勝姫
天崇院勝姫
徳川秀忠三女
松平忠直正室
高田様、高田の御方
号 天崇院
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生涯
- 慶長6年(1601年)5月12日、江戸城西の丸にて誕生。母はお江(崇源院。浅井長政の三女)。
┌松平忠昌──────────────────松平光通 │ 登佐姫(毛利秀就女) │ ┬結城秀康──┴松平忠直 ├───────┬松平綱賢 │ │ ├───┬松平光長━━松平宣富├国姫(松平光通正室) └徳川秀忠──┬天崇院高田様├鶴姫(九条道房室) └稲姫(伊達宗利正室) └東福門院和子├閑(小栗正矩室) │ └亀姫(宝珠院寧子) 後陽成天皇 ┌後水尾天皇 ├───┬明子女王(後西天皇女御) ├───┴──高松宮好仁親王 └女二宮高琳院 近衛前子
- 九条完子(豊臣完子)は異父姉、千姫・珠姫は実姉、徳川家光・徳川忠長は実弟、保科正之は異母弟、初姫・東福門院(和子)は実妹にあたる。
- 以下、「高田様」で通す。
自らの屋敷が高田馬場にあったため(「高田様と申候は、江戸へ御下向後御屋敷高田馬場に有之故にや」)、あるいは子・光長の越後高田藩にちなむという。
なお高田馬場は武田信玄の古くから馬場に適した高台であったとされるが、馬場が築かれたのは寛永13年(1636年)3月5日とされる。
いっぽうで同地が「高田」と呼ばれだしたのは、結城秀康の弟である越後少将松平忠輝(高田殿)の母・茶阿局(同じく高田殿)の遊覧の地であったためという。※忠輝が川中島に加えて高田を拝領したのは慶長15年(1610年)。高田城を築城開始したのは慶長19年(1614年)とされる。元和2年(1616年)家康が薨去するとまもなく忠輝も朝熊山へと配流された。越前高田の変遷については「松平忠昌」の項を参照。
松平忠直正室
- 高田様は、従兄にあたる松平忠直の正室となった。
- 慶長14年(1609年)婚約。
- 慶長16年(1611年)9月5日に江戸を出発、11~18日まで駿府で祖父家康の饗応を受け(咳気を催したので滞在が延びたという)、9月28日に越前北之庄に入った。
※江戸発が11日で、駿府に2日泊まり、18日に駿府を発したともいう。いずれにしろ江戸から駿府までかなり日数を掛けている。10月19日、護衛をした土井利勝が駿府に戻り、家康に報告。
- 福井藩主松平忠直と婚儀(徳川諸家系譜)。北ノ庄城二の丸に住んだという。
- この時に父・秀忠より「童子切安綱」を守り刀として拝領し、越前家に持ち込んだとされる。
大御台様(※お江)ゟ高田様へ被進由
一、童子切刀 太刀拵一通り有 伯耆国安綱作台徳院様ヨリ高田様へ御守刀ニ進セラル依之越後中将光長公ニ有之也
- 2人の間には、元和元年(1615年)11月29日に仙千代(光長)、元和3年(1617年)4月5日に長女・亀姫、元和4年(1618年)6月に次女・鶴姫が生まれた。
忠直配流
- 夫・忠直は大坂冬の陣・夏の陣以後、元和4年頃から参勤を怠るようになり、病気を理由に参勤交代の途中今庄から引き返したり、また日光で営まれた家康の法要に参列しなかったりした。
- 元和8年(1622年)には高田様付の者のうち黒田局と阿蔦などを斬殺したという。
(元和八年)十月八日公、宮女黒田局及阿蔦ヲ手刃ス、公近頃躁急ノ疾アリ、是日種々憤怒ノ余夫人及長姫ヲ殺ントス、宮人其機ヲ察シ黒田局・阿蔦ト進ンテ夫人ニ代ラント乞フ、夫人許サス、二人固請テ不止、終ニ夫人ノ衣ヲ着テ薄暮廊ヲ歩シテ公ノ所ニ至ントス、公長刀ヲ持シテ夫人ノ来ルヲ待ツ、二人ノ至ルヲ見テ直チニ黒田ヲ胴切、阿蔦ヲ筈切ニ斬果サル、城中騒擾、諸老臣聚リ会テ公ヲ居室ニ幽シ、交番監護ス、本多飛弾守走テ事情ヲ江戸ニ訴フ、
- このため忠直は、元和9年(1623年)2月「国中政道も穏やかならず」との理由で秀忠から豊後国での隠居を命じられ、9歳の仙千代(光長)が後を継いだ。
- 本多成重が江戸に行き、将軍の命を受けた生母中川氏(清涼院)が福井に来て、隠居して西国に蟄居し、光長に家督を譲るべく諭したという。
- ※この時、忠直は勝姫を豊後に連れて行こうとし、それを聞いた(察知した)秀忠が「越前の猖狂者未止まざるか」と笑った、あるいは勝姫は忠直が城を出る前に竹輿に乗せ侍女に扮して城を出たなどの逸話が伝わる。ただし福井藩でも「未孰かこれなることを知らず」と記す。
- 閏8月、秋元泰朝および近藤石見守秀用が迎えに来て、光長及び女子2人(長女・亀姫、次女・鶴姫)と共に江戸に下ったという。
- 翌寛永元年(1624年)4月、仙千代は越後高田藩25万石に移され、代わりに忠直の弟で高田藩主であった松平忠昌が福井藩を拝領となった。※領地交換の形
寛永元年甲子春三月、公(忠昌)召されて登城す。老中班列し土居大炊頭利勝予め公に越藩を襲ぐを告ぐ、其詞に云ふ
(略)
公(忠昌)仙千代(光長)君の在るを以て肯かず、利勝公制仙千代君の事に及ぼし難きを以て之を強ふ、公肯かずして云ふ、仙千代を捨てざるの台意ならば、当さに謹で命を奉ずべし、然らずんば之を奉ぜずと、茲に於て老中公をして帰邸せしむ、翌日より公病と称して出でず(時流言区々)、十五日召されて登城す、老中予め公の前に言ふ如く、台意仙千代を捨てざるを告ぐ、而して後公召されて台前に至り、本家を継がしめ、越前の国城を賜ふ、公の封ぜられし越後高田二十五万石を以て、高田君(勝姫)の御化粧田となす、高田君之を仙千代君に譲らんと請ふ、将軍家之を許す、 - この時、「童子切安綱」については高田様預かりとなる。まだ仙千代(松平光長)が幼少であったため、高田様(天崇院勝姫。徳川秀忠三女)へ預けたのだという。そのため、鞘書きに女の字で文字が入る(御鞘書女筆ト見ヘテ)という。
表 童子切貳尺六寸五分
裏 鎺元ニテ壹寸横手下ニテ六分半重子厚サ貳分童子切御鞘書ノ事前ニモ記スガ如ク、表ニ童子切貳尺六寸五分、裏ニ鎺元ニテ壹寸横手下ニテ六分半重子ノ厚サ貳分ト有之。熟々遂拝見候処、此御鞘書女筆ト見ヘテ男子ノ筆跡ニアラザル歟、疑クハ 高田様御筆ナルニヤ如何ト申スニ御傳來書ニ 高田様に宰相方ゟ守太刀として預ケ被置候ト記サレタリ。是ハ考フルニ 西岸院様豊後府内ノ地へ御事アリシ時 恵照院様元和元己卯年十一月越前北庄ニ御誕生有リ同九癸亥年九歳ノ御時 西岸院様府内ノ地ヘ御移リアリシナリ未ダ御幼稚ノ御事故 高田様ヘ彼童子切御太刀ハ第一ノ御寶器故御守太刀トシテ御預リ御座候様ニト申御事被 仰越候節 高田様御手自御鞘書被成御事ナルベシト推シ考ヘラレ候。余ノ婦人ノ手ニ觸レ申ベキ理ナシ
江戸へ
- 高田様は、寛永元年(1624年)8月、仙千代、妹らととともに北之庄より江戸へ出府。
- ※ただし越藩史略では、6月23日より7月2日に萩田、小栗、岡島、本多監物、片山、本多七左衛門、野本ら家臣が仙千代(光長)に従い越後に移ったと記す。
- 寛永3年(1626年)6月頃まで江戸城本丸で過ごし、その後仙千代は高田藩麴町邸に、高田様は牛込川田ケ窪の屋敷に移り住んだ。
慶長十年江戸ノ山手ニ於テ邸第ノ地ヲ賜フ。(略)公ハ斯邸ニ入ニ及ハスシテ薨去シ給ヒ、其後伏見ノ邸宅ヲ移シテ経営シ、二世公(忠直)三世公(光長)ハ居住シ給フ。世ニ麹町屋敷ト云フ。
其後仙千代(光長)年稍成長候て、糀町之居邸に移住申候。高田殿(勝姫)ニも後年於牛込居邸従公儀之御普請ニて住居。則當時之高田屋敷ニて御座候。
麴町邸は、元は結城秀康が慶長10年(1605年)に拝領した屋敷地。
また牛込川田ケ窪は秀忠肝煎りで普請された屋敷。
- 寛永9年(1632年)2月7日薨去した秀忠の遺物。
二月廿六日台徳院公御遺物トシテ、宗瑞正宗ノ小脇差及び白銀三千枚ヲ賜、小判金一万両・白銀一万枚ヲ太夫人ニ賜フ、
- 11年後の寛永11年(1634年)2月に越後高田に入った。
- 慶安3年(1650年)に忠直(一伯)が死んだ後も「高田様」(高田の御方)と呼ばれ、院号などで呼ばれなかった。
- 慶安3年(1650年)4月20日家光薨去。6月18日遺物として金五千両、葉茶壺を賜う。
- 高田様は光通の死の前、寛文12年(1672年)に江戸の牛込川田ケ窪の屋敷で死去、享年72。墓所は東京都港区の西久保天徳寺。戒名は天崇院穏誉泰安豊寿大善女人。
関係諸藩での問題
越後高田藩(子・光長)での問題
- 越後高田藩には世継である松平綱賢(松平光長子、高田様孫)がいたが、家督を相続する前である延宝2年(1674年)に42歳で死去し、世継問題が勃発する。
- 重臣たちの協議により甥に当たる永見万徳丸を世継とし、元服して4代将軍家綱から偏諱をもらい松平綱国と名乗り、三河守に任官した。ところがこの縁組を巡って家臣間で争いが勃発し越後騒動へと発展した。
- 結局5代将軍綱吉の将軍直裁で行った結果、高田藩は改易となり、光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩に配流されることとなり、藩士らにも大量の処分者を出した。また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲広瀬藩主・松平近栄(松平直政の次男。3万石→1万5,000石)・播磨姫路藩主・松平直矩(松平大和守家、松平直基の長男。15万石→豊後日田7万石)が連座して処分となった他、幕閣にも多数の連座を出した。
福井藩(孫夫婦)への介入
- 高田様は、孫に当たる国姫(光長の娘)を福井藩の松平光通に嫁がせるために強く工作を行うが、福井藩を警戒する幕府の思惑などもありうまく行かず、家光亡き後の承応4年(1655年)に結婚を成立させた。すでに両者ともに19歳となっていた。
- 2人の間には女子が2人しか生まれず、また側室との間に男児・権蔵(のち越後糸魚川藩祖の松平直堅)が生まれてしまったためさらに高田様の圧力は強まり、ついには起請文を書いてまで国姫に男子を産むように迫る。
- 35歳になっていた国姫は、これを苦にして寛文11年(1671年)に自殺してしまう。さらに光通自身も(権蔵が出奔するなど)精神的に追い詰められた結果、延宝2年(1674年)に39歳で庶弟の松平昌親に家督を譲るようにとの遺書を残して自殺した。享年39。
系譜
勝姫長男・松平光長
- 元和元年(1615年)生まれ。
- 仙千代。
- のち越後高田藩の初代。
- 「松平光長」の項を参照
勝姫長女:亀姫(高松宮好仁親王妃、宝珠院)
- 父は松平忠直、母は勝姫。
- 元和3年(1617年)、越前北荘城にて生まれる。
- 外祖父・徳川秀忠の養女となり、寛永7年(1630年)に高松宮(有栖川宮)初代である好仁親王妃となった。11月に江戸城を発す。
高松彈正尹好仁親王御息所二條御城より入興
- 明子女王(後西天皇女御)・女二宮の二女をもうけた。
- 「寧子」、号 宝珠院。
「高松宮(高松殿)」の号は、好仁親王の祖母の新上東門院(勧修寺晴子。誠仁親王の女房で後陽成天皇の生母)の御所高松殿に由来する。
- 寛永15年(1638年)に好仁親王(享年36)が没し、落飾して宝珠院と号した。承応2年(1653年)に越後高田に移住する。本丸東郭内に起居した。
承応二年癸巳冬、二宮を伴て越州高田ニ帰居
- 延宝9年(1681年)、65歳で死去した。越後高田の長恩寺(現、天崇寺)に葬られる。法名は宝珠院光誉寥郭冲意大姉。
延宝九年辛酉正月十七日、越州高田ニ薨、年六十五、同所長恩寺ニ葬、
亀姫長女:明子女王(後西天皇女御)】(勝姫孫)
- 父は高松宮好仁親王(二品、弾正尹)、母は勝姫長女・亀姫。
- 父王である好仁親王は寛永15年(1638年)に男子の無いまま薨去。このため、後水尾天皇第6皇子の秀宮を親王宣下して良仁親王(ながひとしんのう:のちの後西天皇)となし、高松宮を継承させた。その良仁親王の妃に明子女王は内定する。
- 慶安4年(1651年)良仁親王の元服に伴い婚儀が行われ、御息所となり、3年後の承応3年(1654年)6月に八百宮(後の誠子内親王)を産む。同年9月20日、後光明天皇が崩御、本来高貴宮(霊元天皇)が皇嗣と定められていたが、高貴宮はまだ幼少であったため、後光明天皇の兄弟で出家していない良仁親王が皇位に就くこととなった。
- 親王は同年11月に践祚し、明暦元年(1655年)1月に即位する。明子女王はその年の5月14日に長仁親王(後、八条宮を継承する)を産む。後西天皇即位後、明子女王は女御宣下のないまま女御と称されていたが、明暦2年(1656年)に女御宣下される。
- 明子女王は延宝8年(1680年)7月8日、病が元で43歳で薨去。諡は妙吉祥院聖補義英太夫人。墓所は大徳寺龍光院。
亀姫次女:女二宮・高琳院(勝姫孫)
- 父は高松宮好仁親王(二品、弾正尹)、母は勝姫長女・亀姫。
- 名前が伝わらず「女二宮」とだけ書かれる。「高松殿二宮様」※高松殿は高松宮の意。
好仁親王第二王女、御名竝に御誕生の年次詳ならず。ただ二ノ宮と稱す
- 父王である好仁親王は寛永15年(1638年)に男子の無いまま薨去。承応2年(1653年)に母と共に越後高田に移徙し、城内三の丸新殿に起居する。
承応二年癸巳宝珠院殿を伴て越州高田へニ帰居
- 延宝9年(1681年)に母方の叔父にあたる松平光長が改易されると、江戸川田ケ窪(高田様屋敷)へと移徙。
天和元年光長卿、松山ニ往来後、将軍家之命ニ因て同年七月廿七日高田を発、八月五日江府ニ到、高田邸に住す、
好仁親王の第二王女は、御母と共に高田におはせしが、曩に御母に永訣して未だ半歳を経ざるに、今又、従兄光長の家断絶せしかば、江戸に移徙し、川田ケ窪の邸に住せらる。
- 光長改易の際に諸道具類を預かったのがこの女二宮(高松殿二宮様)である。詳細は「童子切安綱」の項を参照。祖母勝姫の川田ケ窪の屋敷などを拝領している。
外祖母勝子の遺蹟川田ケ窪の邸第高田邸と稱す竝に光長の家財を贈呈する旨を告げたり。斯くて宮は川田ケ窪の邸に餘生を送らせらる。
- 貞享4年(1687年)松平光長が許され、12月に伊予松山より江戸柳原邸に戻ると、元禄元年(1688年)正月28日幕府は光長に高松殿二宮様の奉仕を命じたことからこれらの道具類も光長へと返却された。
越後様諸道具、不殘先年 宮様江被遣候所、今度御歸參目出度、營々依之道具共彼方様江被進度候
正月廿八日、幕府は將來宮の奉仕を光長に命じ、合力米及び邸第を宮に上ること故の如し。依りて二月四日、光長の家財を返戻せらる。爾來、光長の柳原邸と春秋季節等の音問絶えざりき。
- 元禄11年(1698年)9月6日の勅額火事で光長の柳原藩邸(元誓願寺前上屋敷)が類焼し、二宮の高田邸に逃げ込んでいる。
九月六日、江戸大火、光長の邸亦類焼す。因りて光長は其の室と共に難を浅草の福寿院に避け、更に谷中に移り、遂に宮の邸に至りて滞留す。十月十六日、邸内御茶屋普請落成に就き宮これに移徙せられ、十二年二月二十三日に至りて光長宮邸より新築の邸に歸る。
- 元禄13年(1700年)7月20日より風氣で病に伏し、奥山立庵が診察、8月27日に野田常庵・岡端伯が診察。9月5日薨去。諡は高琳院殿松譽螢月圓清大禅貞尼。墓は西久保天徳寺。のち昭和2年(1927年)に高松宮の台旨によりて墓を小石川豊島岡(豊島岡墓地)に移された。
- 女二宮の遺物として、光長に茶入、掛物相阿弥二幅、屏風一双。松平宣富に青磁香爐、雪舟掛物一幅、梨子地香盆。その室に遊行上人筆古今重箱、松平三河守(光長の養子・松平綱国)に実性院宮筆千載集、香合。伊達宗利(光長の娘・稲姫が正室)に後奈良天皇宸筆、百人一首。その室(稲姫)に好仁親王筆掛物、烏丸光堅歌五巻。伊豆氏に飛鳥井頼孝筆名所和歌一冊。松平綱近(松江藩3代、祖父忠直の弟忠昌の娘・亀姫が綱近母で、はとこの関係)に聖護院宮筆伊勢物語一冊。
- 判明している範囲の年表
- 京都(高松宮好仁親王邸)で生まれる生年不明
- 寛永15年(1638年)に父である好仁親王が薨去
- 承応2年(1653年)に母と共に越後高田に移徙。城内三の丸新殿
- 延宝9年(1681年)叔父光長改易、江戸川田ケ窪(高田様屋敷)へと移徙
- 貞享4年(1687年)光長赦免
- 元禄11年(1698年)勅願火事で叔父が逃げ込む
- 元禄13年(1700年)9月5日薨去
- ※父・高松宮好仁親王が死去してから、自身が死去するまでだけで62年間経過している。
勝姫次女:鶴姫(九条道房室、廉貞院)
- 父は松平忠直、母は勝姫。
- 元和4年(1618年)、越前北荘城にて生まれる。
- 徳川家光養女となり、寛永9年(1632年)に九条道房正室となった。11月3日江戸城を発す。
九條關白通房卿政所二條御城より御入輿
- 「長子」、号 廉貞院。
- 寛文11年(1671年)54歳で死去。
- 5人の子に恵まれた。
- 長女:愛姫 - 浅野綱晟正室。子に浅野綱長(広島藩4代)。
- 次女:令姫 - 東本願寺常如光晴室
- 三女:梅姫 - 松平綱賢室。嗣子なく綱賢が死んだため越後騒動が起こる。
- 四女:待姫 - 九条兼晴(九条道房の婿養子)正室。九条輔実(摂政関白)を生んだ。
- 五女:八代姫 - 浅野綱晟継室。子に備後三次3代・浅野長澄(備後三次藩2代浅野長照の養子)、本多忠常正室。
高田様屋敷(牛込川田ケ窪邸)
(二宮様引き継ぎ時)8214坪余
うち4445坪年貢地
- ※図面を見る限りでは、二宮様引き継ぎ前後で面積の変化はないように見える。それ以前(勝姫別墅時代)と変化があったのかどうかは不明。
牛込川田ケ窪別墅
- 元は、寛永3年(1626年)に高田様(勝姫)のために建てられた別墅。
六月廿六日、是頃高田城主松平光長母徳川氏勝姫別墅を牛込ニ賜ヒテ之に移居ス。
廿六日寛永三年六月越前宰相忠直松平三河守室公ノ御娘別墅ニ寓居在ルニ依テ仰出サルヽ御條目。
所謂牛込別墅ハ、今ノ市内牛込區喜久井町浄泉寺ノ西北ニ隣ル地ニシテ、御府内場末沿革圖書牛込ノ内
松平越後守抱屋敷延寶九酉年中抱屋敷上ケ地、二宮御方屋敷ニ成。共、
地續ニ候處、右地所ノ内延寶九酉年九月、前書松平越後守抱屋敷上ヶ地
二宮御方屋敷此屋敷元禄年中ゟ松平備前守(當時越後守)屋敷ニ
成候由ニて、當時同人下屋敷ニ有之に成。
ト記シ、延寶初之形「松平越後守抱屋敷」、延寶九酉年之形「二宮御方」、元禄十三辰年之形同十五午年之形「松平備前守」、寶永三戌年之形以後「松平越後守」ト爲ス者是ナル可シ。謂フ所ノ二宮御方ハ、高松宮好仁親王第二女、
延寶九年ヨリ住シテ此邸ニ在リタル者ナル可シ。
- 松平忠直(一伯)が豊後に配流されて高田様が江戸に戻ったのが寛永元年(1624年)であり、その後寛永3年(1626年)頃まで江戸城本丸で過ごしたという。その後、この屋敷が用意され移ったものとみられる。仙千代は高田藩の麹町藩邸へ入っている。
- のち越後高田に移っているが、寛文12年(1672年)に亡くなったのもこの高田殿屋敷(牛込川田ケ窪)である。
- こののち、延宝初には「松平越後守抱屋敷」となっていた。
二宮御方屋敷
- のち延宝9年(1681年)6月21日に松平光長が配流されると、今度は光長の姪(高田様の孫)にあたる「高松殿二宮様」が越後高田より移徙している。
天和元年光長卿、松山ニ往来後、将軍家之命ニ因て同年七月廿七日高田を発、八月五日江府ニ到、高田邸に住す、
延寶九酉年
九月十四日渡。松平越後守抱屋敷上ヶ地。
一、牛込川田ケ窪八千貳百拾四坪貳合九才 二宮御方
但、建屋長屋共。内、四千四百四十五坪壹合御年貢地、野村彦太夫御代官所。
- 光長改易の時に38点の物品については構え無しとなったため、「高松殿二宮様」にこれらの道具を送るよう手配している。
- 改易で請取確認が行われたのは越後高田城本丸広間で、送られたのは、二宮様が当時居た牛込川田ケ窪の高田様屋敷と思われる。
- ただし取り込んでいたため、実際の受け渡しは翌天和2年(1682年)3月晦日および4月1日の両日に行われたという。
- 貞享4年(1687年)に光長が赦免されると光長は柳原屋敷に入っている。幕府は光長に高松殿二宮様の奉仕を命じたことからこれらの道具類も光長へと返却された。
越後様諸道具、不殘先年 宮様江被遣候所、今度御歸參目出度、營々依之道具共彼方様江被進度候
- 元禄13年(1700年)7月20日より高松殿二宮様は風氣で病に伏し、9月5日薨去。
- のち「津山藩江戸藩邸」となる。「美作津山藩松平家の江戸藩邸#高田下屋敷」
項を参照
関連項目
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