れり。利常亦久寳寺より岡山口に進む。(略)時に越前の先鋒本多富正・吉田好寛等、敵將眞田幸村の軍と交刄す。利常之を視て亦急に攻撃を加へしむ。是に於いて本多政重・横山長知・長連龍・山崎長徳・富田重政等の諸隊、皆喊聲を揚げて先を爭ひ、殊に伴雅樂助・篠原織部・野村左馬允・丹羽織部等の勇士は、鑓を揮ひて大野治房の陣を襲ひ、北ぐるを追ひて進みしに、敵の後軍之を見て瓦解し、利常の兵は隍塹を越えて城壁に攀登せり。

  • この時前田軍は、松平忠直軍に次いで3200の首級をあげている。

    大坂の士北村五助等乃ち矢丸を集めて之を防ぎしかば、前田軍の死傷甚だ多かりしも、勇を皷して進み、その斬馘する所實に三千二百餘級に及びたりき。

  • 大坂の陣の終了後、家康から与えられた感状で「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国」を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してこれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んだという。これに対して家康は、閏六月十九日に利常を参議に進めることで増封に代えている。
  • この年、嫡男前田光高が金沢城で誕生している。
  • 翌元和2年(1616年)家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという。
  • 元和3年3月(1617年)に江戸に下っており、5月13日には将軍秀忠が加賀藩邸に御成になっている。この時、「浅井一文字」や「平野藤四郎」を拝領している。

    十三日松平筑前守利常の邸に渡御あり。(略)廣間へ成せられて利常へ守家の御太刀。一文字の御刀。平野藤四郎の脇差。(此御脇差は中納言利長さきに献ぜし所なり。)

  • この年、前田利家の正妻である芳春院が死去している。また元和8年(1622年)には正室珠姫が24歳で死んでいる。
    珠姫は利常との間に三男五女を設ける。この死には、外様大名筆頭の前田家に幕府の情報が漏れることを恐れた珠姫の乳母が、五女の出産後に体調がよくないという理由をつけ隔離したことによるという。事情を知らされなかった珠姫は、利常の寵愛が薄れたためと誤解し衰弱死したという。死の床に駆けつけた利常は事情を悟ると激怒し、乳母を蛇責めにしてにして殺したという。法号天徳院。野田山墓地に葬られている。

寛永の危機  

  • 寛永6年(1629年)4月23日、3代将軍家光に従って上洛し、従三位権中納言に叙せられ、肥前守に任じられる。この時諱を利光から利常と改めている。
  • 寛永8年(1631年)大御所秀忠の病中に金沢城を補修、また家臣の子弟で優秀な者を選んで小姓にしたり、大坂の役の際に勲功があったとして追賞したり、他国より船舶を盛んに購入するなどの行動を行った。このため、利常には大御所の病中に乗じた謀反の嫌疑をかけられる。

    この年七月前將軍秀忠疾みしを以て、利常は江戸に至りて之を訪ひ、八月國に就きしが、同月臣僚の子弟にして身躰強健事に堪ふる者を擇びて小姓とし、十月には先の大阪役に勳功ありし者を調査して之を追賞し、多く船舶を他國より購ひ、且つ今夏災に罹りたる金澤城を修して大に隗堞を鞏固にする等、白眼を以て之を見ればその行動稍疑ふべきものなしとせざりき。是に於いて、加賀侯前將軍の不豫に乘じて不軌を圖らんとすとの流言頻に江戸に行はれ、而して幕府も亦頗る之に關心すとの密報を得たり。

  • しかし自ら嫡男前田光高とともに江戸に下り、また家老の横山長知の子の康玄の奔走もあり懸命に弁明した結果、からくも疑いを解くことができた。

    利常は世子光高と共に十一月二十五日金澤を發し、康玄も亦從ひて十二月十日江戸に入り、その到著を閣老に告ぐ。而も將軍は容易に引見を許さゞりしを以て、利常はその異心なきを明らかにせん爲、大に土、木を興して本郷邸の園池を修めしに、巨石花卉を運搬するもの内外に絡繹し、頗る人目を聳動せしめたりき。(略)(横山)康玄の論辯流るゝが如く、毫も凝滯する所あらざりしかば、(土井)利勝は首肯して事理最も明白なりとなし、直に席を立ちて入り、康玄も亦辭して藩邸に歸れり。この日利常、邸に在りて連りに康玄の還るを待ちしが、その顚末を聞くに及びて大に喜び、彼が勳勞の偉大なるを稱し、子孫に至るまで決して忘るべからずとなし、遂に康玄の手を執りて額に中てたりき。後利常、光高と共に召に應じて登營し、幕府の疑始めて氷釋せり。

  • 翌寛永9年正月、将軍秀忠薨去。この時利常は「松井貞宗」、また世子光高は「中川江(中川義弘)」を拝領している。

    後秀忠の遺物を諸侯に分かつに及び、利常は松井貞宗の刀及び銀一萬枚、世子光高は中川義弘の刀を受く。

内政  

  • 寛永8年(1631年)には金沢城で火災があり、この時に水利を見直し板屋兵四郎を抜擢して辰巳用水を開削させている。小立野台地上にある金沢城は構造的に水利が悪いため、犀川上流の金沢市上辰巳より取水したのち4キロものトンネルを経て小立野台地に導き、兼六園の園内の曲水とする。そこから導水管を用い地形の高低差を利用する(伏越の理(ふせこしのことわり))ことで外堀をくぐらせて金沢城内に水を供給、さらに金沢市内にまで水を供給することに成功した。この辰巳用水は現在でも運用されており、兼六園内に水を供給している。
  • 十村制、改作法など農政事業を行い「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いている。また御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励した。

隠居  

  • 寛永10年(1633年)には嫡男前田光高の正室に家光の養女阿智姫(水戸徳川家の徳川頼房の娘)を迎え、寛永16年(1639年)6月20日に嫡男の光高に家督を譲って隠居している。
    この時3代将軍家光が利常に贈ったのが「和歌山正宗」である。2年後、三女満姫が、家光の猶子として安芸広島藩2代藩主浅野光晟に嫁ぐ時に、利常はこれを婿引出として光晟に贈っている。
  • また寛永12年には満姫を徳川家光の養女として浅野光晟に嫁がせている。

    この年九月二十日家光は利常の三女滿姫を養ひて、十一月これを廣島侯淺野光晟に嫁せしめ、之と同時に家光の贅壻たる光高の威福は益柳營に重きを爲すに至り、同年十月家光が板橋に遊獵を試みたる際の如き、光高これと手を携へて歡語せりと傳へらる。

  • この時、次男の前田利次に富山藩10万石、3男の前田利治に大聖寺藩7万石を分封し、20万石を自らの養老領として小松に隠居した。のち小松中納言と呼ばれる。

    利常又請ひて、次子利次に十萬石を割きて富山城に居り、三子利治に七萬石を頒ちて大聖寺に舘せしめ、三藩鼎立して緩急相援くるの計を爲し、自ら致仕領廿萬石を領せり。是を以て光高の領する所は八十萬石餘を殘し、而して政務の重大なるものは必ず先づ老侯に問ひて後之を處決したりき。

  • 寛永18年、光高が東照宮を金沢城に勧請した時には、その仲介をした酒井忠勝に礼状を贈る傍ら、光高に対しては軽率であると注意をしたと伝わる。

    都而國主は國の末代を心に懸仕置をするが肝要也。若し天下改り、家康公何事の儀出來する時は、造替すべく先づ何れへ遷宮致すべき哉。かやうの堂などは城外二三里も脇に營作可レ然。

  • 寛永19年(1642年)4女の富姫が八条宮智忠親王妃となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交している。
    この時、富姫の話し相手として前田利政の娘を利常の養女として中納言竹屋光長に嫁がせている。
  • のち小松に隠居し小松中納言と呼ばれる。院の中宮徳川和子は正室珠姫の妹に当たるため、利常と院は義兄弟関係にあった。八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力したのを機に京風文化の移入にも努め、「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化を開花させた。
  • 正保2年(1645年)4月、嫡男光高が急死し、跡を継いだ前田綱紀が3歳とまだ幼かったことにより、6月に将軍・家光からの命令で綱紀の後見人として藩政を補佐した。
  • 綱紀の正室には将軍家光の信頼厚く幕府の重鎮であった保科正之の娘摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めた。
  • 万治元年(1658年)10月12日に死去。享年66。

    天守臺の築造と嫡孫婚姻の二大事既に終りたる後、利常は頗る心に安んずる所あり、この年九月十一日江戸を發し、二十三日小松に歸りしが、十月十一日玄猪の祝賀を擧げ、その夜八ツ時分腦溢血を發して暴かに薨去せり。之を以て忌辰は十二日とせらる。

  • 法名は微妙院殿一峯克巌大居士で、微妙公と呼ばれる場合もある。

寛政重脩諸家譜  

  • 慶長10年(1605年)5月、松平御称号、従四位下侍従、筑前守。家康より長光御刀、光包の御脇指、秀忠より長光の御刀、吉光の御脇指。
  • 9月9日少将。秀忠より長銘正宗の御脇指。16日駿府にて家康に備前三郎の刀、不動正宗の脇指を献ず。
  • 元和2年(1616年)家康の遺物貞宗の御刀
  • 元和3年(1617年)5月13日秀忠が利常邸に御成。守家御太刀、一文字御刀、平野藤四郎御脇指賜る。利常より守家の太刀貞宗の刀、新身藤四郎の脇指を献ず。
  • 寛永6年(1629年)4月23日、肥前守。秀忠より則国の御脇指賜い、貞宗の御脇指を献ず。家光より来国次の御脇指賜い、吉光の脇指を奉る。
  • 26日家光、加賀藩別邸に御成。二次国俊の御太刀、秋田正宗の御刀賜い、利常より友成今の呈譜大友の太刀、大原真守の刀、長銘正宗の脇指を献ず。
  • 29日秀忠別邸に御成。筑紫正恒の御太刀池田貞宗の御脇指を賜い。利常より行平太刀、吉家の刀、戸川志津の脇指を献ず。
  • 寛永9年(1632年)秀忠遺物後藤正宗をたてまつる。※拝領?
  • 「これより先」利常参勤のおりから郷の御刀、富田郷の御刀、鳥飼国次の御脇指、貞宗朱判の御中脇指、戸川国次来国次の御脇指を賜う。
  • 12月13日家光の姫君を光高に嫁がせるべきの旨、仰せ。
  • 19日利常、光高ともに登営して謝したてまつり、貞宗の御脇指をたまう。
  • 寛永10年(1633年)12月5日入輿。御前に召されて和歌山正宗を拝受。利常より行平太刀、五月雨郷の刀、八幡正宗の脇指を献ず。
  • 寛永13年(1636年)中堂来の御脇指を賜う。
  • 寛永17年(1640年)3月28日家光別業に渡御。正宗の御刀をたまう。利常は切刃貞宗の脇指を献ず。
  • 正保3年(1646年)7月10日家綱より吉光の御脇指拝賜。
  • 慶安元年(1648年)5月25日、御脇指をたまう。
  • 「これよりさき」、家光より桝屋郷の御刀、桑原光包の御脇指を拝賜。
  • 寛永10年(1633年)2月23日「前田利常、海中より得たる刀剣を徳川家光に献ず」

刀剣  

  • 加賀藩前田家は120万石の大藩で、かつ加賀本阿弥家を召し抱えている関係もあり、名物刀が多い。中でも利常には関係する刀剣が多数存在する。下記はその一部。
小松正宗
利常の愛刀。極めをめぐって二転した後正宗になっている。佐野美術館所蔵。
平野藤四郎
元和3年(1617年)3月12日、前田邸に将軍秀忠が渡御の際に拝領。御物
北野江
襲封の挨拶後、京都北野で手に入れた刀。東京国立博物館所蔵
戸川来国次
戸川肥後守達安から買い上げ、寛永6年(1629年)4月29日に加賀前田利常の別邸に大御所秀忠御成の際に献上。明暦の大火で焼失。
戸川志津
同様に大判百三十枚か小判千両で買い求め、寛永6年(1629年)正月、将軍秀忠が加賀黄門利常の別邸に御成の際に献上。徳川美術館所蔵
朱判貞宗
寛永9年(1632年)以前に徳川秀忠から小松中納言前田利常が拝領。重要文化財ふくやま美術館所蔵
五月雨江
寛永6年(1629年)正月、前田利常が筑前守から肥前守に叙任された際に拝領。重要文化財徳川美術館所蔵
会津新藤五
蒲生氏郷が所持、のち利常が金百枚で購入。国宝ふくやま美術館所蔵
乱光包
本多安房守政重から利常に献上。重要文化財。財団法人日本美術刀剣保存協会
富田江
秀吉から利家、秀忠に献上するが遺物として利常が拝領。国宝前田育徳会所蔵
丈木
利常愛用の刀。井伊美術館所蔵
御掘出貞宗
家康が伏見で掘り出し、今際の際に家康より拝領した刀。重要文化財
有楽来国光
織田有楽斎から本阿弥光甫の取次で前田利常が購入したもの。国宝。個人蔵
篭手切正宗
大津伝十郎から佐野修理大夫信吉、利常買い求め。東京国立博物館所蔵

関連項目