菊御作
菊御作(きくごさく)
- 譲位した後の後鳥羽院が、院や離宮であった水無瀬殿で自ら作刀し、焼き入れを行ったものを「菊御作」と呼ぶ。
- これは、作者である後鳥羽上皇の名の代わりに天皇家の紋章である十六葉の菊紋を茎に毛彫りしたことから呼ばれている。
- 古くは「御所焼き」「御所作り」と呼んだ。
- 読みは「きくぎょさく」、「きくのぎょさく」、「きくのおんさく」とも。
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御物菊御作
- 現在御物の菊御作が二口ある。
- 1つは明治35年(1902年)に黒田長成献上のもので、もう1つは明治21年(1888年)に元田永孚が献上したものである。
- これらは、昭和天皇の即位礼に用いられた。
黒田長成献上品
- 元は足利将軍家に伝わったもので、天正10年(1582年)10月に足利義昭から黒田官兵衛へと贈られたもの。
- 当時帰洛を望んでいた義昭は、信長死後に官兵衛を通じて秀吉への執り成しを依頼しており、その周旋の礼として送っている。
今度歸洛儀申處、秀吉同心之由悦喜此事候、併馳走故候、彌宜様可入精段偏頼入候、爲其差越晴助、太刀一腰、馬一疋遣之、委細安國寺可申候也、
十月廿一日 義昭公御判
黑田官兵衛尉とのへ
ただし、この時一度は了解した秀吉だったがまもなくこれを反故にしており、結局義昭が帰洛できたのは、薩摩島津家が秀吉に臣従した後の天正15年(1587年)10月である。
- 明治35年(1902年)11月の大日本帝国陸軍・福岡佐賀演習行啓の折、黒田長成から明治天皇へと献上された。
十二日 侯爵黒田長成、大本營に候し、菊御作の太刀一口及び高取焼花瓶一個を獻る、竝に由緒書を添ふ、太刀は初め將軍足利義昭の帯ぶる所、義昭漂泊して播磨に在るや、長成の祖先孝高之れと親交あり、義昭、孝高の斡旋に依り秀吉より歸洛の許可を得たるを以て、其の佩刀を孝高に贈りて其の厚意に酬ゆ、爾來子孫家寶として襲藏せしもの、卽ち此の刀なり、天皇之れを嘉納し、御紋附七寶花瓶一對を長成に賜ひ、後之れを黄金造りの軍刀に調製せしめらる、
黒田長成は黒田家13代で侯爵。貴族院副議長を30年の長きにわたり務めた。枢密顧問官、従一位・勲一等。宗秩寮審議官、麝香間祗候。
陸軍の演習が行われたのは、明治35年が熊本、明治44年が久留米ではないかと思われるが、御物調書での献上年は「明治35年」となっている。
宮廷錄事を見ると、明治35年11月10日は長府停車場を出た後、直接熊本大本営へと着車しており、帰路は15日に熊本停車場から長府停車場へと戻っている。
- 刀装の発見
- 平成22年(2010年)6月、この太刀を納めていたとされる外装「金梨子地藤巴紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵」が本山一城氏により発見された。
- この刀装は東京の個人が秘蔵していたもので、昭和64年(1989年)に日本美術刀剣保存協会により重要刀装に指定されている。黒田家の家紋である「藤巴」が不規則に配置されており、鍔などに桐紋の彫物がある(このため、外装は献上されなかったという)。本山氏は、本刀装を平成22年(2010年)3月に香川県の骨董店で購入したという。
本山一城氏は、漫画家・文筆家。母方の先祖が福岡藩主家の黒田家、および竹中重治の血を引いており、その関係で両家の歴史に詳しく、またコレクターでもある。
元田永孚献上品
- 長80.5cm、反り2.2cm
- 総長107.0cm
- 元は前田利常が本阿弥光瑳より買い求めた菊御作という。
※「可観小説」では高徳公つまり利家の差料になっている。しかし光瑳が光悦の養子となって跡を継いだのが元和9年(1623年)なので既に利家は死んでいる。「大納言様御ひざう之御こし物共」にも記載がなく、利常が正しいのではないかと思われる。
- 正徳2年(1712年)前田綱紀の娘・利子(泰真院。直姫、栄君)が二條吉忠に嫁いだ際に二條家に贈られた。
前田利子(まえだ としこ)は、加賀藩主・前田綱紀の六女で関白二条吉忠の北政所。元禄6年(1693年)金沢で誕生。初名は直姫。元禄11年(1698年)6月、幕府より関白二条綱平の嫡男・吉忠との縁組を命じられる。将軍綱吉の生母・桂昌院の周旋であったという(桂昌院の父は二条光平の家司である北小路[本庄]太郎兵衛宗正 ※諸説あり)。同年9月結納。正徳2年(1712年)7月26日婚礼。翌年に長女・辰君、享保元年(1716年)8月24日次女・永君を産む。元文元年(1736年)8月27日、夫・吉忠の関白就任に伴い、政所の宣下をうけ翌28日従三位に叙される。寛延元年(1748年)薨去。長女の辰君(淳子)は有栖川宮職仁親王の妃となり、次女の永君(舎子・青綺門院)は桜町天皇の女御となり、最後の女帝・後桜町天皇を産んだ。
二条吉忠(にじょう よしただ)江戸中期の公卿。関白左大臣・二条綱平の子。官位は従一位・関白、左大臣、贈准三后。二条家の19代で、幼少時に将軍綱吉の猶子とされ、偏諱を受けて吉忠と名乗る。二条家は足利義満以来代々将軍より偏諱を受けており、親幕派とされる。元禄11年(1698年)12月に従三位に叙されて公卿に列した。同年前田利子との縁組が決まる。結婚時には従二位・権大納言。その後も累進出世し、享保元年(1716年)正二位、享保11年(1726年)に左大臣。享保14年(1729年)には従一位に叙され、元文元年(1736年)には桜町天皇より関白の勅があり、同時に氏長者・内覧宣旨を賜ったが、同2年(1737年)8月3日所労のために辞職し、即日薨去。享年49。
※吉平の誤字は、吉忠の父・二條綱平、綱平の養父・二條光平の”平”に引きずられたのかも知れない。
- ただ本刀の選定については一悶着あったようである。
其頃の御道具奉行、右の由緒有之御什物と云事は不存、唯代金七拾枚許との被仰出にまかせ候て、相撰、伺候て相極候。其頃前田源随等老臣罷在候はゞ、たとひ相極候うへにても、申上様も可有之候へども、左様の心附無之候。奉行たる者は心得可有之ものに候。代金の位迄に心附候故かゝる儀有之候。壻殿の御引出物に候へば、か様にも可有之儀と申ものも候へども、某は左様に不存候と云。
- 本刀はのち二條家から近衛家の儒臣である平瀬数馬に伝わり、さらに木曽源太郎の所持となる。
木曽源太郎(きそ げんたろう)は幕末の志士。肥後熊本藩士。天保10年(1839年)生まれ。文久3年(1863年)に平野国臣らと但馬生野で挙兵して敗れ(生野の変)、尊王攘夷派の公卿・澤宣嘉を守って長州に逃れた。維新後に伊勢度会府判事。大正7年(1918年)80歳で死去。
- さらに明治21年(1888年)に元田永孚の所持となり、本阿弥長識に鑑定させた後、同年4月5日に明治天皇へ献上した。
九日 宮中顧問官元田永孚菊御作太刀一振を獻上す、(略)永孚曩に其の一を熊本縣木曽源太郎に得たり、(略)此の一振は素加賀藩主前田利常が本阿彌光瑳に依りて求め、後、關白二條吉忠に贈りしものと云ふ、其後數家に轉々し、是の年永孚の手に歸するに至る、永孚以爲らく、名劔私すべからずと、且天皇の御劔を愛したまふも未だ菊の御作を得たまはざるを思ひ、乃ち本阿彌長識をして之れを鑑定せしめ、表を添へて獻上す、天皇大に喜び、子爵田中光顕等に諮詢して、名工を求めて其の装を爲せしめ、以て永く寶庫に納めたまふ、永孚又別に粟田口久國の短刀一口を皇后に上る、
元田永孚(もとだ ながざね)は肥後熊本藩士で儒学者。のち宮内省に出仕し明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇への進講を行った人物。明治19年(1886年)には宮中顧問官、同21年(1888年)に枢密顧問官。明治24年(1891年)1月21日、病が重くなると特旨により従二位・男爵を授けられるが、翌日の22日に72歳で死去。教育勅語の起草者として知られる。
- 元田は、かねてより献上に値する刀剣を探しており、この菊御作についても念入りに鑑定を行った上で、「菊御太刀伝来考証」をまとめ付随させたという。
一、折紙左の如し
菊太刀
正真 長さ弐尺六寸五分半有之
代 千五百貫
貞享元年子極月三日 本阿花押
一、 本阿弥認め帳左の如し
松平加賀守
菊太刀
代金七拾五枚
長弐尺六寸五分半、出来見事也、両方先刃細し、
表中程より三寸計り下鎬むね角に荒れ有、裏まち
一寸あまり上地荒るる、鎺下に菊少し残る其通り
きんちょうのあと有、右光瑳出し、寛永五年拾五
枚の折紙有。
一、前田家旧記左の如し
菊太刀 長 弐尺六寸五分半
七拾五枚折紙
右最前拾五枚折紙之上、貞享元年十二月六拾枚
に上る。
中納言殿御買上、本阿弥光瑳取次、能道具世間
に沢山無御座。
折紙に菊太刀千五百貫、貞享元年子極月三日。
正保二年二月此太刀二条様江可被進旨仰出、御
金具は御詮議有之於国仰付、用蔵、甚七、市
左衛門仕、金めっき御紋もぢり藤、御鞘梨子地御
紋同断、足包み紫ちりめん、巻糸も同断。
従三位参議綱紀郷 第六栄姫殿
右旧記に因り本阿弥長識を合せて之を考るに、
中納言とあるは前田家三代利常にて、刀剣を好み
鏨定を善くす。此代に本阿弥光瑳の取次にて得る
所なり。光瑳は光悦の嗣子なり。光瑳謹厚謙遜の
生質故に其時取次たるも由緒定て正当なるべし、
但其出処を詳かにせず。従三位参議綱紀とあるは
前田家五代なり、其第六女栄子、二条関白吉忠に
嫁す。其時此太刀を前田家より二条家江贈進せしなり。
又其後の伝聞によれば、此御太刀、何の時代頃よりか
二条家を出て京都富豪の家にあり。其後近衛家の儒者
平瀬数馬の家に転蔵し、明治十年の事熊本県士族
木曽源太郎之を平瀬家より購得す。其時已に金造りの
装飾悉く剥脱して白鞘巣刀錆付きて地刃共に文明ならず。
但金襴上衣、黒漆金蒔字の上函及本阿弥折紙を
存するのみ。今茲廿一年二月十五日右木曽源太郎より
之獲得し、本阿弥忠敬之を研ぎ、本阿弥長識同忠敬
并今村長賀、竹中公鑒等之を鏨定するに折紙認め帳と
少しも相違せず、但表鎬むね角に荒ありとあるは今些しもなし。
右其の伝来の概略を記す事如比。
明治二十一年 戊子三月 元田永孚録
- 明治29年(1896年)に沃懸地獅子文毛抜形太刀拵が付けられた。
旧御物菊御作
上杉憲章献上品
- 元は皇室御物であった菊御作。
- 関東管領上杉家に伝来した太刀で、のち上杉景勝が秘蔵した。上杉家伝来。「上杉家御手選三十五腰」
第1号
太刀
無銘 菊紋
長二尺五寸一分
打刀拵
景勝公御秘蔵御重代三十五腰の内
※大正十四年十一月三日、皇太子殿下へ献上
(上杉家刀剣台帳)
- 大正14年(1925年)10月、当時摂政宮であった昭和天皇が奥羽巡幸した際に上杉憲章から献上されたもの。ただし、上杉家刀剣台帳では11月3日献上となっている。
- そこで宮廷錄事を確認すると、東宮(後の昭和天皇)は大正14年(1925年)10月11日午前6時40分に東宮假御所を発駕、夕刻に山形駅に着。13日10時27分に米沢駅に到着し、各施設を見学しながら上杉憲章伯爵別邸に行啓を行っている。上杉神社を参拝された後、米沢駅から山形駅まで移動している。このことから献上日は大正14年(1925年)10月13日であると思われる。
- 付属する藍革巻柄の黒漆打刀拵は景勝所用と見られている。
- 現在は東京国立博物館所蔵。
九条家献上品
太刀
長二尺五寸五分
- 二十四葉の菊紋。
- 目釘孔2個、表目釘孔下中央に二十四葉菊花紋が入る。
- 後鳥羽上皇より直接九条兼実に賜ったものとされ、のち昭和天皇の即位礼の際に献上された。
ただし後鳥羽上皇は治承4年(1180年)~延応元年(1239年)。九条兼実は久安5年(1149年)~建永2年(1207年)。
- のち東京国立博物館所蔵。
重要文化財
京博所蔵品
- ※確証はないが、この刀はかつて足利将軍家に所蔵されていた菊御作で、(8代義政より後に)足利将軍家から朝倉家に贈られ、朝倉家滅亡後に付近の民家に隠されたものが、後年結城秀康により取り出されたとされているものと同物ではないかと思われる。その後越前松平家の福井藩主家に伝わったのだと思われる。
なお足利将軍家旧蔵の菊御作はこの他に現御物の「黒田長成献上品」が知られているが、その他2口、計4口所蔵していたと伝わる。
- 昭和14年(1939年)5月27日旧国宝(重要文化財)指定
太刀 菊御作
東京府東京市澁谷區千駄ヶ谷二丁目
侯爵 松平康昌
(昭和14年文部省告示第三百三十七號)
松平康昌は旧福井藩主家(越前松平家)19代。従二位・勲一等。侯爵。貴族院議員、内大臣秘書官長、宗秩寮総裁、式部官長。昭和天皇の側近のひとりであり、太平洋戦争後に松平慶民・寺崎英成・稲田周一・木下道雄と「五人の会」を結成し、「昭和天皇独白録」の作成にあたった。
- 金梨地菊紋蒔絵糸巻太刀拵が附く。この拵も越前松平家に伝来したもの。
全長111.0cm、把長27.7cm、鞘長82.8cm
徳川美術館所蔵品
- 徳川美術館では、「太刀(菊紋) 名物 菊一文字」とする。
茎に菊紋のある太刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、後鳥羽上皇の御作と伝えられる。本刀は菊紋がわずかに確認でき、備前国一文字風であるため「菊一文字」と呼ばれる。
- 寛永2年(1625年)に秀忠三男の駿河大納言徳川忠長から尾張義直へと贈られたもの。
- その後、尾張家5代の五郎太の代に、その父である4代吉道より建中寺へと奉納された。
徳川五郎太は正徳元年(1711年)1月9日生まれ、正徳3年(1713年)10月18日没。父吉道は同年7月21日没。
徳興山建中寺は、慶安4年(1651年)に2代藩主光友が父である初代藩主義直の菩提を弔うために建立した浄土宗寺院。
- 明治時代に尾張徳川家が買い戻し、現在は徳川美術館所蔵。
林原美術館所蔵品
- 旧土佐藩主山内侯爵家に伝わったもの。
- 昭和15年(1940年)5月3日旧国宝(重要文化財)指定
太刀 菊御作
東京府東京市澁谷區代々木山谷町
侯爵山内豊景
(昭和15年文部省告示第四百四十八號)
山内豊景は、土佐藩16代(最後)藩主で侯爵山内豊範の長子。
黒川古文化研究所所蔵品
その他
- ほかにもいくつかの伝来品があったとされる。
- 中島喜代一旧蔵
- 無銘 傳菊御作。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品指定。子爵松平忠正旧蔵。磨上無銘だが昔より菊御作と伝わったもの。松平忠正は旧上田藩主家の伊賀守系藤井松平家10代。子爵土井利美(三河苅谷藩主)の弟。養父松平忠礼の弟・土井忠直の子で、明治19年(1886年)5月生まれ。養子となって明治38年(1905年)に養父の跡を継いだ。
- 厳島神社所蔵
- 毛利元就が厳島神社に納めたもの。元は大内家所蔵品で「大内家五名剣」のひとつ。明治初年の火災に遭い焼身となっている。ただし菊紋は残っているという。
菊御作の実際
- 伝承上は後鳥羽天皇が自ら作刀し、焼き入れを行ったものとされるが、公式な記録においてそれを証明する確かな記録はない。
承久記
- 最も早く登場するのは「承久記」で、成立は鎌倉中期で弘安年間(1278-1288)よりも前だとされている。
筑後の六郎左衛門尉黒皮威の鎧に蒜の母衣懸けて白月毛なる馬に乗て落行きけるを武田七郎きたなし餘すまじきぞとて追懸けたり、六郎左衛門取て返す、御所焼といふ聞ゆる太刀を帯びたりけり、御所焼とは次家正に作らせて君手づから焼かせ給ひけり、
- この「承久記」は異本が多くあり、それぞれ小異がある。
勘仲記
- 中納言勘解由小路兼仲(1244-1308)の記した「勘仲記」(兼仲卿記)の弘安2年(1279年)2月2日条にも「菊作」の文字が登場する。
弘安二年二月
二日己卯 晴、入夜参殿下、關東城介秦盛朝臣、御馬二疋、一疋置鞍、御劔一腰菊作、砂金五十兩、付予令進入、召具使者所参申入也、
勘解由小路家は日野家庶流。当初は勘解由小路と号し、室町時代の仲光が広橋と呼ばれ、以降定着した。家業は文学。広橋兼仲とも呼ばれる。
尺素往来
- また室町時代には一条兼良の「尺素往来」に「御製作以菊為名」とあり、これが菊御作のことであるとされる。
太刀刀之身。昔天國以後、得其名鍛冶。雖蕈數百人、記新太夫舞草、中比後鳥羽院番鍛冶、御製作以菊為名、此外粟田口、藤林、國吉、々光已下、三条小鍛冶、了戒、定秀、千手院、尻懸、一文字、仲次郎。此等者其振舞大略如劍候。近來、来國俊、國行、新藤五、藤三郎(行光)、五郎入道(正宗)、其子彦四郎(貞宗)、一代之名人候。御所持候者、少々可拝領候。
その他
菊御作の特徴
- 作風は、備前一文字風または京物粟田口風のいずれか二種類に分類される。
其一は備前風卽一文字風、其ニは京物卽粟田口風のもので、松平侯爵(旧福井藩主家19代松平康昌)の御作は明らかに京物風、尾州家(現、徳川美術館所蔵品)のは正に一文字風である。其外上杉家傳來品(旧御物、現東博所蔵)も一文字風で尾州家のに似て居り、黒田家傳來品(現御物)は一文字風であるが刄縁が前ニ者の様に締らず沸匂深く焼幅はモ少し狭い。元田先生獻上(現御物)のは京風で、松平侯爵のに稍似て居り、刄文は更らに華麗で中島家の磨上御作の刄文に似て居る。
九條侯爵家傳來の品(二十四葉菊紋)は少し變つてゐるが大體京風である。備中青江鍛冶は前説次家の外恒次、貞次も番鍛冶に出て居る譯だが御作には青江風と見ゆる品はない。
造込みは傳書に見ゆる如く大體細身型で氣品が優れて居る、長さは二尺五寸五分か七八分が常である、少し長いものもあり又少し磨上げたのもあるが原形を考へると此位である。
反りは七分一厘から八分半位で中に一寸一分といふ高いのもある。鋒は備前風京風を通じて小切先でつゞまやかに力がある。
中心は何れも少し反りがあり鑢は浅き勝手下がり、孔は中央より稍上部にあり、孔の中心より區迄の直徑二寸五分或は六分位で殆一定して居る。孔の下は三寸餘で全長五寸八九分から六寸餘になつて居るが元田男爵獻上の御作は六寸五分もある。何れも肉置味よく棟は小肉つき先はくり尻丸味のものと刄上り角張るものとあり京風の感じが多い、雉股になつてゐるものもある。番鍛冶作品中では只今陳列中の熱田神宮の國友の中心が最もよく似て居る。
(略)
要するに菊御作は只の一文字や只の粟田口とは異なるもので其處に天皇御躬らの御作意の存するものと思はざるを得ぬ。上述の諸書には多く焼刄入れをなされたと傳へる、刄文は勿論其他にも或程度御設計の御意が存したと考へざるを得ないのである。
- このうち、備前一文字風に分類されるものは度々「菊一文字」とされることがある。
「菊一文字」
十六葉の菊紋の由来
- 十六葉の菊紋は、後鳥羽上皇がことのほか「菊」を好み、自らの印として愛用したことに始まる。
- その後、89代後深草天皇・90代亀山天皇・91代後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに「十六八重表菊」が皇室の紋として定着した。
- 公式に皇室の紋と定められたのは1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による。
- 俗称「菊の御紋」
- なお「十六八重表菊」は、国章に準じた扱いを受けており商標法第4条第1項第1号に基づき類似商標は登録できない。さらに工業所有権の保護に関するパリ条約第6条の3に基づき同条約加盟国でも商標登録できない。
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