大慶直胤(刀工)
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大慶直胤(たいけいなおたね)
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概要
- 安永7年(1778年)羽前山形の生まれ。
- 俗名は庄司(荘司)箕兵衛。
- もとは鎌鍛冶であったが、24歳で刀工を志し江戸に出て水心子正秀に師事する。号は大慶、格物道人。
- 寛政13年(1801年)に23歳で独立。初め日本橋堀江住。のち神田に移るが火災にあい和泉橋に移る。
- 文化9年(1812年)ごろ、師の推薦により師とともに館林藩主秋元永朝に召し抱えられる。
秋元永朝は出羽山形藩の2代藩主。宝暦10年(1760年)2月に家督を継ぎ、従五位下、摂津守。安永9年(1780年)12月、但馬守。文化7年(1810年)73歳で死去。安永3年(1774年)には水心子正秀を召し抱えている。自らも作刀し、「永朝」銘の刀が残る。
長男修朝、四男知朝が早世したため、跡は五男の秋元久朝が継いだ。秋元久朝は子に恵まれず、父秋元永朝の娘が周防国徳山藩8代藩主・毛利広鎮に嫁いでおり、その八男撰佐を養子として貰い受け、天保10年(1839年)に隠居し家督を継がせた(秋元志朝)。この秋元志朝の代の弘化2年(1845年)11月30日に上野館林藩に移封されている。
- 腕は師を遥かに凌駕すると評価される。
- 文政4年(1821年)に筑前大掾、嘉永元年には美濃介を受領する。
- 享和から安政ごろにかけて50年間鍛刀を行う。
- 名声が上がり、その間、江戸を始めとして京、大坂、伊勢、遠州、三河、伊豆、相模、下総、常陸、千葉、信濃、備中など各地で鍛刀している。
- 各地で駐槌し地名を刻印で遺す。コロモ(三河挙母)、サカミ(相模)、イツ(伊豆)、エンシウ(遠州)、イセ(伊勢)、シナノ(信濃)、ナニハ(浪速)、ヒッチュ(備中)、助川(常陸)、ヲシテル(大坂)、都(京都)、チヤ(備中千屋)、宮(丹後宮津)、桜花の中に総(下総佐倉)、チバ(千葉)、二荒(日光)など。
- 安政4年(1857年)5月27日没。79歳。
- 銘は「直胤」「出羽国住人荘司直胤」「荘司箕兵衛大慶直胤」「造大慶直胤」「大慶直胤造」「荘司筑前大掾藤直胤」「荘司美濃介藤原直胤」など。
- 娘が門人の次郎太郎直勝に嫁いでおり、直勝は養子となっている。
著名作
- 刀
- 銘「大慶直胤/山田浅右衛門大雁金土壇拂 文化志知(7)年仲春於東府千住」目釘孔の上を月形に彫り、月日を表す。
- 刀
- 銘「大慶直胤/於東武造之」長一尺二寸八分六厘、反り三分。相州上位を模した物。なかごの目釘孔は、丸、四角、と異風。
- 刀
- 銘「出羽国大慶庄司直胤/文化十二乙亥年仲秋応杉原軍記正包望造之」長二尺二寸九分、反り五分三厘。目釘孔1個重要美術品。
- 刀
- 銘「大慶/天保三年正月日 サガミ鍛エンシウ濱松ニテ焼刃」刀身に「君が代は千代にやちよに小石の、巌となりて苔のむすまで 直胤」の刻字。長一尺五寸四分、反り二分。
- 大小刀
- 銘「直胤/天保六乙未年二月」林田等氏旧蔵、柴田光男氏旧蔵
- 脇差
- 銘「七十八翁藤直胤」
- 刀
- 銘「七十翁藤直胤(花押)弘化二申ノ二月 日依/太政殿下台命所造之御太刀副作也」昭和15年9月27日重要美術品指定、鈴木清助氏所持。
- 刀
- 銘「造大慶直胤(花押)/天保九年一陽来復日」長2尺3寸9分(72.45cm)、反り2cm。※一陽来復は、冬が終わり春が来ること、悪いことが続いた後で幸運に向かうことの意。
- 刀
- 銘「藤原直胤(花押) 天保八年一陽来復日」平成15年3月11日岡山県指定重要文化財。津山市・個人蔵
- 刀
- 銘「荘司筑前大掾大慶藤直胤(花押)/文政四年五月日」
系譜
義胤
- 吉胤とも。本荘亀之助。
直勝
- 文化2年(1805年)館林の生まれ。
- 大慶直胤の門人となり、のち女婿となり養子となった。
- 上野館林の秋元家に召し抱えられる。安政5年(1858年)53歳で没。
- 「上総次郎直勝」「荘司次郎太郎直勝」など
- 刀
- 銘「荘司次郎太郎藤原直勝/嘉永元年小春日」長二尺三寸八分、反り五分五厘。備前兼光写し。
二代直勝
- 直勝の子。
- はじめ直好、文久2年(1862年)に直勝を継ぐ。
- 銘「荘司弥門直勝」など
- 廃刀令後の明治17年(1884年)まで生きた。
細田平次郎直光(鍛冶平)
- 次郎太郎直勝門。
- 鍛冶平直光。号 雙龍子
- 江戸湯島天神に住す。
- 名工の押形を収集するが、のち虎徹をはじめ忠吉、水心子正秀などの偽作を多数作刀する。
直光の手に成つた虎徹の僞作は、故今村長賀翁をさへマンマと一杯食はせた程、巧妙に出来てゐる、翁は長曽祢虎徹入道興里銘の刀に、寛文九年四月十一日二つ胴切落人見傳兵衛重次花押とあるのを一見せられて「此試銘金象嵌は確かだが、表の虎徹銘は如何はしいやうに見える中略此銘は古く切りかへたものと見えて餘程落着きよくなつてゐるから、前々からさう云う悪いことをするものが澤山あつたと見える」と云はれたが、豈圖らんや、此一刀は直光の僞作で、而も明治二十四年後に僞作したものである。直光の「虎徹銘集」明治二十三年十月からの部二十四本目にチャンと出てゐる(略)猶ほ直光が金象嵌銘にも、獨特の僞作手腕を持てつゐたことは、此一語で分るであらう
直光が虎徹ばかりの僞作師でないことは、此「鍛冶平眞僞押形」が、最も雄辯に立證してゐる、古刀、新刀、新々刀を通じて、仲々精巧に僞作してゐるのみか、本阿彌代々の象嵌銘、山野、人見其他の試象嵌銘、所持銘までも僞作してゐるが、殊に金象嵌銘が得意であつたと見える。鍔の僞作は信家に多いが、地は薄肉、耳は打返へし、其持味は頗る佳い。
(かぢ平真偽押形)
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