酒井忠勝


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  • ほぼ同時期に同名忠勝が2名いる。
    1. 若狭国小浜藩主:雅楽頭酒井家。川越藩から若狭小浜藩。老中・大老
    2. 出羽国庄内藩主:左衛門尉酒井家。越後高田、信州松代を経て出羽庄内藩
  • 両者は、酒井広親を共通の祖先とし、家忠の系統は雅楽頭酒井家、氏忠の系統が左衛門尉酒井家を名乗った。
              【酒井雅楽頭家】      ┌重忠─忠世[厩橋藩]
            ┌家忠─信親─家次─清秀─正親─┴忠利─忠勝[若狭小浜藩]
            │
 松平親氏─┬酒井広親─┴氏忠─忠勝─康忠─忠親─忠次──家次─忠勝[出羽庄内藩]
      └松平泰親   【酒井左衛門尉家】

※左衛門尉酒井家の忠次が徳川四天王。左衛門尉酒井家にはもう一人同名の酒井忠勝がいる。なお、さらにそれぞれの子孫に同名の酒井忠義がいる。一人は小浜藩12代・14代藩主であり、もう一人は出羽庄内藩3代藩主。

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 酒井忠勝(さかいただかつ)

雅楽頭酒井家
武蔵川越藩2代藩主、後に若狭小浜藩初代藩主
3代将軍家光~4代将軍家綱の老中・大老
讃岐守

 生涯

  • 天正15年(1587年)6月16日、徳川家康の家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子として三河国西尾に生まれる。
  • 天正19年(1591年)11月、下総国に3000石を与えられる。初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦である。慶長14年(1609年)11月、従五位下讃岐守に叙任。元和6年(1620年)4月24日、第2代将軍秀忠の命で世継の家光付きとなり、元和8年(1622年)12月3日に武蔵国深谷7000石を加増され、合わせて1万石を領する。
  • 寛永元年(1624年)8月には将軍家光の上洛に従い、上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となる。
  • 寛永4年(1627年)11月14日、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩の第2代藩主となる。寛永9年(1632年)9月19日、武蔵国のうちから2万石加増され、同年12月1日には従四位下に昇叙し、侍従に遷任し、讃岐守の兼帯留任。
  • 寛永11年(1634年)閏7月6日には、京極氏の跡を受け若狭1国および越前、近江、安房に加増され、若狭国小浜へ移り、若狭一国、越前敦賀郡、近江高島郡のうち11万3500石を領する(京極氏の所領をひきついだもの)。将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされた。※寛永13年(1636年)に在府料として関東で1万石を加えられ、12万3500石となった。

    勝に若狹一國下されしとき。(略)いにしへよりあまたの將軍ありといへども。我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐。左の手は伊豆と仰られしとぞ。

    ただし忠勝は幕府要職を歴任したために在府を余儀なくされ、若狭に赴いたのは23年間の藩主在任中わずかに四度で、初入部は受領時の寛永11年(小浜:8/19-11/22の3ヶ月間)、ついで小浜城天守築城の寛永13年(江戸8/27-小浜発11/10、江戸着12/1の2ヶ月間)、飢饉への対応のために寛永19年(江戸発7/19-小浜着8/5-小浜発11/13の3ヶ月)、後光明天皇測位で幕府上使として上洛した際に立ち寄った寛永20年(江戸発9/12、小浜着9/23-小浜発10/3、江戸着11/1の10日間)のみとなっている。

  • 寛永20年(1643年)11月4日従四位上・少将。
  • 寛永15年(1638年)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。
  • 寛永20年(1643年)11月4日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。讃岐守の兼帯留任となる。

 刀剣

入道拗切
左文字。黒田長政から若狭小浜藩主の酒井忠勝に贈られたもの。明治まで同家に伝来した。
放下通し吉光
藤四郎作の槍。小浜藩酒井家の家臣の氏家氏に伝来した。
  • 酒井家編年史料稿本
寛永3年(1626年)
  • 9月6日

    水尾天皇、二条城に行幸、徳川家光参内して之を迎へ奉る、酒井忠勝等之に従ふ、尋て天皇、忠勝に太刀を賜ふ

寛永6年(1629年)
  • 閏2月

    先是将軍徳川家光痘瘡に罹る、忠勝晝夜近侍して看護に努む、幾日ならずして癒ゆ、家光手から腰刀を武蔵国川越藩主酒井忠勝に賜ひ其労を慰す

寛永10年(1633年)
  • 12月27日

    将軍徳川家光、腰刀を武蔵国川越藩主酒井忠勝に賜ひ、貝桶役の労を慰す

寛永11年(1634年)
  • 6月

    洛にのぼらせたまふのとき供奉し、天盃をたまひ、森家の御太刀を勅賜せられ、閏7月六日二条城にをいて封地を加へられ、川越をあらためて若狭国一圓、ならびに越前国敦賀郡を賜ひ(寛政重脩諸家譜)

  • 7月18日

    武蔵国川越藩主酒井忠勝、将軍徳川家光に扈従し参内し、龍顔に咫尺し天盃太刀其他を拝領す、尋て上皇及び東福門院に参殿又恩賜あり

寛永12年(1635年)
  • 8月22日

    将軍徳川家光、江戸の海辺を遊覧し、帰途若狭国小浜藩主酒井忠勝の龍口の邸に臨む、四聖坊肩衡の茶入を賜ふ、若狭国小浜藩主酒井忠勝も亦正宗の短刀を献ず

    居邸に渡御あり、四聖坊肩衡の茶入貞宗の御刀を拝賜し、忠勝よりも来国光の刀を献ず(寛政重脩諸家譜)

寛永13年(1636年)
  • 6月

    若狭国小浜藩主酒井忠勝、太刀一振を駿河浅間社に奉納す

  • 8月25日

    将軍徳川家光、若狭国小浜藩主酒井忠勝に就国の暇を賜ひ、且太刀及鷹を賜ふ

    封地にゆくのいとまたまはるとて、兼光の御刀及び黄鷹を賜ひ(寛政重脩諸家譜)

寛永14年(1637年)
  • 9月5日

    将軍徳川家光若狭国小浜藩主酒井忠勝の牛込の別業に臨む、忠勝、貞宗の刀を献ず

  • 12月20日

    将軍徳川家光、新築の本城に若狭国小浜藩主酒井忠勝を召して謁を賜ふ、忠勝また太刀及馬を献して新城に移徙を賀す

寛永15年(1638年)
  • 10月20日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝の牛込の別墅に臨み、忠勝に刀を賜ふ、忠勝も亦徳川家康の遺墨并に書棚を献す

寛永18年(1641年)
  • 1月13日

    将軍徳川家光また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨み鞭打等を覧る、忠勝刀を献す

  • 7月1日

    将軍徳川家光西城に臨む、若狭国小浜藩主酒井忠勝茶並に越刀を献す

  • 8月9日

    将軍世子徳川家綱生る、是日七夜の儀あり、若狭国小浜藩主酒井忠勝産衣越刀等を献じて之を賀す、尋て将軍徳川家光、忠直(忠勝季子)を召し、初めて謁を賜ひ世子の小姓となす

  • 8月14日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、菱喰一羽を賜ふ、乗馬を覧る、又忠勝の季子忠直に腰刀を賜ふ

  • 12月28日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、忠勝、刀を献して歳末を賀す

寛永19年(1642年)
  • 5月26日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、腰刀を賜ふ

  • 6月26日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨み、刀を賜ふ

  • 7月18日

    将軍徳川家光、茗燕を設けて若狭国小浜藩主酒井忠勝の就国を餞し、黄鷹二居、巣鷂二連及び腰刀一柄を、更らに朽木植綱を以て馬を賜はり、且つ世子徳川家綱よりも物を賜ふ

  • 12月10日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、忠勝、刀を献し歳暮を賀す

寛永20年(1643年)
  • 1月12日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、忠勝刀を献じて新春を賀す

  • 10月27日

    二十一日参内し、二十七日天盃を頂戴し、備前兼光の御太刀をたまふ。また院参して御盃および兼光の御太刀を拝賜す。(寛政重脩諸家譜)

正保元年(1644年)
  • 1月12日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、鞭打を覧る、忠勝、刀を献して新春を賀す、家光、忠勝の末子忠直に特服を給ふ

正保2年(1645年)
  • 10月8日

    若狭国小浜藩主酒井忠勝、刀を将軍世子徳川家綱に献ず

正保3年(1646年)
  • 1月14日

    将軍徳川家光の四子徳松(綱吉)誕生、是日七夜の祝儀あり、若狭国小浜藩主酒井忠勝刀を献じて之を賀す

正保4年(1647年)
  • 2月12日

    将軍徳川家光、また若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に臨む、忠勝に腰刀を賜ふ

慶安元年(1648年)
  • 2月9日

    将軍世子徳川家綱、初めて若狭国小浜藩主酒井忠勝が牛込の別墅に遊ぶ、末子忠直及弟忠吉・忠重・忠次等に物を賜ふ、差あり尋て家臣酒井内匠・三浦帯刀・青山伊右衛門・林野惣左衛門・江見求馬・阿部玄蕃・深栖大蔵等に謁を賜ふ

承応元年(1652年)
  • 11月7日

    日光山の造営落成す、是日将軍徳川家綱、若狭国小浜藩主酒井忠勝に腰刀を賜ひてその総監の労を慰す

明暦2年(1656年)
  • 3月19日

    職を辞し(寛政重脩諸家譜)

  • 4月8日

    将軍徳川家綱の疱瘉ゆ、是日若狭国小浜藩主酒井忠勝刀を献して之を賀す、家綱も亦忠勝に刀を賜ふ

  • 5月26日

    五月二十六日牛込の別荘に渡御あり、兼光の御太刀吉光の短刀、左文字の御刀、時服二十領、白銀五百枚を賜ふ。忠勝も延寿国資の太刀、相州行光の短刀、貞宗の刀、土佐畫源氏の屏風一双、歌仙二巻、盆山及び鞍をきたる馬、越前綿二百把、黄金五十枚を献ず是時日ごろ衰老を告て訴へ申むね恩許ありて致仕し、二十七日得物志津の刀、をよび土佐が畫に為家讃の歌仙折本、(略)を献ず(寛政重脩諸家譜)

万治2年(1659年)
  • 1月18日

    酒井忠勝、将軍徳川家綱に本多忠勝の遣刀を献し、成年の儀を賀す

寛文元年(1661年)
  • 4月4日

    酒井忠勝、細川忠与遺愛の腰刀及東鑑元仁嘉禄記一冊、並に東鑑提要二冊を将軍徳川家綱に献ず

寛文2年(1662年)
  • 9月3日

    若狭国小浜藩主酒井忠直忌明の儀あり、同族酒井忠清・支族酒井忠吉・同忠綱等に請ず、是日登城、将軍徳川家綱に解忌を謝し、亡酒井忠勝の遺物として前きに酒井忠勝が故将軍徳川家光より拝領の短刀及二十八祖像賛四軸を献じ、唐織及び黄金百両を献ず、其他遺物の贈遺差あり


 酒井忠勝(出羽国庄内藩主)

左衛門尉酒井家
出羽国庄内藩主
越後高田藩主、信濃松代藩主を経て、出羽庄内藩の初代藩主
宮内大輔

 生涯

  • 文禄3年(1594年)、酒井家次の長男として生まれる。元服した際には主君徳川秀忠より偏諱を拝領し、忠勝と名乗った。
    • 祖父酒井忠次は、徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされる家康股肱の臣。
  • 慶長14年(1609年)1月23日、宮内大輔に任じられる。
  • 相続後間もない元和5年(1619年)3月に越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石に移封されている。それから3年後の元和8年(1622年)6月7日に最上義俊が改易されたのに伴い、出羽庄内藩13万8,000石に加増され、移封された。
  • 庄内に入部後は交通の要衝・酒田の亀ヶ崎城に代えて、かつて大宝寺氏が拠点としていた鶴ヶ岡城を居城と定めている。しかし亀ヶ崎城も存続を許され、小藩としては異例となる2城を持つことになった。

 刀剣

  • 多くが出羽庄内藩主ゆかりの致道博物館で所蔵される
信濃藤四郎
永井信濃守尚政の所持。将軍家に献上された後、加賀の前田光高を経て出羽庄内藩主酒井忠勝に売却された。重要文化財。致道博物館所蔵
猪切
酒井忠次が家康のお供で狩りに出た時に猪を切ったため、なかごに「猪切」と金象嵌を入れたことにちなむ。忠次四男の松平甚三郎久重(庄内藩主席家老)の家に伝来した。
十万束
銘「信房作」御物
太刀
銘「信房作」刃長75.4cm、反り2.4cm。鋩子よく沸え、表小丸風、裏掃き掛けて返る。生ぶ中心。目釘孔2個。目釘孔上に信房二字銘。小牧長久手の戦いの功により家康より拝領した太刀国宝。致道博物館所蔵
太刀
銘「真光」長二尺五寸五分(77.3cm)、反り九分三厘(2.8cm)。鎬造り、庵棟、腰反り踏張りあり。表に金筋入る。表裏に棒樋を掻き流す。なかご生ぶ、先栗尻。表鎺下に二字銘。目釘孔3個。長篠の合戦において鳶ヶ巣山の砦を落とすことを進言した功により、信長より拝領した太刀。甲斐から駿府をまわった後、吉田城に立ち寄り与えた。国宝。致道博物館所蔵
冑割り兼定
宇喜多忠家の長男坂崎出羽守直盛の所持。のち旗本の安藤伝十郎定智を経て出羽庄内藩主の酒井忠勝が金二百両と脇差一腰で買い上げた。最後の藩主酒井忠篤が西郷隆盛に贈っている。
見返り元重
肥後熊本の細川家から、出羽庄内藩3代藩主の酒井忠義に贈られたとする。重要文化財。株式会社ブレストシーブ所蔵


 関連項目


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