明暦の大火
明暦の大火(めいれきのたいか)
明暦3年(1657年)1月18日から1月20日にかけて当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災
振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
- この火災により焼けるなど多数の名刀にも影響があった。
- 徳川家では三十口ほどいれた刀箱が二十箱あり、そのうち十五箱が焼失した。
- 明暦3年(1657年)は4代将軍家綱の時代。
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焼失刀剣
- そのうち、刀剣については「御腰物之覚」で罹災した38口が記載されている。
- 明暦の大火により消失したとされる名刀に、下記があげられている。※享保名物帳に含まれないものもある。
- 吉光
- 骨喰藤四郎、無銘藤四郎、豊後藤四郎、新身藤四郎、鎬藤四郎(シノギ)、飯塚藤四郎、庖丁藤四郎、米沢藤四郎、樋口藤四郎、この他三百枚くらいの吉光数多
- 正宗
- 三好正宗、八幡正宗、長銘正宗、対馬正宗、横雲正宗、十河正宗、シノキ正宗、伏見正宗 この他正宗の刀数多
- 郷義弘
- 西カタ江(西方江)、上杉江、上野江、紀州江、蜂屋江、三好江
- 紀新大夫行平
- 上野紀新大夫、秋田行平、しめ丸行平、小脇差行平、この他千貫くらいの行平数多
- 来国行
- 不動国行
- 来国次
- 青木来国次、三斎来国次
- 粟田口国吉
- 太子屋国吉、岐阜国吉
- 当麻
- 村雲当麻
一覧
名称 | 名物帳 | 備考 |
骨ハミ吉光 | ○ | 骨喰藤四郎 |
無銘藤四郎 | 尾張家所蔵品とは異なる | |
豊後藤四郎 | ○ | |
鎬藤四郎 | ○ | 凌藤四郎 |
飯塚藤四郎 | ○ | |
新身藤四郎 | ○ | 江戸新身藤四郎 |
庖丁藤四郎 | ○ | |
米沢藤四郎 | ○ | 秀吉から上杉景勝、秀忠 |
樋口藤四郎 | ○ | |
一期一振 | [大] | |
三吉正宗 | ○ | 三好正宗 |
八幡正宗 | ○ | |
長銘正宗 | ○ | 江戸長銘正宗 |
対馬正宗 | ○ | |
横雲正宗 | ○ | |
十河正宗 | ○ | |
伏見正宗 | ○ | |
道合正宗 | ||
シノキ正宗 | 宗近正宗シノキ | |
菖蒲正宗 | [大] | |
温海貞宗 | [大] | |
大坂切刃貞宗 | [大] | |
青木来国次 | ○ | 阿閉萬五郎から青木紀伊守、福島正則、秀忠 |
三斎来国次 | ○ | 南都で掘り出し三斎所持、将軍家献上 |
不動国行 | ○ | |
たいしや国吉 | ○ | 太子屋国吉 |
岐阜国吉 | ○ | 「岐阜國次」と記載 |
江雪正宗 | ○ | |
村雲当麻 | ||
義元左文字 | ○ | |
三吉江 | ○ | 三好江 |
西方江 | ○ | |
上杉江 | ○ | |
上野江 | ○ | |
紀州江 | ○ | 肥後熊本紀州江(肥後江) |
蜂屋江 | ○ | 「甲府殿」蜂屋出羽守から秀吉、家康。一時甲府綱豊 |
初雁江 | [大] | |
上野紀新大夫行平 | ○ | 北野紀新大夫行平 |
秋田行平 | ○ | 秋田城介所持 |
シメ丸行平 | ○ | 注連丸行平 |
小脇差行平 | 名物帳「本多行平」か | |
吉光一振ノ陰 | ||
国綱 | ノ法国綱 | |
大国綱 | [大] | |
宗近 此作無類 | ||
海老名宗近 | [大] |
- [大]は日本刀大百科事典
出典
今度御城内ニテ焼失ノ御腰物并御脇差之覺
一、無銘藤四郎 一、豊後藤四郎
一、新身藤四郎 一、シノギ藤四郎
一、飯塚藤四郎 一、庖丁藤四郎
一、米沢藤四郎 一、樋口藤四郎
右之外御腰物三百枚計之吉光数多
一、三吉正宗 一、八幡正宗
一、長銘正宗 一、對馬正宗
一、横雲正宗 一、道合正宗
一、シノキ正宗 一、本多美作守小脇差行平 ※一部写本で「壬齋国次」
一、青木国次 一、骨ハミ吉光
一、大シヤ國吉 一、村雲當麻
一、岐阜國吉 一、三吉江
一、西カタ江 一、上杉江
一、上野江 一、紀州江
一、伏見正宗 此外正宗ノ刀数多
一、蜂屋江
一、左馬頭様ノ道具 上野紀新大夫吉光
ノ一振ノ法國経 秋田行平宗近此作
無類シメ丸行平右ハ太刀此外千貫計
ノ行平数多百枚二百枚ノ御道具数多
三十腰計入箱廿計ノ内五箱出ル 十五
箱ハ御本丸ニテ焼失ス
(寛明事跡録)今度於御城内焼失御腰物并御脇差之覺
一、無銘藤四郎 一、豊後藤四郎
一、新見藤四郎 一、シノキ藤四郎
一、飯塚藤四郎 一、包丁藤四郎
一、米澤藤四郎 一、樋口藤四郎
右之外、御腰物三百枚計ノ吉光数多。
一、三吉正宗 一、八幡正宗
一、長銘正宗 一、對馬正宗
一、横雲正宗 一、道合正宗
一、シノキ正宗 一、小脇指行平
一、青木國次 一、骨ハミ吉光
一、大シマ國吉 一、村雲當麻
一、岐阜國次 一、三吉江
一、西カタ江 一、上杉江
一、上野江 一、紀州江
一、伏見正宗、此外正宗ノ刀数多。
一、蜂屋江
一、左馬頭松平綱重様ノ道具、上野紀新大夫吉光ノ一振ノ法國綱、秋田行平、宗近、此作無類ニシテ丸シ、行平、右ハ太刀、此外千貫計ノ行平数多、百枚二百枚ノ御道具数多、三十腰計入箱二十計ノ内、五箱出ル、十五箱ハ御本丸ニテ焼失。
(天享吾妻鏡)
恐らく元は「寛明事跡録」だと思われるが、後半「左馬頭様ノ道具」以後の改行位置がおかしく読みづらい。「天享吾妻鏡」ではやや読みやすくなっているが、注連丸行平のあたりがおかしい。なお両方共誤字らしき表記ブレがあるが、原文のままとした。
- 前田家資料 ※伝聞のためか一部おかしい所がある。
公方様御道具焼失の事
今度の大火事に、上様並に日本の大名・小名・待ち方・寺社方に年々貯置きし重寶共、幾千萬共なく焼失の儀筆紙の及ぶ所にあらず。公方様御道具焼失の御帳面の其の中に、別して天下無雙の御腰物・御脇刺・御太刀等は、幾萬年經ても御重寶なるに、此の度世に絶えぬる事、惜敷次第哉と諸人奉存に付き、是のみ記し、せめて其銘也とも聞傳へ、末世の物語の爲置く事斯の如し。
不動國行 骨食吉光 天下一三好郷 江雪正宗
吉本郷 左文字 初雁郷 兩方郷 温海貞宗
此の外二百枚内外の郷・正宗の御腰物數多なれ共略せしむ。
御脇指は。
豊後藤四郎 米津藤四郎 新身藤四郎 樋口藤四郎
しのぎ藤四郎 飯塚藤四郎 北條藤四郎
此の外三百枚内外の御脇指は數しらず。御太刀には。
三好正宗天下一 對馬正宗 長銘正宗利常公より上らるる
八幡正宗 横雲正宗 道雲正宗 宗近シノギ
行平 青木國次 三斎國次 村雲當麻 岐阜國吉
醍醐屋國吉(太子屋国吉) 蜂屋郷 北野紀新太夫
大國綱吉光(大国綱) 一振の影 秋田行平 主馬丸行平(注連丸行平)
宗近 大坂切刃貞宗
此の外百枚内外の御太刀數多ありといへ共畧せしむ。依之世の中に古作の道具大切になり、一倍増・八割増・五割増と段々に其の出来不出来新古に随ひ、代付折紙等も出すべき由、公儀より本阿彌家に被仰渡、何れも身を持出でたり。他の寶物は年經て朽ちくさりけれ共、金物・土物は幾世を經ても猶見るにいとまなし。上古より以來火事と云ふ事なかりせば、古物の絶えぬる事あらじと、皆人惜しみあへりけり。
再刃
焼失茶器
- 名物茶器のうち、明暦の大火で焼失したのは下記とされる。
- 朝倉肩衝
- 円座肩衝(圓座)
- 濃茶肩衝
- 木ノ村肩衝
- 木村屋肩衝
- 時雨肩衝
- 島津肩衝(嶋津)
- 実休肩衝(實休)
- 宗陽肩衝
- 投頭巾肩衝
- 楢柴肩衝
- 長束肩衝
- 二王肩衝
- 青木肩衝
- 中山肩衝
- 飛騨肩衝
- 十四屋肩衝
- 矢島肩衝
- 芝肩衝
- 木の丸肩衝
- その他焼失名物(肩衝)
- 朝比奈肩衝
- 有明肩衝
- 大友肩衝
- 小野肩衝
- 西門跡肩衝
- 堅田肩衝
- 笠原肩衝
- 木野邊肩衝
- 宮内卿肩衝
- 小島屋肩衝
- 佐竹肩衝
- 三蔵院肩衝
- 鴫肩衝
- 下間肩衝
- 篠屋肩衝
- 清水肩衝
- 清休肩衝
- 宗理肩衝
- 宗薫肩衝
- 宗二肩衝
- 則祐肩衝
- 宗久肩衝
- 宗向肩衝
- 宗古肩衝
- 竹蔵屋肩衝
- 田北肩衝
- 丹下肩衝
- 治部少肩衝
- 津島肩衝
- 戸川肩衝
- 道満肩衝
- 道三肩衝
- 道純肩衝
- 棗肩衝
- 永井肩衝
- 鳰肩衝
- ぬし屋肩衝
- 灰(クワイ)屋肩衝 ※クワイは「恢」のつくり
- 実性肩衝(實性)
- 本能寺肩衝
- 松永肩衝
- 森屋肩衝
- 祐玉肩衝
- 驢庵肩衝
- 休夢肩衝
- 都島肩衝
- その他焼失名物(茄子)
- 出雲茄子
- 円性茄子(圓性)
- 栄仁茄子(榮仁)
- 花瓶口茄子
- 月山茄子
- 珠光茄子
- 朱張茄子
- 浄珍茄子
- 住吉茄子
- 尊教院茄子
- 島井茄子
- 内藤茄子
- 似たり茄子
- 蜂屋茄子
- 針屋茄子
- 兵庫茄子
- 本行坊茄子
- 八重葎茄子
影響
- この明暦の大火は、江戸城天守閣を含む江戸の大半(当時の市街地の60%)を焼きつくし、死傷者10万人を超える規模の大火災となり、被害規模は江戸時代を通しての最大のものとなった。
- 御三家の屋敷を始め、北の丸の大名屋敷、井伊、上杉、伊達、島津、黒田など桜田門近くの大名屋敷(214家の内160家)、旗本屋敷(約810家)、町家(800町余)、神社仏閣300余、橋60余、倉庫9000余が焼けた。
被害者数は諸説あり。内閣府のページでは6万8千人と推計(「元延実録」の牛島新田に葬った死者6万3400余+漂着した死体4600余)している。
当時の江戸の人口は、約78万人と推計されており、約1割弱が死亡したことになる。※町民人口は、寛永11年(1634年)に15万、火災当時の明暦3年(1657年)に28万、元禄6年(1693年)に35万、享保6年(1721年)に50万と増加している。武家人口は約50万とされる。
- この甚大な被害により、上述の名刀を含め将軍家・御三家・大名家所蔵の刀、さらに旗本常備の刀なども多くが焼けた。
- その結果一時的に数万振りに達すると思われる規模の刀剣需要が起こり、それが「寛文新刀」といわれる鍛刀の盛り上がりを引き起こした。
- 年号が変わって万治~寛文(1658~1673年)の寛文新刀期には、長曾祢虎徹や江戸法城寺正弘などの江戸の刀工のほか、大坂新刀の津田助広、井上真改、肥前陸奥守忠吉などが活躍する時期と重なっている。
- この明暦の大火による需要の高まりが寛文新刀の旺盛な製作を支えたという点も否定出来ない。
- ※当時江戸だけでは各種物資の供給がまかないきれなかったことは、脇田修氏が指摘している。
大坂が畿内のすぐれた経済力を背景にもっていたのにたいして、江戸の後背地であった関東の経済発展が遅れており、とうてい百万人の人口をもつ都市の需要をみたすことはできなかった。生活必需品である油、木綿、鉄・銅などの金属製品、皮革製品、薬種、酒にいたるまで、多くの商品が大坂から江戸へ送られていたのはそのためであった。(略)とくに重量があり、かさばる金属類は、京都へ運ぶより、大坂で加工するのがあきらかに有利であった。
(近世大坂の町と人)
- ※当時江戸だけでは各種物資の供給がまかないきれなかったことは、脇田修氏が指摘している。
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