上杉瓢箪
上杉瓢箪(うえすぎひょうたん)
唐物瓢箪茶入
銘 上杉瓢箪
大名物
野村美術館所蔵
- 大内氏所蔵により「大内瓢箪」、あるいは大友宗麟所蔵により「大友瓢箪」とも呼ばれた。
- 天下六瓢箪の随一とされる。
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由来
- 上杉景勝所蔵にちなむ。
- 「景勝瓢簞」とも
来歴
- 来歴概略
足利義政─大内義隆─大友宗麟─豊臣秀吉─上杉景勝────┐ │ ┌───────────────────────────┘ │ └上杉定勝─将軍家─前田利常─前田綱紀─将軍家─紀州徳川家
- もとは足利義政所持。
- のち村田珠光、武野紹鴎所持を経て、周防の大内義隆所蔵となる。
大内氏
- 義隆の死後、養嗣子の大内義長所持となる。
- 弘治元年(1555年)厳島の戦いにおいて毛利元就が陶晴賢を討つと、後ろ盾を失った義長は兄である大友宗麟に助けを求める。
- しかし既に元就と大内領の分割を密約していたためこれに応じず、義長はやむなく高嶺城に籠る準備を行う。弘治3年(1557年)3月毛利氏が山口に侵攻すると、未完成のまま籠るがまもなく城を放棄して長門国且山城へと逃れる。重臣内藤隆世が義長の助命を条件に開城し自刃すると、義長は長門長福院(功山寺)に入るが、毛利勢に囲まれ自刃を強制され、4月3日に自刃した。享年26。
この長福院は、もと嘉暦2年(1327年)虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺。文明8年(1476年)には大内政弘によって復興されるが、弘治3年(1557年)大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。慶長7年(1602年)に長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、その戒名から功山寺に改名された。文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵している。
大友宗麟
- 長福院を囲んだ毛利元就が大友宗麟に使いを送り、義長の助命の是非を問いただした所、宗麟は「助命は行わないが、かの家に伝わる唐瓢箪(後の上杉瓢箪)だけが惜しい」といってきたために、元就はこの瓢箪を宗麟に贈ったという。
元就取巻て、使を豊後の大友宗麟か方へ立、御舎弟義長取詰置候、一命助度思召候はゞ、夫へ送り申すべしと也、宗麟返事に、義長とは兄弟不和に候間、元就の御存分にまかせ候、但し紹鴎所持の瓢箪の茶入、義隆より義長が手に渡り有之候、是を御取有て送られ候はゞ可爲本望と申越る、元就則右之茶入を義長より請取、大友へ送らる
秀吉
- 天正15年(1587年)に秀吉が九州征伐を行った際、宗麟の子である大友義統は、この唐瓢箪を献上している。
天正十五年、大友義統秀吉公へさし上る、第一の重寶なり。
- 秀吉は、天正15年(1587年)10月1日に行った北野大茶湯でこの瓢箪茶入を披露している。
上杉景勝
- 秀吉は、天正16年(1588年)4月14日、聚楽第にて自ら上杉景勝に与えている。この頃「大友瓢箪」と呼ばれている。
其の後聚楽にて秀吉公手づから、上杉中納言景勝へ下さる、
- この上杉景勝所持にちなみ、以後は「上杉瓢箪」と呼ばれるようになる。
- 景勝はこの瓢箪を愛する余り、戦陣の際にも首にかけて携行したという。
名物の茶入に上杉瓢箪或は景勝瓢箪といふあり、是は上杉景勝、殊の外秘蔵の茶入にて、戦場へも袋に入れ首にかけて出られたりと云ふ
(金森得水著古今茶話)
- 慶長8年(1603年)11月28日、上杉邸に秀忠御成の際に、これを披露している。
八景の掛物をかけ、上杉数代の寶物共を飾り、太閤より賜りたる天下無類の瓢箪茶入にて、御茶を自ら進上せらる。又御書院に出御ありて、貞宗の御腰物、鞍馬十疋、黄金百枚、景勝へ給はる、一文字の御腰指と、白銀百枚、直江大和に給はる。景勝も正宗の太刀を献上あり、此太刀は亡父謙信帯せられし時の儘にて、縫懸鞘にひぢりまきし輕小柄なり、小尻にて金銀を以て藤の丸に三本の杉を摺入れたり、秀忠公御太刀を手づから上覧あり、拵物数寄を讃させ給ひ、御機嫌斜ならず
(貝原常春朝野雑載)
- 景勝の子で、米沢藩2代藩主上杉定勝の代まで上杉家に伝来する。
将軍家
- 正保2年(1645年)上杉定勝が没すると、嫡子の上杉綱勝は、12月29日この「上杉瓢箪」を父の遺物として献上。
上杉綱勝 播磨守 寛永十五年米沢に生る、正保二年十二月二十九日遺領を継ぎ、襲封の御礼として、父(弾正少弼定勝)が遺物義弘の刀及瓢箪の茶入、牧渓平砂落雁の掛物を献ず、寛文四年閏五月七日卒す、年二十七
(寛政重修諸家譜)
前田家
- のち前田利常が拝領する。
- 万治元年(1658年)閏12月10日、前田綱紀はこれを祖父の遺物として献上している。
前田綱紀 加賀守 利常の孫 致仕肥前守 松雲院 寛永二十年生る、正保二年八月廿一日襲封を謝するの時、新藤五国光の御脇差を賜ふ、此日父(光高)が遺物秋田正宗の刀、密庵の墨跡、この村肩衝の茶入を献ず、万治元年閏十二月十日、祖父(利常)が遺物朱判正宗の脇指、漢瓢箪の茶入、定家筆の伊勢物語を献ず
(寛政重修諸家譜)
紀伊徳川家
- 寛文7年(1667年)、紀伊大納言徳川頼宣が隠居する際にこれを拝領し、以後は紀伊徳川家に伝来した。
上杉瓢箪 唐物 是は東山殿、唐土へ数十百註文の中にて最上の出来のよし、夫より諸侯の手に渡りたること数十度の事なり、南龍院(頼宣)様御隠居の御祝ひに、大猷院様(厳有院の誤なり)より御手つから御拝領なり、以来紀の御物となる
(金森得水古今茶話)
- 大正8年(1919年)10月9日に高橋義雄(箒庵)が実見している。この時も紀州徳川家15代当主徳川頼倫侯爵の所持となっている。
野村徳七
- 昭和2年(1927年)4月、紀州徳川家の売立に出され、3萬5960圓の高値で落札された。※野村徳七(号 得庵)が落札したと思われる。
- 昭和11年(1936年)10月に行われた豐公三百五十年紀年大献茶會で、野村徳七の別邸である「碧雲荘」に出陳した。
- 現在は野村美術館所蔵
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