真田丸
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真田丸(さなだまる)
真田幸村が大坂の陣で築いたとされる城郭
概要
- 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、豊臣方の真田幸村が大坂城の平野口に構築した曲輪である。
- 当時の大阪平野は、北側を淀川が大きく蛇行して巨大な湿地帯となっており、大軍を動かすことは非常に困難であった。そのため、上町台地の北端に構築された大坂城を攻めるには、南側(天王寺口)より攻めるほかなかった。
近代に入り明治18年(1885年)の大洪水などを経て新淀川開鑿工事が国費1,000万円(現在の金額で2兆円とされる。当時日本の国家予算は2~6億円)をかけて行われた結果、現在の大阪市北部淀川沿岸部の安定的な土地利用が可能となった。
- この防御が手薄な南東端に設置したのが真田丸であり、伝承によれば幸村はこの真田丸に籠もり、徳川方を翻弄し数多くの兵を討ち取ったという。
場所と地形
- 真田丸は大坂の陣終了後に徳川方に破壊されたため、長らくその場所特定がされていなかった。
- しかし最近、付近一帯の地質調査により、現在の大阪市天王寺区餌差町の北半分(グーグルマップ)であったことが判明した。
産経WEST「真田丸」は孤立無縁の砦だった 最新の等高線調査が崩した“定説” あえて敵の大軍を引き寄せた真意とは…、2016年1月放送の歴史秘話ヒストリア「第240回 徹底解明!これが“真田丸”だ」
- それによれば、これまで”半円形の出丸”と伝えられてきた真田丸は、実際にはほぼ四角形の形状で、さらに大坂城本城とは清水谷によって分かたれた独立した砦であり、「浅野文庫蔵諸国古城之図(広島市立図書館所蔵)」に所載されている「摂津 真田丸」の城郭図が極めて正確に写しとっていたことが判明したという。
「諸国古城之図」より|広島を知る|広島市立図書館 ※二段目「真田丸(摂津)」。
なお図は90度回転しているため、画像左側が地図上の南、画像右側が大坂城側(地図上の北)になる。真田丸周囲に描かれている緑色の点々は切り立った崖(8m前後)を表している。大坂城との間に"大和道"を挟みかなり広い空間が描かれているのが確認できる。この空間が大坂城の南惣構堀とされる。地図右上隅に「町裏ナリ地形少高シ」と書かれているのが現在の清水谷公園(大阪府立清水谷高校の南)だとされる。
- 現在餌差町には多くの寺院が残されているが、大坂の陣当時もこれらの寺が存在しており、さらに現在の餌差町の形状がほぼそのまま真田丸の形状のままであることもわかる。上記グーグルマップでストリートビューに切り替えた後、明星中学校や清水谷公園の周囲をぐるっと回ると、独立した台地の痕跡が残っていることが確認できる。
- つまり真田丸は、防御に有利な地形を活かし、当時としては頑丈な建物であった寺を取り込んだ町中の独立した砦であり、大軍を巧みに引き寄せるのに適していたことになる。冬の陣での幸村の戦いぶりは、亡き父真田昌幸が信州上田城で大軍を翻弄した戦いを再現してみせた形であったともいえる。
- 冬の陣の後、徳川方により真田丸は徹底的に破壊された。
- 翌年の大坂夏の陣において幸村は、かつて冬の陣で家康が本陣をおいた茶臼山(現在の天王寺公園)を砦に改造し、砦の東側に徳川方の軍勢を引き付けた後に家康本陣への横撃を企図する。しかし味方の軍勢の突出により不本意な状態で突撃を開始することとなる。家康本陣に迫り、一時は家康に自害を覚悟させたものの徳川方に押し返され、安井神社で最期を迎えた。
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