戸川志津


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 戸川志津(とがわしづ)

短刀
無銘 志津
名物 戸川志津
徳川美術館所蔵

  • 享保名物帳所載

    戸川志津 無銘長八寸九分 代金百三十枚 尾張殿
    昔戸川肥後守殿所持寛永十九年極めなり、利長卿黄金百三十枚歟小判千両歟両様の中にて求む、寛永六年四月二十九日、秀忠公利常卿館へ渡御の刻上る、百枚の代付なり其後紀伊大納言殿拝領寛永ゴロ御隠居尾張殿へ遺はさる。

  • 無反り、真の棟、鋩子乱れ込み、先は掃きかけ、返りは長く棟もところどころ焼ける。中心うぶ、目釘孔2個、無銘。
Table of Contents

 由来

  • 備中庭瀬の戸川肥後守達安の所持にちなむ。
    • 宇喜多三老のひとり。

 来歴

 戸川達安

  • 元は戸川肥後守達安の所持。
  • 戸川達安は三家老のひとりであったが、のち宇喜多騒動に巻き込まれ徳川家康の調停もあり宇喜多家を退去する。

 前田利常

  • 宇喜多家追放の際に売りに出したのか、加賀の前田利常が大判百三十枚か小判千両で買い求める。

 将軍家

  • 寛永6年(1629年)4月、大御所徳川秀忠が加賀黄門利常の別邸に御成の際に献上される。

    廿九日大御所。加賀黄門利常卿の別墅にならせ給ふ。(略)利光卿より行平太刀、吉家の刀、戸川志津の脇差、金二百枚、袷百、綿千把、光高より守家の太刀長光の刀、景光の脇差、銀五百枚、小袖五十献ず

    「利光卿」とは前田利常の初名。

 徳川義直(尾張家)

  • その後「尾張殿へ被進」と書かれており、寛永10年(1633年)3月26日、尾張徳川家初代の義直が拝領している。

    元和古帳に寛永十年酉三月二十六日公方様より進ぜらる云々

    尾張家の記録では元和7年(1621年)3月26日に将軍より拝領。また享保の名物帳では所持者が松平伊予守(池田綱政)となっている。寛永5年(1628年)、綱政の父光政が結婚祝いに大御所秀忠から拝領した志津の脇指が戸川志津であったと考えられる。「戸川─前田利常─秀忠─紀伊─尾張(現存)」の流れは間違いはないが、紀伊と尾張の間でなんらかの混乱がある。仮に「戸川─前田利常─秀忠─尾張─将軍家─紀伊─尾張(現存)とすれば齟齬がなくなるがかなり無理がある。

 徳川頼宣(紀州家)

  • 紀伊徳川家初代頼宣が拝領する。
  • 寛永19年(1642年)本阿弥家に鑑定に出され、従来百枚のところを百三十枚に値上げした。折紙の日付は翌20年正月3日になっている。

       濃州志津
    正真 長サ八寸九分但無銘
       代金子百参拾枚
     寛永廿年未 正月三日 本阿(花押)

  • 寛文元年(1661年)本阿弥光温が武州法恩寺において、竹屋六右衛門とともに拝見し寸尺を図っている。
    和歌山の本山報恩寺は紀伊徳川家の菩提寺なので、この時には紀伊家にあったと思われる。

 徳川綱誠(尾張家)

  • 寛文7年(1667年)、紀伊頼宣が隠居した際に尾張綱誠に贈ったという。
    尾張家の世襲財産附属物表では、「寛文十一年三月廿四日紀州家頼宣遺物トシテ当家ニ贈ラレ爾来相伝ス」と寛文11年(1671年)1月10日に紀伊頼宣が薨去した後の形見分けとして贈られたものとする。
  • 「慶安四年卯三月 御腰物帳」に書き足されている。

    一 戸川志津御脇指 代金百三十枚 御拵有 折紙有 紀州 大納言より御遺物ニ来




 戸川肥後守達安

  • 号の由来となった戸川肥後守達安は、戸川秀安の子。
  • 父戸川秀安は、生母が宇喜多直家の弟(忠家)の乳母であった関係から小姓として直家に仕える。度々武功を上げ、天正3年(1575年)には常山城主となり2万5千石を領し、宇喜多家では岡家利や長船貞親と並ぶ宇喜多三老のひとりとなる。
  • 肥後守達安は父の跡を継ぎ、宇喜多秀家の家老となる。しかし、文禄3年(1594年)、突如として秀家からその座を解任され、ついにはお家騒動(宇喜多騒動)に発展する。
  • 徳川家康の調停もあり宇喜多家を退去し、家康の家臣となった。関ヶ原では東軍に所属し、戦後、備中庭瀬に3万石を与えられた。

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