池田正宗
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池田正宗(いけだまさむね)
- 埋忠銘鑑
池田備中殿 慶長十二年ニ寿斎さうかん入申候
由来
- 号は池田備中守長吉の所持に因む。
来歴
伊達政宗→有馬晴信
- はじめ伊達政宗が千貫で求め、有馬修理(晴信)に売っている。
有馬晴信は日野江城城主。秀吉の九州平定では豊臣勢に加わり安堵される。関が原の戦いでは東軍に属し、加藤清正とともに小西行長の宇土城を攻撃することとなるが、晴信は眼病のため出陣できず代わりに直純がその名代として出陣した。有馬氏の旧領を回復せんとして幕府に願い出るも、岡本大八事件に連座して慶長17年(1612年)5月に甲斐で自害した。子の有馬直純は、早くから家康に近侍し、家康の養女・国姫(桑名藩藩主・本多忠政の娘)を正室として娶る。父の事件に際しては連座を免れ、肥前日野江藩主となっている。のち転封を願い出て認められ、慶長19年(1614年)に日向延岡5万3千石となっている。
池田長吉
- さらに池田備中守長吉へと譲渡。
- 池田長吉は、慶長12年(1607年)12月に本阿弥光徳に依頼して金象嵌を入れさせ、埋忠寿斎により「正宗 磨上/本阿弥(花押)」と入っている。
池田備中殿 慶長十二年ニ寿斎さうかん(象嵌)入申候
秀忠
- その後徳川秀忠に千貫で献上される。
家光→前田利常
家光→尾張義直
- その後将軍家に戻ったと見え、寛永13年(1636年)9月、家光が尾張邸に御成の際に尾張徳川家の所蔵となる。※慶安元年(1648年)ともいう。
一、寛永十三年九月廿一日御成之時 正宗御腰物 公方様より拝領 代金百五十枚
(御腰物請取・払方帳)代四千貫 子ノ九月御成之時 御拝領
(尾張徳川家御腰物)
尾張家代々
- 尾張家では慶安3年(1650年)本阿弥に鑑定させ、二百枚の折紙を付けさせている。
- 元禄6年(1693年)に尾張3代綱誠が相続した際に、2代藩主の父光友から玉置市正を使者としてこの正宗と、「奈良屋貞宗」を大小にして贈られている。
- 尾張徳川家14代慶勝もこれを指料とした。
- 現在は徳川黎明会所蔵で、徳川美術館で見ることができる。
池田備中守長吉
- 池田恒興の子で、池田輝政の弟にあたる。生母は恒興の正室・善応院。
- 天正9年(1581年)12歳のとき、羽柴秀吉の猶子となり、羽柴藤三郎を称す。この時、澤潟(おもだか)の紋付を授かっている。
- 天正12年(1584年)の長久手の戦いに参陣し、池田勢は大敗し長吉も傷を負ってしまう。
- 天正13年(1585年)従五位下備中守に叙任され、1万石を知行される。のち方広寺の大仏殿工事を分担し、九州征伐や小田原攻めに従軍し功をあげる。
- 文禄元年(1592年)の文禄の役では秀吉の旗本衆として400人を率いて在陣し、朝鮮渡海の船奉行を務めて名馬・大般若を賜る。
- 慶長5年(1600年)には2万2千石となっている。
- 慶長5年(1600年)7月の家康による会津征伐には兄の輝政とともに参陣し、小山評定で兄の部隊とともに先手衆に加えられた。美濃岐阜城攻めに参加、飯沼長資を自ら討ち取っている。関ケ原本戦の後、近江水口岡山城攻めを命じられ、長束正家・長束直吉兄弟を9月30日に助命すると欺いて開城させて誘い出し、10月3日に切腹させるという戦功を挙げ、褒美として正家の財貨は悉く長吉に与えられた。
- これら関ヶ原合戦での功により、因幡鳥取6万石を与えられた。この時池田姓に復している。
- 慶長8年(1603年)、伏見城の再建普請に参加。慶長11年(1606年)、江戸城の石垣普請を分担。その功で備前三郎國宗の脇差しを賜った。
- 慶長19年(1614年)9月に死去。享年45。
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