松平忠直


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 松平忠直(まつだいらただなお)

江戸時代初期の大名
越前北ノ庄(福井)藩主
従三位参議、左近衛権中将、越前守
号 一伯
西厳公

Table of Contents

 生涯

  • 文禄4年(1595年)6月10日、結城秀康の長男として、摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代、あるいは長吉。
    • 徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。
  • 慶長8年(1603年)、江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。

    是年公始テ江戸ニ参覲アリ、台徳公鍾愛所生ノ如ク、呼テ参河守ト称し左右ニ侍セシム

  • 慶長10年(1605年)9月10日、従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。

    九月十日公元服ヲ加ヘテ従四位下ニ叙シ、侍従ニ任シ三河守ヲ兼、將軍諱字ヲ授テ忠直ト名ツケ、来国次ノ刀ヲ賜フ、

  • 翌慶長11年(1606年)3月3日には右近衛権少将に転任。三河守如元。
  • 慶長12年(1607年)閏4月27日、父・結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。元服の際には秀忠より偏諱を授かり忠直と名乗る。

    慶長十二年四月 日、家督、十三歳、

    公江戸ニ在リ、閏四月八日浄光公(秀康)北荘城ニ薨ス、二十二日訃音江戸ニ達ス、將軍弔慰ノ礼最厚シ、二十七日將軍故中納言遺領七十五万石相違ナク宛行ルヽ間、入部シテ人民ヲ撫安スヘキノ旨ヲ命セラル、公即日江戸ヲ発シ駿府ヲ過キ、大御所ニ拝謁アリシナヘシ、未詳、参州大樹寺ノ乗誉上人ヲ引連レ奔テ北荘ニ到ル、五月十一日公親ラ臨テ太公ヲ改葬シ、哀傷ノ至情ヲ尽ス、

  • 慶長12年(1607年)駿府新城になる。家康、駿府に移徙するも、この後も頻繁に江戸城と駿府を往来する。
  • 慶長12年(1607年)、江戸山手に屋敷地を拝領する。これが現在の麻布三河台だとされる。※忠直の「三河守」にちなむという。

    同年(慶長12年月日不知江戸山手ニ於テ屋敷ヲ賜フ、(松平家譜)

    昔松平三河守殿の下屋敷にして、其の地の高ければ三河臺といへり(府内備考)

  • 慶長13年(1608年)初入部。※ただし越藩史略でも弟である松平忠昌、松平直政、松平直基、松平直良らが藩地にいたにも関わらず忠直が江戸にいたのは疑問とする。
  • 慶長14年(1609年)正月3日吉松死去。秀康五男で本多富正養子。享年6。
  • 慶長14年(1609年)5月5日秀康側室津田氏(長寿院)死去。松平直良の生母。
  • 慶長15年(1610年)2月3日松平忠輝越後60万石を領す。
  • 慶長16年(1611年)3月20日、左近衛権少将に遷任(従四位下)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。※同年12月22日ともいう。
  • 慶長16年(1611年)9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。

    九月廿六日婦人勝子北荘ニ入輿、道中警衛老職土井大炊頭利勝・大番頭渡辺山城守・外傳長谷川筑後守従之、二十八日婚姻ノ礼を成ス、将軍荒波一文字ノ佩刀、貞宗作ノ副刀ヲ婿引手トシテ贈ラル、

    天崇院勝姫は、秀忠とお江の娘。豊臣完子は異父姉に、また千姫・珠姫は実姉、徳川家光・徳川忠長は実弟、保科正之は異母弟、初姫・東福門院(和子)は実妹にあたる。徳川家綱・徳川綱吉は甥にあたる。
     忠直が豊後に配流となった後は高田御殿に移り住み、高田様、高田の御方と呼ばれた。孫に当たる国姫(光長の娘)の嫁ぎ先である福井藩の松平光通の後継者問題に光長と共に介入、結果、光通と国姫が共に自殺するという悲劇を招いた。息子の光長は越後高田藩主となり(ただし後に越後騒動で改易)、長女亀姫は高松宮好仁親王に嫁ぎ、次女鶴姫は九条道房(豊臣完子と九条幸家の嫡男)に嫁いだ。

  • 童子切安綱」は、秀康が秀忠から贈られたのではなく、秀忠が娘・勝姫(天崇院)を松平忠直へ嫁がせる際に守り刀として持たせたものであるという。

    台徳院様ヨリ高田様へ御守刀ニ進セラル依之越後中将光長公ニ有之也

 越前騒動

  • 慶長17年(1612年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
    父・秀康は、人物勇士を集めて厚遇したため、家康や秀忠に以前から懸念される程であったという(「諸家を退身せり勇士等、山のごとく越府にあつまれり」、「黄門うせられし後は、この勇士各勇名にほこり、威権をあらそい、国中すべて静ならず。大御所かねて、かかるべしと、しろしめしければ、もし此者大坂に内通せば、ゆゆしき乱を引出す事もあらんか)。若い忠直では到底統御しきれないのではないかという恐れが吹き出してしまった事件と判断された。
  • 翌慶長18年(1613年)6月、家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)。※越前騒動の詳細は「本多成重」の項を参照のこと。同年4月26日には土井利勝が福井に至り、国政を監視している。
  • 慶長19年(1614年)7月20日結城晴朝(秀康養父)漆が淵の邸宅で死す。※秀康お国入りの際に片糟に住し、のち漆淵に移ったという。享年81。泰陽院。
  • 慶長19年(1614年)4月、駿府に下り家康に謁見する。ついで江戸に下り秀忠に謁見する。

 大坂の役

  • 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。
  • 大阪冬の陣
    • 冬の陣では江戸にいた忠直は10月8日国元の重臣らに出陣を促している。10月14日、淀・橋本あたりに陣を敷くよう秀忠より命じられる。15日15000人を率いて北ノ庄城を出る。16日江州坂本、18日に名古屋の家康に指示を仰ぎ西岡、東寺、九条、岡崎あたりに陣を敷く。23日家康入京。同日秀忠江戸発(家光ほか、駿河忠長、越後、光長、鳥居忠政、松平忠輝、奥平忠昌、内藤政長、福島正則、加藤義明、黒田長政、平野長泰、谷政則等従留守)。11月10日将軍秀忠入京。11日二条城。17日家康摂津住吉に陣を敷く。
    • この時、忠直軍の本多2名および直政が軍令違反を犯して進軍したという。忠直は退却させるが、忠昌、直政らは退かなかったという。これで本多両名は秀忠本陣に呼び出されて注意を受けている。
    • 19日、忠直は家康に謁す。土井利勝や本多上野介に対して、忠直の成長を「国家の重宝たり」と喜んだという。19日秀忠に謁す。
    • 22日和睦のために停戦。24日忠直は忠昌を従えて本陣を訪れる。25日家康茶臼山を出て入京。28日参内。正月3日京を発ち駿府へ。正月14日着府。
  • 正月28日秀忠二条城。27日参内。忠昌が従四位下侍従。伊予守忠昌と称す。28日秀忠京を発ち江戸へ。14日江戸着
  • 大坂夏の陣
    • 4月4日、家康駿府発。同10日秀忠江戸発。同17日、これより先忠直江戸にあり、新書を北之庄の老臣に発し、17日に江州坂本着。老臣たち4月15日に北ノ庄城発、4月17日藩兵も西尾海で合流し、江州坂本着。18日西岡向明神に陣した。
    • 4月18日家康入京、21日秀忠伏見城。22日に二条城。5月5日、家康及び秀忠出陣。5月6日重臣は軍令を受けようとするが、逆に「越州の将士昼寝して知らざるか」と叱咤を受ける。※前日道明寺で戦があり、すでに先鋒は命じているとの注意を受ける(井伊、藤堂榊原隊。大坂方後藤基次・薄田兼相が討ち死にした戦いを言っている)
    • 帰陣して報告すると忠直は辱めを受けたとして憤激する。
  • 家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添(二筋樋貞宗)」を与えている。
    • 6月6日家康参内。6月16日、忠直は直政と共に伏見邸より二条城へ。大坂の役の活躍により、家康より初花肩衝を賜る。秀忠より二筋樋貞宗を拝領する。閏6月19日従三位参議。※前田利光(利常)、伊達政宗も同時に従三位参議。20日に本多富正、本多成重は従五位。
    • 同月21日に秀忠参内、尾張義直、紀伊頼宣、遠江中将忠直、大崎宰相(政宗)、井伊侍従直孝、藤堂高虎、吉良侍従義広。
  • 慶長20年(1615年)閏6月19日、従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
  • 7月13日元和改元。同18日に帰国の暇を賜う。23日二条城の家康に挨拶の上帰国。8月4日秀忠江戸着、同日家康京を発ち、23日駿府着。
  • 元和元年(1615年)に世子・仙千代(松平光長)誕生。母は高田様こと勝姫
  • 元和2年(1616年)江戸へ。2月に家康不例、4月薨去。
  • 元和3年(1617年)に家康の遺物国次刀一口、銀五千枚拝領。
  • 同年4月帰国の暇。日光に詣でた後、木曽(岐蘇)街道を通って帰国。
  • 元和4年(1618年)5月に江戸参覲するが、途上の今庄で病を発して逗留し、9月になっても病は癒えず、代わりに仙千代が参覲する。9月29日北之庄発。
  • 秀康生母、於万の方(長勝院)北之庄で没。享年72。
  • 弟直基(結城五郎八)元服、16才。
    • ※元和5年(1619年)8月21日徳川忠長に甲斐10万石徳川忠長は従四位下左近衛中将。
    • 元和7年(1621年)6月徳川和子中宮となる。
    • 元和7年(1621年)7月27日、秀康正室・江戸鶴子死去。蓮乗院。
      結城晴朝の養女となり、秀康の正室となった。秀康安没後は、長勝院の仲介により大納言烏丸光広と再婚し、鶴松という子を得た。鶴松は三代松平忠昌のとき越前にきて千石の知行を与えられたが、まもなく死去したという。

 豊後配流

  • 元和7年(1621年)、病を理由に江戸への参勤を怠り、代わりに9月仙千代(光長)が参覲している。10月江戸。※この時出羽守直政が品川まで出迎えている。
  • また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。

    一、越前殿之事、氣違ニて候由、左様にも可在之候哉之事、
    (細川家文書)

  • 元和8年(1622年)に参覲するが途中関ヶ原で留まる。12月に病癒えず帰国する。
  • 元和9年(1623年)2月、将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。29歳。

    同九年月日、因暴虐配豊後國
    九・一〇、蟄居於豊後府内、號一伯

  • 5月5日京都本國寺、5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。※のち日根野吉明
    子の仙千代光長は家督を継ぐことを許されるが、北之庄75万石と越後高田25万9千石(忠昌の旧領)の入れ替えとなり、北之庄75万石は忠直の弟に分けられた。すなわち福井50万石が忠昌(福井藩)へ、直政(のち信州松本を経て出雲藩)に大野5万石、直基(のち山形、姫路。前橋松平家の祖)に木本2万石、丸岡4万6千石を本多成重へ丸岡藩立藩。余り8万石(のち京極家小浜藩へ)と若狭・信濃の内6万石を幕府領とした。
  • ※同年7月27日徳川忠長を従三位中納言に叙任す。
  • 同年2月29日、秀忠は島田弾正利正、安部四郎五郎正之を目付けとして北之庄に派遣し、国政を監視させた。
  • 同年永見頼母、北之庄で死去。※秀康の弟という。向源院。
  • 豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守(津森)に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。越前からの従者は助成のみに限り、幕府は常時2人の目付をつけて監視した。

    猶人近し

  • 竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
  • 慶安3年(1650年)に死去、享年56。北之庄での藩主17年、豊後での蟄居28年という。

    寛永元年 公豊後萩原ニ在

    寛永二年 公豊後萩原ニ在

    寛永三年 公移テ同国津守村ニ居ル

    寛永四年 公豊後津守ニ在

    寛永五年 公豊後津守ニアリ

    寛永六年 公豊後津守ニアリ

    寛永七年 公豊後津守ニ在 正月二十日松千代生ル、母ハ家女平賀氏

    寛永八年 公豊後津守ニ在

    寛永九年 公豊後津守ニ在 七月廿三日熊千代生ル、母ハ松千代ニ同シ

    寛永十年 公豊後津守ニ在
    是歳府内城主竹中采女正黜罰ヲ蒙リ、日根野織部正高吉(吉明)命ヲ奉シテ翌年二月来リ代ル
    公什器三件面ニ枚、唐毛ヲ此地ノ熊野神祠ニ納ム

    寛永十一年 公豊後津守ニアリ
    是年公長光作ノ佩刀ヲ熊野神祠ニ納ム

    寛永十二年 公豊後津守ニアリ

    寛永十三年 公豊後津守ニアリ 李女勘子生ル、月日不詳母ハ家女某氏

    寛永十四年 公豊後津守ニアリ

    寛永十五年 公豊後津守ニアリ
    是年公此地来所在ノ熊野祠・稲荷祠ヲ修造ス

    寛永十六年 公豊後津守ニ在

    寛永十七年 公豊後津守ニアリ

    寛永十八年 公豊後津守ニ在

    寛永十九年 公豊後津守ニ在

    寛永二十年 公豊後津守ニ在
    是年公熊野祠ノ鐘楼ヲ造ル

    正保元年 公豊後津守ニ在

    正保二年 公豊後津守ニ在

    正保三年 公豊後津守ニ在

    正保四年 公豊後津守ニ在

    慶安元年 公豊後津守ニ在

    慶安二年 公豊後津守ニ在

    慶安三年 公豊後津守ニ在
    秋公腫気ヲ患ヒ治療連句痊ヘス、九月十日申の刻遂ニ薨ス、是ニ於テ將軍(家光)石川弥五左衛門ニ命シテ来リ臨ミ、恵照公(光長)、堀三良兵衛・佐野五良大夫・山岡織部ニ命シテ来リ事ヲ執ラシメ、十月十日府内駄ノ原浄土寺ニ於テ火葬シ、遺骨ヲ分テ高野山ニ納メテ宝塔ヲ立、追号シテ西巌院殿相誉蓮友大居士ト云フ、其後浄土寺ノ了宅上人遺骨ヲ負ヒ江戸ノ伝通院ニ来ル、恵照公即チ小石川白山ニ於テ新ニ浄土寺ヲ建立シテ霊牌ヲ安置シ、後年戒善公宝塔ヲ立ツ、

 刀剣

増田藤四郎
もと町人の増田宗善所持。忠直が千貫でこれを買い求める。忠直は豊後の配所でなくなるまで所持していた。のち松平光長から美作の津山松平家伝来。※但し、慶安4年(1651年)9月に光長から遺物として献上している。
中川江
秀忠から拝領し、家綱へと伝わっている。のち尾張徳川家から将軍家。
童子切安綱
もと足利将軍家蔵。秀吉から本阿弥を経て家康、秀忠へと伝わり、勝姫が忠直に嫁ぐ際に贈られた。のち光長から美作の津山松平家に伝来した。
氏家貞宗
氏家卜全から井伊直孝を経て結城秀康。のち津山松平家に伝来した。
結城来国俊
結城秀康が家康から拝領。忠直に伝わるが、この来国俊は京都の傾城屋(遊廓)に移っていた。のち前田利常が購入し、加賀前田家に伝来した。
荒波一文字
元は大内五名剣のひとつといい、毛利家が取り出し家康へと献上。勝姫が忠直に嫁ぐ際に忠直に贈られた。明治末には井伊伯爵家にあったが、大正12年の関東大震災で消失。
道誉一文字
もとは佐々木道誉の所持。朽木家を経て、松平忠直が所持する。光長へと伝わるが、光長も配流されたのち有栖川宮へと伝わり、転々として南部家に伝来したが昭和天皇に献上された。

 逸話

 暴君

  • いわゆる悪人・暴君として名が挙げられることが多く、菊池寛の「忠直卿行状記」や、海音寺潮五郎「悪人列伝」などでその悪行ぶりが描かれている。とくに側室一国が絡む話には凄惨なものもあり、その悪行ぶりが長く越前福井に伝わったとされる。
  • いっぽう同時代に日本におり忠直に洗礼を授けた宣教師フェルナンデスは、次のように報告書に記している。

    私が思うに、気高さにおいて彼と争うことのできるキリシタンは現在の日本にはおりません

  • 一説に、キリスト教を棄教しなかったことが配流の原因とも言われるが詳細は不明。
  • また菊池寛自身も、竹中重次が土井利勝に送った「忠直卿行状記」から次の文を紹介している。

    忠直卿当国津守に移らせ給うて後は、些の荒々しきお振舞もなく安けく暮され申候。兼々仰せられ候には、六十七万石の家国を失いつる折は、悪夢より覚めたらんが如く、ただすがすがしゅうこそ思い候え。生々世々、国主大名などに再びとは生れまじきぞ、多勢の中に交じりながら、孤独地獄にも陥ちたらんが如く苦艱を受くること屡々なりなど仰せられ、御改易のことについては、些の御後悔だに見えさせられず候。……徒然の折には、村年寄僧侶などさえお手近く召し寄せられ、囲棋のお遊びなどあり、打ち興ぜさせたもう有様、殷の紂王にも勝れる暴君よなど、噂せられたまいし面影更に見え給わず。

 真田幸村の最期

  • 大坂夏の陣で、真田幸村を討ち取った人物は、松平忠直隊の鉄砲組頭西尾宗次であるとされる。

 岩佐又兵衛との交流

  • 忠直は、浮世絵の創始者とも言われる岩佐又兵衛との交流があった。
  • 岩佐又兵衛は、荒木村重の子といい、有岡城の戦い後は石山本願寺に保護された。のち母方の岩佐姓を名乗り、織田信雄に御伽衆として仕えるが、信雄が改易された後は浪人となり京都で絵師として活動していたとされる。
  • 大坂の役ののち、松平忠直の招きにより福井へと移り住み、忠直の配流後も同地に留まっている。寛永14年(1637年)に秀忠もしくは大奥荒木局の招きにより江戸へ移り、家光の娘千代姫の婚礼調度の制作を命じられている。
  • 忠直は、この岩佐又兵衛のパトロンであったことが知られているが、さらに「又兵衛風絵巻群」と呼ばれる作品群の制作に密に関与したという指摘がある。特に「豊国祭礼図屏風」(重要文化財徳川美術館所蔵)については、祖父家康および、叔父で義父にあたる秀忠から冷遇された境遇を恨んでのものだとされる(佐藤康宏説)。
    なお所蔵する徳川美術館では、「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)の発注主を、忠直ではなく、蜂須賀家政の可能性があるとする(黒田日出男説)。

 系譜

             本多成重の娘
長寿院奈和          │
├──────松平直良──松平直明───松平直常【明石藩2代】
│ 【木本→勝山→大野藩】【大野→明石藩】
│
│ 徳川秀忠──勝姫
│ 清涼院岡山  ├──┬松平光長【越後高田藩】
│  ├─┬─松平忠直 ├永見長頼──松平綱国
│  │ │      ├亀姫(高松宮好仁親王妃)
│  │ │      ├鶴姫(九条道房室)
│  │ │      └閑(小栗正矩室)
│  │ │
│  │ │      【越前松岡藩初代】
│  │ └─松平忠昌─┬松平光通【福井藩4代】
│  │        ├松平昌親【福井藩5代・7代】
│  │        └松平昌勝───松平綱昌【福井藩6代】
│  │  
結城秀康   【信濃松本→出雲松江藩初代】
│  ├───松平直政─┬松平綱隆【出雲松江藩2代】
│ 月照院       ├松平近栄【出雲広瀬藩】
│           ├松平隆政【出雲母里藩初代】
│           └松平直丘【出雲母里藩2代】
│
│    (結城家)   【越後村上→姫路→豊後日田→山形→白河藩】
├──────松平直基──松平直矩──┬松平基知【陸奥白河藩2代】
品量院                │【美作津山藩初代】
                   ├松平長矩(松平宣富)──松平浅五郎━━松平長煕
                   └松平知清──松平長煕


※越前松平家:結城秀康→松平忠直→松平光長→松平忠昌→松平光通
※結城家:結城秀康→結城直基(松平)

 長子:松平光長

  • 松平忠直の嫡子。母は高田様こと天崇院勝姫
  • 越後高田藩主。

 庶子:永見長頼

  • 寛永7年(1630年)、父の配流地である豊後で生まれる。
  • 母は側室平賀治部左衛門の娘(於婦里殿)。
  • 母の身分が低かったため、祖父・結城秀康の母方の実家である永見氏を名乗った。慶安4年(1651年)、異母兄である越後国高田藩主・松平光長の元へ引き取られ、3千石を与えられる。
  • 寛文7年(1667年)、死去。

 孫:永見万徳丸(松平綱国)

  • 長頼の子。
  • 長頼の死後、遺児である万徳丸が松平光長の養子となり家督を継ぐ(後の松平綱国)。しかし藩内に以前よりくすぶっていた不満と対立によるお家騒動が勃発(越後騒動)。江戸幕府の裁定と処理がもつれた末に、他藩にまで多くの連座処分を伴いつつ光長と綱国は改易され、のちに光長により綱国は廃嫡された。
  • のち美作へ移り宮川御殿と呼ばれた屋敷に住んだが、病を理由に藩の要職には就かなかった。宝永5年(1708年)には出家して更山と号し、享保20年(1735年)に74歳で死去した。
  • 子孫は永見姓に改姓し、以後津山藩家老の家系として存続し、明治3年(1870年)に松平氏へ復姓した。

 庶子:永見長良

  • 寛永9年(1632年)、父の配流地である豊後で生まれる。
  • 母は側室平賀治部左衛門の娘。
  • 慶安4年(1651年)、兄・永見長頼とともに異母兄である越後高田藩主・松平光長から2,000石ずつ与えられる。ところが首席家老・小栗美作が行った蔵米制に反発して両者の間に対立が生じた。
  • 長良は、反小栗派の旗頭とされるが、事態を収拾できなくなった光長は大老・酒井忠清に裁定を訴え出た。酒井忠清は両派に和解を申し渡すが長良らは納まらず、遂に10月、幕府は長良とその一派を人心を惑わした罪で大名家へのお預けの処分を下され、長良も長州藩毛利家に預けられた。
  • 延宝8年(1680年)に綱吉が5代将軍に就くと再調査が命じられ、親裁の結果、小栗美作とその子・大六は切腹、長良もまた同じ派閥の荻田本繁と共に八丈島に流罪、高田藩は改易処分とされた(越後騒動)。
  • 元禄14年(1701年)に八丈島を襲った飢饉により島民の大半が死亡し、長良もまた食料を得る事も出来ずに、金が詰まった千両箱を抱えながら荻田と共に餓死したといわれている。

 子:亀姫(宝珠院)

  • 元和3年(1617年)に越前北ノ庄で生まれる。母は徳川秀忠の娘・勝姫
  • 寛永7年(1630年)、外祖父・秀忠の養女として高松宮(有栖川宮)初代である好仁親王の妃として嫁ぎ、寧子と改める。
  • 明子女王(後西天皇女御)・女二宮の二女をもうけた。
  • 寛永15年(1638年)に好仁親王が没し、落飾して宝珠院と号した。承応2年(1653年)に越後高田に移住する。延宝9年(1681年)、65歳で死去。

 子:鶴姫(廉貞院)

  • 元和4年(1618年)に越前北ノ庄で生まれる。母は徳川秀忠の娘・勝姫
  • 寛永9年(1632年)、叔父徳川家光の養女として従兄である九条道房に嫁ぎ、長子と改める。
    九条道房の生母は豊臣完子(お江の娘)で、従兄にあたる。
  • 道房との間には五人の娘が生まれ、長女愛姫は浅野綱晟の正室、次女令姫は本願寺常如光晴の室、三女梅姫は松平綱賢の正室、四女待姫は婿養子九条兼晴の正室、五女八代姫は綱晟の継室となった。
  • 寛文11年(1671年)、54歳で死去。

 関連項目


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