長銘正宗


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 大坂長銘正宗(おおさかちょうめいまさむね)

短刀
銘 相州住正宗 嘉暦三年八月日
名物 大坂長銘正宗
8寸6分(26.1cm)
徳川美術館所蔵

  • おおさかながめいまさむね
  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    大坂長銘正宗 長八寸六分 不知代 大坂御物
    相州住正宗、嘉暦の年號細川幽斎老所持、秀吉公へ上る、秀頼公へ伝ふ

 由来

 来歴

  • もとは細川幽斎の所持だったが、秀吉に献上された。
  • 秀吉はこれを一之箱に納めた。

    長銘正宗 八寸六分 銘 相州住正宗 嘉暦三年八六月日

    御物、長銘ノ正宗、八寸三分、ヤ

  • これとは別に、千利休が信長から拝領した「宗易正宗」(刃長八寸三分)も存在するが、どうも同物のようだ。となると、細川幽斎の所持だったのではなく、信長より千利休、秀吉という伝来になると思われる。
  • 秀頼に伝わり、慶長17年(1612)正月に埋忠寿斎に命じて金具を造らせている。

    秀頼様 寿斎金具 慶長十七年正月仕申候 長めい長八寸三分大坂ニテ焼ケ申候

  • 2年後の大坂冬の陣の直前の慶長19年(1614年)11月、秀頼は長崎の商人高屋七郎兵衛に手紙とこの短刀を持たせ、薩摩の島津家久を大阪方へ勧誘しているが家久はこれを断っている。11月1日に家久より家康にその旨報告を行っている。

    島津陸奥守使者来申云、去比従大坂、長崎往来商人高屋七郎兵衛、以秀頼公黒印并長銘正宗脇指令持参、今度就一儀、陸奥守可頼之由申来、陸奥守返答云、於薩摩關か原以来流牢之處、大御所以御恩、本領安堵、然者大坂同心之儀不成由、七郎兵衛依商人不殺之、彼脇指返之旨言上、彼書者使者持参、本多上野介披露之云々(駿府記)

    島津家文書にも同様の記述が残る。「正宗長銘之御脇指拝領、誠に雖奉存忝候、右之御理ニ候間、致返上候、可然様ニ、可預御披露候、恐々謹言、十月十二日島津陸奥守家久 大野主馬殿」(島津家文書 一五三一)

  • 再び一之箱に収まったが、大坂夏の陣で焼けている。
  • 長銘正宗は焼け跡から掘り出され、家康の命により初代越前康継が再刃した。家康歿後、「駿府御分物」として尾張徳川家に分与された。

    長めい正宗 ※尾張家
    駿府御分物刀剣元帳

    情報のご提供を頂きました。ありがとうございました。




 江戸長銘正宗(えどちょうめいまさむね)

短刀
銘 相模国鎌倉住人正宗 正和三年十一月日
九寸六分

  • えどながめいまさむね
  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    江戸長銘正宗 長九寸六分 不知代 御物
    菖蒲造り表うら樋、相模国住人正宗正和三年十一月日とあり、氏郷十八枚に求め、藤三郎殿より家康公へ上る、加賀中納言殿拝領また上る

 由来

  • 長い銘が切られているため。
  • これより前に「大坂長銘正宗」があったため区別するために「江戸長銘」となっている。

 来歴

 蒲生氏郷

  • 蒲生氏郷が金十八枚で求め、子の秀行に伝える。

 蒲生秀行→家康

  • 蒲生秀行が家康の三女振姫を娶っていた関係でこれを家康に献上する。
    蒲生秀行
    通称は藤三郎。従四位下飛騨守、侍従。

 秀忠→前田利常

  • 前田利常が慶長19年(1614年)に左少将に進んだのを祝して9月9日秀忠から下賜。

    九日重陽例のごとし。松平筑前守利常左近衞權少將にのぼる。長銘正宗の御脇差をたまふ。

    「大納言様御ひざう之御こし物共」に、「一、正むね、わきげ。これは蒲生飛騨守より御ゆい物」と記される一振がある。恐らく本刀ではないかと思われる。

 前田利常→家光

  • 寛永6年(1619年)4月26日家光が利常の別邸に臨んだ時に献上している。




 柴田長銘正宗

  • 大坂・江戸長銘正宗とは別の、柴田勝家が所持したという長銘正宗。

 来歴

  • 来歴は不明だが、勝家の前は秀吉が所持していた。
  • 天正10年(1582年)本能寺の変後に秀吉が光秀を討つと、柴田勝家との間に緊張が走り始める。
  • その10月に冬を迎え動きの取れない柴田勝家が前田利家を使者に立て、姫路にいた秀吉に親善の申し込みをしてきたため、秀吉はそれを受け、その際に利家に腰に差していた相州正宗を贈った。利家も返礼に長谷部の脇差を贈っている。

    姫路より三里御出し、送り迎ひのかり屋形仰せ付けられ、其の所まで、筑前守殿、又左衛門殿を御送りなされ、御馳走残る所御座なく、盃の上にて、正宗の御腰物、秀吉御腰より抜き出され、これを進められ候。又左衛門殿も、是は不出来なる刀にては御座候へども、祝儀の為にとて、長谷部の刀これを進められ候。

  • さらに秀吉は、答礼のため異母弟の羽柴秀長(美濃守)を勝家のもとに派遣する。
  • 勝家はこれに喜び、北之庄出立の前夜、秀長に郷義弘の小刀と相州正宗の刀を与えている。

    其の晩、数寄御座候。夜に入り、くさりの間にて、明日は御戻りなさるべく候や。祝儀の為にとて、郷の脇差と、正宗の刀、十文字にくみて、これを進められ候。(略)其の座に掛り申したる一休の達磨のそけたるを、美濃守殿(秀長)ほめなされ候。勝家あいさつに、あの達磨と、そけたるけんさん天目持ち候。是ご覧候へとて、天目を取り出させ、御目に懸けられ候。扨々、かようなる天目などは、見申したる事もなく御座なく候と、あいさつにて、美濃守殿御ほめなされ候間、進ずべく候とて、勝家自身御立ち候て、掛物をはづし、右の二色ともに、美濃守殿え進ぜられ候事。

  • 翌日勝家の元を辞する時、秀長は秀吉の命により長銘正宗の脇差を勝家に贈っており、勝家は今まで差していた脇差を取った上でその正宗を指し、満足の意を表した。

    美濃どの姫地(姫路)を御立ち候時、秀吉御さし図には、贈りさけの所にて出し候へとて、長銘の正宗の脇ざし美濃守殿え御渡し候を、勝家へ進められ候。勝家戴き、播磨にて又左衛門殿秀吉へ進められ候刀の時、筑前守殿より、御時宜に、ちつとも違わず。是れは筑前守殿より直に下され候と同前にて御座候との時宜にて、柴田殿、右に御差し候脇指を抜き、小姓に持たせ、美濃殿より進められ候脇指を差し替へられ候事。

  • しかしこの和平交渉はあくまで一時的なものであり、その後二者の対立は避けられないものとなる。天正10年(1582年)の冬には秀吉が長浜城と岐阜城を攻略、翌年2月にはついに勝家も北之庄城から近江へと出陣し、両者は賤ヶ岳で激突した。
  • 天正11年(1583年)4月24日、柴田勝家は北ノ庄城に火を放ち自刃する。長銘正宗もその時焼失した。

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