本多政重
本多政重(ほんだまさしげ)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将
本多正信の次男
山城守、大和守、従五位下安房守
- 生涯に何度も名前が変わる。倉橋長五郎→正木左兵衛→直江勝吉→本多政重。ここでは政重で通す。
生涯
- 徳川家康・秀忠の最側近として絶大な権勢を振るった本多正信の次男として生まれる。
- 兄は下野国小山藩主、同宇都宮藩主で老中を務めた本多正純。
- 弟は下野国榎本藩の初代藩主本多忠純。
本多政重は徳川氏の老臣佐渡守正信の第二子にして、天正八年を以て生まる。政重年十二の時、倉橋長右衞門の養ふ所となり、長五郎と稱し、二年の後出でゝ家康の臣となりしが、慶長二年秀忠の乳母子岡部莊八を斬り、伊勢に遁れて正木左兵衞といひ、幾くもなく京師に行きて大谷吉隆に仕へ、四年更に宇喜多秀家の臣となりて祿二萬石を食み、五年西軍に從ひて伏見及び關ヶ原に戰ひ、その敗るゝに及びて近江の堅田に隱棲せり。小早川秀秋等これを聞きて辟さんとせしが、政重は之に從はず、安藝に赴きて福島正則に仕へ、三萬石を食めり。次いで七年、正則を辭して利長に屬し、本多山城と稱す。その食祿尚舊の如し。然るに九年、政重は又去りて米澤に赴き、上杉景勝の臣直江兼續の養子となりて、姓名を直江勝吉と改め、通稱を大和又は安房といひ、後米澤を脱して京師に入れり。
- 政重は、天正19年(1591年)徳川氏の家臣・倉橋長右衛門の養子となり倉橋長五郎と名乗る。
- 慶長2年(1597年)に将軍秀忠の乳母大姥局の息子、川村荘八(岡部荘八)を諍いの末、斬り殺して出奔する。
大谷・宇喜多家臣
- 大谷吉継、ついで慶長4年(1599年)には2万石で宇喜多秀家に仕え正木左兵衛と称す。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦する。
- 関ヶ原の敗戦のち、近江堅田へ隠棲する。
福島・前田利長家臣
- 政重は安芸広島の福島正則に3万石で仕えたのち、慶長7年(1602年)には前田利長に3万石で召し抱えられた。
- しかし慶長8年(1603年)旧主宇喜多秀家が家康に引き渡されたことを知ると宇喜多氏縁戚の前田家を離れる。
直江兼続
- 慶長9年(1604年)8月、初期幕政において重きをなした本多正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣直江兼続の娘於松を娶り、景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称す。
- 慶長10年(1605年)に於松が病死したが、直江兼続の懇願により養子縁組は継続され、慶長14年(1609年)に兼続は弟大国実頼の娘阿虎を養女にして嫁がせた。
- この頃から本多安房守政重と名乗る。
前田利常家臣
- 政重は慶長16年(1611年)に上杉氏の下から離れ、慶長17年(1612年)に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領する。
慶長十六年四月十六日藤堂高虎は書を利長に與へて、利常の之を祿仕せんことを勸めしに、五月五日利長は之に答へて豫め幕府の承認を得るの要あることを述べたるに、六月十日高虎は利長及び利常に對して、幕府の異議なきを確めたることを報じ、之に因りて利長は六月十七日利常に對して速かに政重を招くべきを勸告せり。而して利常も素より同意なりしが故に、同月廿七日利長より書を高虎に送り、直に政重に來藩すべき意を傳達せられんことを依頼せり。政重乃ち七月十八日を以て金澤に着し、復本多氏を冐して前祿三萬石を食み、且つ異日更に増封せらるべきを約して、五萬石の判物を得たり。
- まだ年若かった前田利常(利長の弟)をはじめ、前田光高、前田綱紀に至るまで家老として補佐にあたった。
- 慶長18年(1613年)前田氏が江戸幕府から越中国の返上を迫られると、実兄の老中本多正純、および実父で駿府附老中の本多正信に運動し、これを撤回させている。この功により2万石を加増され5万石となった。
政重の加賀藩に筮仕せる後、慶長十八年幕府は前田氏の領有する越中新川一郡を返上すべきを命ぜんとしたるを以て、この重大問題を解決する爲には、直に政重の力を假らざる能はざりき。(略)利長即ち當面の處置を政重に計りしに、彼は父兄の盡力を請ひてそのことなからしめんと欲し、當時江戸の老中たりし本多正純と駿府附老中たりし本多正信とを訪ひて、前田氏が新川郡を領有するに至りたる事情を述べ、長く之をその封土とするの理由あることを訴へしに、遂に幕府はその請を容るゝに至りたりき。是を以て十九年利長の薨後利常は前約を履行し、六月十三日附を以て政重に二萬石を加増し、合計五萬石を食ましめき。
- また加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際には江戸に赴いて懸命に釈明することで懲罰を回避し、この功績を賞されてさらに2万石を加増された。
- 慶長19年(1614年)冬からの大坂の陣にも従軍したが、真田幸村(信繁)に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、幸村に名を成さしめた。
四日丑刻、政重等伯母瀬山を襲ひ、草を披きて敵を索めしも一兵の留るを見ず。偶山崎長徳隣營に在りて之を知り、政重が戰友を欺き獨功を樹てんとするなりとなし、急に手兵を率ゐて伯母瀬山の前方に出でしに、政重も亦長徳が先を爭はんとするなりと思ひて陣を進めたりしが、暗夜敵城との距離を測る能はず、誤りて眞田丸の崖下に迫れり。是を以て士卒皆大に驚けりといへども矢丸を防ぐの具を有せず、聲を潛めて塹濠の側に伏したりき。(略)夜に入りて家康、本多政重・山崎長徳等を召し、前田軍の擅に攻撃を加へし所以を詰りしに、政重等は、これ青年輩の拔け驅したるに過ぎずと辯解して止めり。
- 慶長20年(1615年)閏6月3日、従五位下安房守に叙任されている。
逸話
- 何度も出奔しては有力大名家(徳川・大谷・宇喜多・福島・前田・上杉)を渡り歩いたため、徳川家の間諜という説まである。
- 父や兄は知略に優れた人物であったが、政重は豪胆で武勇に優れていた。
系譜
- 寛永4年(1627年)6月10日には正室の阿虎が死去したため、同年に西洞院時直の娘と再婚している。
- 嫡男政次は寛永4年(1627年)4月20日に18歳で死去。政次の子、樋口朝政は叔父の政長に仕え、その子定政は加賀藩馬廻役、青地家(1000石)に養子入りした。
- 次男本多政遂は叔父の榎本藩主本多忠純の養嗣子となり、下野榎本藩の第2代藩主。政遂の子(犬千代)もまた夭折したため、政遂の弟の政朝が直参旗本に取り立てられ、本多大隈守家の家名を継いだ。
- 加賀本多家の家督は四男の本多政長が継いだ。母は西洞院時直の娘。正室は前田利常の娘・春姫。正保3年(1646年)11月2日婚姻。
関連項目
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