夫馬正宗


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 夫馬正宗(ふままさむね)

短刀
八寸九分半
名物 夫馬正宗

  • 享保名物帳所載

    夫馬正宗 長八寸九分半 代金三百枚 加藤和泉守殿
    表二筋樋、裏梵字棒樋、忠切先、大坂の侍夫馬甚三郎と申者所持、利常卿御求、後に至り出来位不宜とて光甫へ御申付払可申由、加藤式部殿御所望、金四百枚に御求被成度由申す利常卿へ申上る、五百枚に候はゞ払候へとて無同心其段式部殿へ申入る依て五百枚にても御求可被成由御申し罷帰り其趣加州御屋敷へ可申遣と存候折柄又役人中より四百枚にても払可申候様にと申来る夫に付中をとり了簡仕り四百五十枚に御肝煎申す由物語申也、元禄年中極る

  • 平造り、真の棟、差表に丈比べの二筋樋、裏に梵字と腰樋。
  • 鋩子は中丸、反りは浅い。中心は先を少し詰め、目釘孔2個。正宗二字銘。
    読みについては、「ふば」「ふうば」「せば」とするものもある。現在の滋賀県にも地名夫馬及び人名夫馬があるが、地名では「ぶま」と呼ぶようであり、人名としては「ふま、ふうま、ぶま、おとま、おとば、おとうま」などと様々に呼ばれているようだ。
  • 今枝民部直方の「越年使役日記」にも登場する。

    一、夫馬正宗ト云脇()ハ銘アリ。古ヨリ名物ニテ脇刺ノ形ナド直シタル事モナシ。夫馬甚二郎ト云士ノ所持也。今ノ究リ三百枚也。微妙公ヘ被召上ケルガ、光甫ト御談合ノ上御払ニナル。加藤式部少()明成三百枚ニ可求ト云々。公ニハ四百枚ナラバ可払ト仰ニテ埒明ズ。其後明成ヨリ四百枚ニテモ可求ト申来。故ニ光甫指心得売手買ノ代付ノ中半三百五十枚ニ究テ申上。御払ニナリ、今ニ加藤和泉守嘉矩家ニアリ。此家筋、嘉明、明成、明友、明英、明治、嘉矩ト連続セリ。明成国ヲ上ラレシ事ハ別ニ記之置。

Table of Contents

 由来

  • 大坂の侍夫馬甚三郎(甚次郎、甚十郎とも)という者の所持にちなむ。
    夫馬甚三郎はもと織田頼長に仕えたという。織田頼長は織田有楽斎の子。

    夫馬甚三郎正宗 寿斎金具仕候

 来歴

 夫馬氏

  • 夫馬は豊臣氏の馬廻り役で、文禄の役では肥前名護屋にいた。

    文禄元年朝鮮國新發名護屋在陣衆
      文禄元年朝鮮國新發の人數つもり肥前名護屋在陣の衆の内
    (略)
    六番速水組に
    本郷庄左衛門尉
    夫馬甚次郎

  • 関ヶ原ののち浪人。その時に手放したと見える。
  • 大坂の役では大坂方の募集に応じたのか、「新東鏡」にその名が見える。これによると、速水甲斐守時之の組下で432石を取っている。

    速水甲斐守時之  一萬石
     七組の長にて、旗は段々の立筋、馬印は輪貫なり。
     一本に、其身は二の丸に在りて、組を三の丸に出し置くと云々。
        組の輩
    (略)
      夫馬(せば)甚三郎 異本に、武卜(部ヵ)甚二郎遠元とあり 四百卅二石
    (略)
    都合廿八人、

    速水甲斐守時之は、速水守久(時久、種久、時之、種之、通称は少太夫)。速水氏は近江国浅井郡速水城を拠点とする国人。速水実政の子である時久の子として誕生し、当初は浅井氏に仕えた。秀吉に仕え近習組頭となる。小牧長久手、小田原などで歴戦し、文禄・慶長の役では肥前名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めた。平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増されたという。秀吉の死後も秀頼に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行として活躍。旗本部隊の中核を担った七手組の一人となる。慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘問題で片桐且元が疑われるとその調停に尽力し、且元退去後もその調停に務めたという。
     大坂冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に大阪夏の陣では天王寺の戦いで真田信繁らと並んで藤堂高虎を敗走させるなど活躍したものの(遊軍として真田隊の殿を務めたという)、大阪城に退却した。天守閣が炎上すると、かねてよりの手順通り山里曲輪の朱三矢倉へ、秀頼・茶々・千姫・大野治長ら側近30名程を誘導。その後千姫教育係であった守久は、千姫を無事に徳川陣屋に送り届け徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め、殉死したという。

  • 大坂の役(夏の陣)が終わった後、8月23日に家康は駿府に到着してから大坂での首帳を見ており、速水組の中に夫馬甚次郎の名前があり討ち取られたと思われる。

 丹羽長重→前田利常

  • 一時丹羽長重(長秀の長男)が所持していたがこれも手放したため、本阿弥光甫が買い上げ、それを前田利常が買い上げる。
  • この時京都藩邸詰めの黒坂吉左衛門に命じて本阿弥光室本阿弥光瑳の意見を聞いている。それによれば、出来や銘はいいが剣形も彫物も拙く大きな刃こぼれもあるため、お買い上げは御無用となった。しかし光甫が研ぎ直せば名刀になりますと薦めたため、判金七十五枚で買い上げた。その後光甫が研ぎ直すと光室が驚くほど良くなったという。
  • しかし、前田利常は気に入らないところがあるというので、本阿弥光甫に五百枚で売るよう命じた。

 加藤家

  • これを加藤明成(加藤嘉明の子)に見せた所、五百枚ではなく四百枚なら買うということだったが、結局四百三十枚で売り払っている。※上の「越年使役日記」では三百五十枚。
  • 加藤明成は老臣・堀主水との争いのかどで寛永20年(1643年)に領地召し上げ(会津騒動)となるが、のち嫡子の加藤内蔵助明友が石州安濃1万石、のち江州水口2万石に取り立てられる。
  • その子、加藤明英は本阿弥に鑑定に出し、金三百枚の折紙をつけさせている。
    加藤嘉明──加藤明成──加藤明友─┬加藤明英━┳加藤明治
                     │     ┗加藤嘉矩──加藤明経
                     │
                     ├溝口正親
                     └加藤明治─┬加藤嘉矩
                           └加藤明喬
    
  • 元禄の末に再度出した所、七千貫といってきたがその時は折紙は付けなかった。そのため享保名物帳では三百枚で載る。ただし本阿弥の内部では三百五十枚としたのか、これを三百五十枚とする本が存在する。

    夫馬正宗 加藤越中守殿 三百五十枚

    享保名物帳の「加藤和泉守」は水口藩初代の加藤嘉矩。加藤明友の三男・明治の長男として生まれる。実父の明治は、その兄・明英の養子となるも、家督相続前の正徳元年(1711年)12月2日に早世し、翌年には藩主明英も死去したため、嘉矩が跡を継いだ。同年6月に近江水口に転封している。
     「加藤越中守」は嘉矩の養父の加藤明英とされる。

  • 在銘であるにも関わらず元禄5年(1692年)に鑑定が行われ、10月3日付けで正宗極めの折紙が出されている。加藤明英の代と思われる。

ごちゃごちゃやり取りをしているが、結局前田家にあった時は五百枚もしたものが、加藤家では四百三十枚で買い取り、その後一度三百枚まで下がった後、三百五十枚に戻したということになる。

  • 明治まで同家に伝来。
  • 明治5年(1872年)、加藤子爵より明治天皇に献上され、御物となる。ただし、次の本には徳川将軍家を経由したと書かれているが、詳細は不明。

    夫馬正宗には銘あり、長八寸九分半には昔大阪の侍夫馬甚次郎所持故申傳へ候、表二筋樋、裏梵字樋有之、後徳川家に歸し、維新の際、宮内省へ献ぜられしものにて、(本阿弥)忠敬曾て富小路殿、今村(長賀)、竹中(公鑒)諸氏と御前に於て御鑑別の砌拝見仰付られたること有之候、






 真贋論争

  • 明治20年ごろ、侍従の富小路敬直は天皇の命により、天皇家所持の刀剣について真偽良否を審査することになった。
  • この時の審査で、この「夫馬正宗」について大竹留七氏が銘を不可とし、京の信国だろうと発言する。今村長賀もこれに賛成し、たとえ正宗であってもこのような疵物は除外すべきと主張した。一方本阿弥長識本阿弥光賀、本阿弥忠敬の3名はこれに同意せず、先祖の鑑定通り正真であると主張した。
  • 審査に合格したものについては番号をつけて内庫に保存することになったが、夫馬正宗は結局多数決で番外となり、戦後は国有財産となって東京国立博物館保管となっている。
  • 明治29年(1896年)、宮内省御剣係において偽物ではないかという話が出てきて激しい論争となり、そこからそもそも刀工正宗自体の存在を疑う「正宗抹殺論」が巻き起こった。
  • 現在では、偽銘とされた「夫馬正宗」の銘は初期の銘とされている。

Amazonファミリー無料体験