加賀前田家の江戸藩邸


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 加賀前田家の江戸藩邸

  • 加賀藩前田家の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
Table of Contents

 概要

  • 加賀藩前田家は、当初江戸城和田倉門外の辰口邸を本邸としていたが、後に本郷邸を本邸として使用するようになった。この地は現在東大本郷キャンパスとなっている。
  • 加賀藩では初代藩主の前田利長が慶長10年(1605年)に隠居しており、江戸藩邸については2代藩主前田利常の時代からとなる。

 歴代播種

藩主院号在任理由
としいえ
利家
高徳院薨去
としなが
利長
瑞龍院慶長5年(1600年)
慶長10年(1605年)
致仕
2としつね
利常
微妙院慶長10年(1605年)
寛永16年(1639年)
致仕
3みつたか
光高
陽廣院寛永16年(1639年)
正保2年(1645年)
卒去
4つなのり
綱紀
松雲院正保2年(1645年)
享保8年(1723年)
致仕
5よしのり
吉徳
護國院享保8年(1723年)
延享2年(1745年)
薨去
6むねたつ
宗辰
大応院延享2年(1745年)
延享3年(1746年)
卒去
7しげひろ
重煕
謙徳院延享3年(1746年)
宝暦3年(1753年)
卒去
8しげのぶ
重靖
天珠院宝暦3年(1753年)
5月~9月
卒去
9しげみち
重教
泰雲院宝暦4年(1754年)
明和8年(1771年)
致仕
10はるなが
治脩
太梁院明和9年(1772年)
享和2年(1802年)
致仕
なりたか
斉敬
観樹院(治脩世子)
11なりなが
斉広
金龍院享和2年(1802年)
文政5年(1822年)
致仕
12なりやす
斉泰
温敬公文政5年(1822年)
慶応2年(1866年)
致仕
13よしやす
慶寧
恭敬公慶応2年(1866年)
明治2年(1869年)
版籍奉還

歴代藩主の代数の数え方については諸説あり。毛利輝元らと同様、ここでは利家を藩祖、利長を初代とする。

 辰口邸(龍口)

江戸城和田倉門外
7500坪
慶長10年(1605年)~明暦3年(1657年)

  • 辰口は龍口とも書く。
  • 慶長5年(1600年)芳春院まつが人質になるため江戸へ下っている。
  • 慶長6年(1601年)7月秀忠娘・珠姫、金澤へ輿入れ。9月晦日金沢着。珠姫については「前田利常」の項を参照。

    一、明年(慶長6年)九月江戸よりひめ君様金澤へ御こし入申事。御迎に肥前様手取川まで御越候。
    一、越前かなづ上のにて御こしを取わたしの時、前田對馬守(長種)御こしを請取申事。
    一、ひめ君様金澤へ御越之時、御供衆へ利長公より被遣おぼえ。
     一、金子五十まい 一、小袖廿 一、刀脇差 大さがみ様殿へ(忠隣
     一、金子三十まい 一、小袖十 一、刀わきざし 青山ひたち殿へ(忠成
     一、金子二十まい 一、小袖五ツ 一、刀 鳥兵庫に(鵜殿兵庫頭
     一、金子二十まい 一、小袖五ツ 一、刀 青山善左衛門に
    此外銀子廿まい・十まい、小袖三ツ・二ツづゝ被下候

    贈答刀剣
    大久保忠隣へ「前田正宗
  • この後、慶長7年(1602年)正月に前田利長はお礼言上に江戸へと赴いた。この時に拝領したのが「鍋藤四郎」であるとする。

    大納言家(秀忠)、寝殿に御出ありて、利長の座を遥かの下に設けらる、對面の儀ども巖重に、饗應の式また善盡せり、利長此時は悔しき事に思はれしとぞ聞えし、黄金百枚、白銀千枚、時服百領を獻ぜらる、大納言家より、鍋藤四郎の御脇刀に、黄金百枚、馬鷹をそへて賜はる
    (藩翰譜)

    (正月)十五日に江戸へ参着仕、芳春院へ御禮申上、十七日に中納言様(秀忠)へ御禮申上候。(略)扨江戸御宿を、寺方か町家おとまりかと被仰遣候へ共、江戸御前様むすめを遣す禮に御越候肥前殿(利常)を、寺などやどには思ひもよらずと被仰候故、さかき原殿に御やど相さだまり候。

  • 前田利常も直後に江戸へ下っているが、正月26日に上述話し合いどおりに榊原康政屋敷へと入り、翌日登城、その後伏見へと上り家康に、さらに大坂へ下り秀頼に拝謁している。

    前田利常、江戸に入り、上野館林城主榊原康政の邸に館す。翌日登城、徳川秀忠に謁し、後伏見に往きて家康に謁し、又大坂に豊臣秀頼を訪ふ

    贈答刀剣
    肥前様へあらみ藤四郎御わきざしを(新身藤四郎
  • 慶長10年(1605年)江戸城和田倉門外に屋敷地を拝領する。7500坪。

    利常は父利家が豊臣秀吉より得たる伏見城の殿閣を移して建築したりと傳ふ。これ卽ち當時の上屋敷にして、後に所謂辰口邸なるべしといふ。

  • 元和3年(1617年)5月13日、秀忠の御成
御相伴衆
日野亞相入道唯心(初名広橋兼保、日野輝資)、水無瀬一斎(水無瀬親具)、藤堂高虎、酒井忠世、板倉重宗、永井尚政、青山幸成、菅沼吉官、酒井忠正、鳥居忠頼
贈答刀剣
守家御太刀、一文字御刀、平野藤四郎御脇指賜る。利常より守家の太刀貞宗の刀、(江戸新身藤四郎の脇指を献ず。
  • 寛永9年(1632年)12月27日に類焼で焼けたため、本郷邸に避難している。

    寛永九年十二月廿七日宵の間の事なるに、江戸にて松平新太郎殿屋敷より出火して、近所の大名屋敷悉く類焼す。利常公は神田の屋敷に被成御座、御出馬可有とて御供中も揃ひけれ共、早や鎮り申由聞えければ、先づめでたしとて、夜詰も過ぎて供衆小屋に歸り休息す。然る所に又焼出でたつ由注進に及び、俄に御出被成ければ、(略)筋違橋へ御座の處に、多羅尾六兵衛駆来り、御姫様達を御供仕罷候由申上ぐる。

    金沢藩江戸辰口の上屋敷、類焼の難に罹る

  • 寛永9年(1632年)同年将軍息女大姫と前田光高の婚約が決まる。

    内々より御内談ありて水戸中納言殿の姫君を、當將軍家光公の御養女に被成置、光高公へ采納の御祝儀も済ければ

  • 寛永10年(1633年)辰口邸を再建し、12月5日に光高夫人・清泰院大姫が入輿。

    金沢藩、江戸辰口の上屋敷の興造に着手す

贈答刀剣
・この時、将軍家から前田利常へ「和歌山正宗」、前田光高には「太郎作正宗」および「信濃藤四郎」が贈られた。
・これに対して利常から、行平太刀、「五月雨江」、「八幡正宗」が、また光高からは一文字の太刀が将軍家に献上された。
  • 寛永19年(1642年)、辰口邸にて家臣の井内清兵衛が有澤太郎左衛門を斬るという事件が起こる。
  • 正保2年(1645年)4月5日前田光高急死。
    • この時に家光は酒豪であった松平忠直にも酒を控えるよう注意するが、忠直は「向い(の屋敷)なる 加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれど 三十一で昨日死にけり」と狂歌を詠んで返したという。それはこの龍口邸の話である。
  • 明暦3年(1657年)明暦の大火により焼失。辰口の屋敷地は幕府へ上地、5月14日に筋違邸藩邸地を拝領し、上屋敷となった。

    江戸に大火あり、辰口の金沢藩上屋敷類焼す

    金沢藩、江戸辰口に於ける上屋敷の替地を受く

  • 寛永20年(1643年)12月26日、前田綱紀この邸で誕生。
  • 明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼し、綱紀は本郷邸に避難している。
  • 同年5月、幕府はこの邸7500歩を上地し、(将軍職就任前の)徳川綱吉に与えている。のち豊前小倉藩小笠原氏の邸宅となっている。

 本郷上屋敷

江戸本郷
10万3822坪
元和2年(1616年)頃~

 概要

  • 現在の東京大学本郷キャンパスの場所にあった藩邸。拝領地は10万3822坪。
    本郷キャンパスの大半が元加賀藩邸であり、言問通りを挟んだ弥生キャンパス周辺が水戸藩中屋敷、北端の東京大学地震研究所のあたりが播磨安志藩小笠原信濃守の中屋敷であった。なお東側の東大医学部附属病院のあたりは、加賀藩の支藩である富山藩(松平大蔵太夫)と大聖寺藩(松平飛騨守)の上屋敷であった。
  • 加賀藩の本郷上屋敷は、安政3年(1856年)時点で8万8482坪。南北約540間(約980m)、東西約320間(約580m)。
    富山藩上屋敷は1万1088坪、大聖寺藩上屋敷は5762坪。これらは幕府からの拝領地ではなく、本家である加賀藩からの借用地である。加賀藩拝領地は10万3822坪で、この内1万6850坪を支藩に貸していたことになる。※1510坪の差分は町屋敷囲込地など。

 経緯

【2代前田利常

  • 元和2年(1616年)頃、あるいは大坂の陣の後、いずれかの時期に拝領する。当初は下屋敷としている。
    この地にはもと大久保忠隣の屋敷があったため、前田家の拝領は忠隣の失脚後であるとされる。大久保忠隣は慶長19年(1614年)1月に突如改易され、居城の小田原城は本丸を除き破却された。2月2日には前年に無嗣断絶した大久保忠佐の居城三枚橋城も破却された。その後忠隣は近江に配流され井伊直孝にお預けとなる。
  • 寛永3年(1626年)頃に御成の内意が告げられ、本格的に造成が始まる。

    寛永三年丙寅、始テ四界ニ木墻ヲ環ラシ、明年丁卯千勝後稱富山侍従是也(前田利次)宮松後稱大聖寺侍従(前田利治)ノニ公子、諸翁主、及ヒ壽福儒人面々ノ座所経營有テ、金府ヨリ北發、此邸内ヘ移ラセ、且小田原メワタ町ニ賃居セシ微臣ノ輩ヲ此邸内ニ外廊ヲ構ヘ、盡ク聚メ入置セラル

    日用人足數多江戸ヘ被召寄、同三年の秋より神田の下屋敷に御普請被仰付。加州の御下屋敷とて神田に先年より御拝領にて有けれ共、前は本郷の町迄さかい、後はしのばづの池迄さかい、草ばうゝたる小笹原に谷みねも有之て、ところゝに青人又は下々のものゝみ有て、屋敷之内まだらに茶園してぞ居たりける。

  • 寛永6年(1629年)4月26日将軍家光御成、4月29日大御所秀忠御成。

    加賀の御下屋敷に、小幡宮内惣奉行にて、御成御書院内々より御造営被成、此の年漸く出来す。家光公御疱瘡も御機嫌能く相隅み、翌年の夏中に御成と極りて、其の御用意の品々は、御分国は申すに不及、京・長崎・出羽・奥州まで御調物共被仰遣、相調ひければ、

御相伴衆
水戸頼房、藤堂高虎、立花宗茂
贈答刀剣(家光)
26日に家光御成。

廿六日加賀中納言利常卿が上野の別墅にならせ給ふ。利常卿に二字國俊の御太刀。秋田正宗石井正宗)の御脇差。長子筑前守光高に眞長の御太刀貞宗の御脇差。

贈答刀剣(秀忠)
29日秀忠別邸に御成。筑紫正恒の御太刀池田貞宗の御脇指を賜い。利常より行平太刀、吉家の刀、戸川志津の脇指を献ず。
  • 寛永10年(1633年)2月13日隣接町屋敷を拝領する。※本郷かどうか不明

    徳川家光、前田利常の邸地に連続する町屋敷を与ふ

  • 寛永15年(1638年)御成

    寛永十五年春・夏の内に將軍家光公御成の儀、前年より被仰出、不時に御成可有由御内書有るに付きて、十四年より茨木小業部に御作事奉行被仰付(略)、御案内の次節駒込へ家光公御鷹野に出御ありて、二月十八日に本郷の裏門より御通り、御書院へならせられ、御膳など被召上、御亭共御見物、異国本朝の美酒佳肴遠来の御菓子等品々備へ置く。

  • 寛永16年(1639年)正月、利常は金沢で年礼を受ける。
  • 寛永16年(1639年)3月下旬に発駕。4月、利常参覲して登城。
  • 寛永16年(1639年)6月20日、前田利常致仕を許される。本郷邸を隠居所とした。7月9日に致仕の御礼。7月13日、知行割の許可。14日、利常登城して知行割の御礼。

【3代前田光高

  • 寛永16年(1639年)家督は前田光高が継いだ。この時、119万石のうち、80万石を筑前守光高へ、また淡路守利次に10万石、飛騨守利治に7万石を分与している。22万石は利常の隠居領とした。
    前田淡路守利次は利常の次男、母は秀忠の次女珠姫。加賀藩支藩である富山藩を立藩し、その初代藩主となる。前田飛騨守利治は利常の三男、母は秀忠の次女珠姫。加賀藩支藩である大聖寺藩の初代藩主。
  • 寛永16年(1639年)11月14日家光、利常に茶を饗す。
  • 寛永16年(1639年)11月21日家光、光高および大聖寺利治に帰国の暇を賜う。11月25日、両名登城して就封の謝礼。

    光高に行光の御脇差を給ひ、又山里の御茶室に於て、父子とも御茶給ふ。

  • 寛永17年(1640年)3月25日、光高参覲。3月27日家光の日光社参に光高の随行を命じる。3月28日、就封後の参覲で挨拶。
  • 寛永17年(1640年)3月28日、下屋敷(本郷)に家光御成。

    徳川家光、前田利常の下屋敷に臨み、光高・利次登営して之を謝す

贈答刀剣

寛永十七年三月廿八日利常下屋敷山里に御成。
家光様より利常拝領。
一、御腰物 正宗
同日於私宅進上。
一、御腰物 切刃貞宗 利常上之。

三月二十八日
一、松平肥前守利常が別墅に、將軍家渡御ありて、正宗の御腰物をたまふ。利常切刃貞宗の御脇指を献ず。

  • 前田家ではこの時に「五月雨江」を献上したとする。
  • 寛永17年(1640年)5月13日利常、就封の暇を賜った謝礼で登城する。6月21日帰国し、礼物を家光に贈る。
  • 6月22日、光高登城して謝礼。
  • 寛永18年(1641年)利常、3月中旬江戸へ発ち、4月28日登城参覲。
  • 寛永18年(1641年)8月3日、家光の世子家綱誕生。8月9日、利常・光高七夜で登城。
  • 寛永18年(1641年)8月20日、金沢に東照宮を勧請するため、東照宮霊代が江戸を発つ。同年8月、利常が牛込穴八幡建立に際して人夫数百人を送る。
  • 寛永19年(1642年)4月9日光高江戸を発ち、家光の日光参拝に伴う。4月25日江戸着。
  • 寛永19年(1642年)5月3日、利常は家光に暇を乞いをし、江戸を発つ。
  • 寛永19年(1642年)利常の娘富姫が、叔母である東福門院の養女となって八条宮智忠親王と婚姻することが、将軍家により決められる。8月27日富姫江戸を発つ。
    真照院富姫
    諱は昌子。利常の四女で、母は珠姫(徳川秀忠と継室江の次女)。寛永19年(1642年)9月27日に八条宮智忠親王と婚姻した。
     智忠親王との間に子女は生まれず、結婚12年目の承応3年(1654年)、後水尾院の皇子・穏仁親王が猶子となった。寛文2年(1662年)智忠親王が病に倒れ、7月1日死去した。しかし、富姫は葬儀にも出られず病に伏していた。夫の後を追うように、8月22日死去。享年42。遺言により遺体は前田家に戻されることになり、墓所は野田山前田家墓所にある。
  • 寛永19年(1642年)10月、将軍家光は光高に狩りの暇を与える。光高相模東郡の狩場で狩りを行い、12月朔日江戸に戻り鶴5隻を献ず。
  • 寛永20年(1643年)春、利常は江戸参覲。
  • 寛永20年(1643年)6月8日に家光、光高に就封の暇を与える。翌日挨拶に登城し、7月7日金沢着。10月産気づいたとの知らせが届き、10月22日金沢を発ち、7日の道中で28日に江戸着。11月16日出産(初名綱利、前田綱紀
  • 正保元年(1644年)2月12日大姫、綱紀を携えて登城、初お目見え。

    十二日大姫の御方犬千代丸を伴ひてまうのぼり給ふ。犬千代丸誕生の後始めてまう登りければ、愛染国俊の御刀たまはり、若君より包家の御刀賜はる。

  • 正保元年(1644年)4月26日金沢で大火。28日利常、就封の挨拶。
  • 正保2年(1645年)2月15日利常金沢を発つ。越中に1ヶ月逗留などして3月25日江戸に着き参覲。
  • 正保2年(1645年)4月5日光高急死。

【4代前田綱紀(利常後見)】

  • 正保2年(1645年)6月13日、家督は嫡男・犬千代(のち元服して綱利、綱紀と改名)が継いだが、幼少であったため利常が後見した。8月21日登城して就封の挨拶。

    廿一日故松平筑前守光高長子犬千代丸、襲封の謝恩に登営あり。清泰院御方、次子万菊丸引具しまう登らるれば、(略)犬千代丸・万菊丸ともに奥にまう登り、犬千代丸は黒木書院に召して御對面あり。久信の太刀(略)を献ず。次に祖父小松中納言利常卿も、(略)謝恩し、飛騨守利治も(略)。次に大納言殿黒木書院に出まし、犬千代丸より正恒太刀(略)献じ謝し奉る。御所より犬千代丸へ、新藤五國光の御脇指を奥にて賜はり、大納言殿より万菊丸へ丹州國光の御脇指を遣はさる。今日故筑前守光高が遺物、秋田正宗の刀、密庵の墨跡、肩衝此村を奉り、大納言殿へ戸川国次の脇指、面影といふ茶壺を献ず。

  • 正保3年(1646年)7月10日、利常襲封の暇を賜り、12日江戸を発つ。8月2日小松着。
  • 正保4年(1647年)2月利常、加賀江沼郡の山代温泉に浴す。3月19日小松を発って江戸に向かう。
  • 慶安元年(1648年)5月25日、利常襲封の挨拶、下旬に日光社参し、金沢へ。10月山代温泉。
  • 慶安2年(1649年)3月中旬、利常金沢を発ち江戸へ。4月28日参覲。
  • 慶安2年(1649年)8月13日、万菊丸急死。
  • 慶安3年(1650年)3月29日類焼。この時に家康・秀忠・家光の三代の朱印入の領地判物も焼けたという。利常は大聖寺藩前田利治邸に仮住まいしている。

    小松黄門の別墅もこの災に罹ければ、阿部豊後守忠秋してとはしめ給ふ。四月三日小松黄門利常卿別墅さきに焼ければ、茶壺肩付、衾蒲團・蚊蟵、並に雪舟及土佐某の書屏風二双つかはさる。

  • 慶安3年(1650年)5月1日金沢城の石垣が地震により崩壊。4日利常登城して襲封の挨拶。5月19日江戸を発ち、東海道経由で28日小松着
  • 慶安4年(1651年)利常、3月江戸着。4月20日将軍家光薨去。8月21日本郷邸が完成し、戻る。
  • 慶安5年(1652年)利常、4月下旬に小松へ発つ。堺に寄っている。
  • 承応2年(1653年)4月23日、利常江戸参覲し家綱に謁す。
  • 承応3年(1654年)正月12日、犬千代(綱紀)11歳で正四位下・左近衛権少将・加賀守に叙任。登城し来国次の御腰物を拝領。将軍家の諱一字拝領し綱利と名乗る(後に前田綱紀と改名)。さらに本郷上屋敷にて太郎作などを利常より贈られる。

    神田の御屋敷へ入らせられ、(略)其の時分太郎作正宗の御腰物、愛染国俊の御脇指を、岡田将監披露にて御頂戴被成、富山侍従利次公より来國行御腰物、安芸侍従光晟公(浅野光晟。正室が利常三女満姫)より二字国俊、弾正大弼光廣公(浅野綱晟。満姫の子)より長谷部国重を進ぜらる。少将様より公方様へ長吉、中納言様(利常)へ一文字、利次公へ新藤五國廣、安芸守様へ長吉、弾正様へ二字国俊、何れも御脇指を進ぜらる。利常公より公方様へ備前秀光の御脇指に御樽肴添へて上げさせらる。

  • 承応3年(1654年)4月27日、利常襲封の挨拶。小松帰城。
  • 明暦元年(1655年)4月12日利常、江戸参覲の御礼。
  • 明暦2年(1656年)5月利常、襲封の挨拶。小松城へ。
  • 明暦2年(1656年)9月23日、光高の正室清泰院大姫没。
  • 明暦3年(1657年)1月18日明暦の大火で辰口邸が焼けたため前田綱紀が避難している。
  • 明暦3年(1657年)3月21日利常は小松を発ち、4月2日江戸着。
  • 明暦3年(1657年)7月9日牛込邸の替地を拝領する。

    金沢藩、江戸本郷に於ける旗本同心屋敷の地を受く

  • 万治元年(1658年)7月26日、綱紀は保科正之の娘・摩須(松嶺院)と結婚する。
    前田利常〔2代〕      松嶺院摩須(保科正之娘)
      ├────前田光高〔3代〕 │
    天徳院珠姫    ├────前田綱紀〔4代〕
           清泰院大姫    ├────前田吉徳〔5代〕
                  預玄院
    
    • 屋敷地2万歩拝領。※拝領の経緯は牛込邸参照

【4代前田綱紀(利常没後)】

  • 万治元年(1658年)9月23日利常小松城に帰る。10月12日小松城にて利常没、享年66。10月23日、保科正之が綱紀の後見となっている。
  • 万治元年(1658年)11月21日、綱紀初めて除服登営。12月28日家綱、綱紀に利常の遺領を継がしめる。
  • 万治元年(1658年)閏12月10日、綱紀登城し、利常の遺物を献上する。

    襲封を謝し、父黄門遺物朱判正宗のさしぞへ、漢瓢箪の茶壺、京極中納言定家卿眞蹟を献じ。

  • 万治元年(1658年)閏12月27日、綱利(綱紀)、正四位・左近衛権中将に転任。加賀守如元。
  • 万治3年(1660年)正月14日、本郷邸の表門、長屋類燃える。
  • 寛文元年(1661年)7月朔日、登城して就封の挨拶。7月8日江戸を発つ。
  • 寛文元年(1661年)7月19日、前田綱紀初めて金沢に入部する。9月18日小松城。20日金沢城に戻る。10月8日金沢を発ち、25日江戸着。

    十月八日綱利公金澤御發駕、同廿五日御着府。今年より公越前少将光通、富山侍従利次公と江戸御交代也。

  • 寛文元年(1661年)京都三条河原町に藩邸を設ける。呉服所三宅庄兵衛地主。油小路公邸は廃止。
  • 寛文2年(1662年)9月26日綱紀就封の挨拶。11月8日越中で鷹野。11月24日金沢城着。
  • 寛文6年(1666年)松嶺院摩須、18歳で没。しかし綱紀は継室を迎えることはしなかった。
  • 天和2年(1682年)12月28日類焼。前田綱紀は駒込邸に避難。
  • 天和3年(1683年)3月21日本郷邸を上屋敷と定める。

    自今江戸本郷邸を上屋敷、駒込邸を中屋敷、平尾邸を下屋敷と称せしむ

  • 貞享4年(1687年)殿間が完成、9月19日に前田綱紀が移徒。
  • 元禄3年(1690年)8月8日、勝丸誕生。※後の前田吉徳
  • 元禄4年(1691年)焼失。前田綱紀は駒込邸に避難。
  • 元禄6年(1693年)12月1日、綱紀、参議に補任。
  • 元禄15年(1702年)4月11日御成御殿完成、4月26日将軍綱吉御成。

    将軍綱吉、初て金沢城主前田綱紀(松平加賀守)の本郷邸(市内本郷區)に臨む

    御相伴衆
    徳川綱豊(甲府宰相、後の将軍家宣)、水戸綱條、尾張吉道、井伊直道、柳沢吉保、土屋政直、藤堂高久、細川綱利。ほか酒井、本多、小笠原、稲葉、水野、阿部、保科、南部、津軽、仙石、金森、織田その他。
    贈答刀剣
    • 国宗の御太刀代三百五十貫、二尺五寸五分半)、正宗の御刀(島津正宗)代金二百枚、吉光の御脇指(号不明。代金三百五十枚、代七千貫、九寸五分)を賜う。
    • 綱紀より備前長光太刀代金十三枚、二尺二寸)、郷義弘の刀(村雲郷)、會津新藤五の脇指を献ず。
      御当代記では、郷義弘会津新藤五は登場せず、代わりに「御刀貞宗」(代金七十五枚、二尺四寸五分)とする。
    • 吉徳もまた助長の太刀、左文字の刀(伊勢左文字)を献じ。
  • 元禄15年(1702年)2月14日、勝丸(吉徳)に松平姓が与えられ松平犬千代と名乗る。諱を利挙(としたか)、利興(としおき)と称する。
  • 元禄15年(1702年)6月9日に勝丸(吉徳)元服し、将軍綱吉の偏諱を授かって吉治に改名。正四位下左近衛権少将兼若狭守に叙任。
  • 元禄16年(1703年)11月29日、類焼。御成御殿も焼失。
  • 宝永4年(1707年)12月28日、綱紀、従三位昇叙。参議如元。
  • 宝永5年(1708年)11月18日将軍養女松姫(尾張藩3代藩主徳川綱誠の娘)が吉治(吉徳)に入輿。
贈答刀剣
この時に「乱光包」、「津田遠江長光」、一文字の太刀前田綱紀より将軍家に献上された。

【5代前田吉徳】

  • 享保8年(1723年)5月6日綱紀家督を四男の吉治(前田吉徳)に譲って隠居。6月15日に綱紀、肥前守に遷任。吉治(吉徳)、加賀守に任ぜらる。左近衛権少将如元。8月18日、左近衛権中将に転任。加賀守如元。
  • 享保9年(1724年)5月9日に綱紀82歳で没
    前田吉徳〔5代〕──┬前田宗辰〔6代〕
              │(勝丸、浄珠院以与)
              │
              ├前田重熙〔7代〕
              │(亀次郎、心鏡院民)
              │
              ├前田利和
              │(勢之佐、真如院貞)
              │
              ├前田重靖〔8代〕
              │(嘉三郎、善良院縫)
              │
              ├前田治脩〔10代〕───前田利命
              │(時次郎、寿清院夏)
              │
              ├前田重教〔9代〕───┬前田斉敬
               (健次郎、実成院流瀬)└前田斉広〔11代〕──前田斉泰〔12代〕
    
  • 享保10年(1725年)4月25日に金沢金谷御殿で勝丸誕生。※後の6代藩主前田宗辰。初名利勝。
  • 享保14年(1729年)7月24日に江戸にて次男亀次郎誕生。※後の7代藩主前田重煕。初名利安。
  • 享保20年(1735年)11月8日、金沢で五男嘉三郎誕生。※後の8代藩主前田重靖。初名利見。
  • 元文元年(1736年)9月勝丸(宗辰)江戸に上る。
  • 元文2年(1737年)4月、勝丸(宗辰)、名を犬千代と改め、又左衛門と改め、諱を利勝とする。同年6月、正四位下左近衛権少将に任じられ、佐渡守と称し、将軍徳川吉宗より偏諱を賜って前田宗辰と改めた。
  • 元文5年(1740年)11月1日、吉治(吉徳)、参議に補任。11月16日前田吉徳と改める。
  • 寛保元年(1741年)10月23日、金沢で七男健次郎誕生。そのまま金沢で成長した。※後の9代藩主前田重教。初名利篤、のち重基。
  • 寛保3年(1743年)1月27日、次男亀次郎(重煕)、松平の名字を与えられ、松平亀次郎と称す。
  • 延享元年(1744年)4月、宗辰が会津藩主松平正容の娘・常姫(梅園院)と結婚。



この後、5代吉徳親政のひずみである加賀騒動に加えて、6代宗辰は22歳、7代重煕は25歳、8代重靖が19歳と相次いで早世したこともあり、加賀藩前田家は混迷の時代を迎える。


【6代前田宗辰】

  • 延享2年(1745年)6月12日、吉徳56歳で死去。家督は嫡男の前田宗辰が継いだ。10月、宗辰は左近衛権中将となり、加賀守と称する。11月、宗辰の正室常姫が男子を出産するが、母子ともに死亡。

【7代前田重煕】

  • 延享3年(1747年)12月8日、前田宗辰が22歳で死去。家督は次弟の利安(重煕)が継いだ。のち将軍家重より偏諱を賜って利安から重煕に改名。
    重煕は年明けに伝家の宝刀「大典太光世」を見るべく江戸藩邸に取り寄せるが、服喪中には見れないと言われたため「大伝太太刀小鍛冶薙刀記」を書かせたという。
  • 延享4年(1747年)、五男嘉三郎(重靖)が諱を利見(としちか)とする。
  • 延享5年(1748年)加賀騒動 ※7月12日に寛延へ改元
    加賀騒動(かがそうどう)
    江戸三大騒動のひとつ。6代藩主吉徳は、強固な藩主独裁を目指して御居間坊主であった大槻伝蔵を側近として重用。これにより藩内保守派との対立が激化する。延享2年(1745年)に吉徳が亡くなると、大槻伝蔵は蟄居を命じられ、さらに延享5年(1748年)には禄を没収され五箇山へと配流された。吉徳の三男利和(勢之佐)は、その母真如院と大槻伝蔵の不義の子であるとして小立野上野の屋敷に幽閉された。幽閉のまま、宝暦9年(1759年)25歳で没。※ただし昭和26年(1951年)、村上元三の小説を契機に加賀騒動の真相の再検討が行われた結果、吉徳の実子であるとされ、前田家一族と認められることとなった。
  • 寛延元年(1748年)9月12日、大槻伝蔵が越中五箇山の配所にて自害。
  • 寛延2年(1749年)3月、五男利見(重靖)、異母兄の利和(大槻伝蔵との不義の子であるとされた人物)と入れ替わる形で江戸に上り、藩主・重煕の仮養子となる。
  • 宝暦元年(1751年)11月に五男利見(重靖)、松平の名字を与えられる。同年12月、利見(重靖)は将軍家重に謁し、従五位下に叙されて上総介を称する。

【8代前田重靖】

  • 宝暦3年(1753年)4月8日、前田重煕25歳で死去。5月18日、五男利見(重靖)が末期養子として家督を継いだ。将軍家重より偏諱を授かって前田重靖に改名。正四位下・左近衛権少将となり、加賀守を称する。
  • 宝暦3年(1753年)7月28日、重靖が初めての金沢帰国の許しを得る。8月16日出立、金沢に到着するものの9月29日に19歳で没。

【9代前田重教】

  • 家督は異母弟の健次郎(利篤、重教)が継いだ。
  • 宝暦3年(1753年)、10月5日、加賀藩は藩主であった重靖の病死を公表し、七男健次郎(重教)は直ちに江戸へ発つ予定であったが麻疹にかかったために出立できず、問題となる。10月15日健次郎(重教)、諱を利篤とする。同月17日、松平の名字を与えられる。
  • 宝暦4年(1754年)2月、利篤(重教)は体調が回復したため江戸へ。3月11日将軍徳川家重に御目見し、末期養子として家督を相続する。4月正四位下、左近近衛少将に叙任、加賀守を称する。また将軍家重から偏諱を授かって前田重基(重教)に改名する。
  • 宝暦5年(1755年)12月、重基(重教)は左近衛権中将に昇進する。
  • 宝暦9年(1759年)4月10日、金沢に大火が起こり、金沢城をはじめ1万5百戸余りが焼失。
  • 明和2年(1765年)将軍世子家基の諱を憚って前田重教に改名した。

【10代前田治脩】

  • 明和8年(1771年)、重教は家督を異母弟の前田治脩に譲って隠居。
  • 安永7年(1778年)9月13日、隠居していた9代重教の子、教千代が金沢で誕生 ※後の斉敬。10代治脩の養嗣子となるが襲封前に没
  • 天明2年(1782年)7月28日、隠居していた9代重教の子、亀万千(勝丸、犬千代)が誕生。 ※後の12代藩主斉広
  • 天明6年(1786年)6月12日、重教は46歳で死去した。
  • 寛政8年(1796年)、亀万千(斉広)は11月に江戸に出府し松平の名字を与えられる。12月に名(幼名)を亀万千から勝丸、さらに犬千代と改めた上で、通称を又左衛門、諱を利厚とする。
  • 寛政9年(1797年)、利厚(斉広)は将軍家斉より偏諱を授かり斉広に改名する。正四位下左近衛権少将、筑前守に任じられる。
  • 寛政11年(1799年)12月晦日、

【11代前田斉広】

  • 享和2年(1802年)、治脩の隠居により斉広が家督を継いだ。加賀守を称し、同年6月に左近衛権中将に任じられる。
  • 文化8年(1811年)、勝千代が金沢城で生まれる。※後の12代藩主斉泰
  • 文化9年(1812年)3月、本阿弥重郎左衛門が江戸藩邸で前田家の蔵刀のお手入れをしている。
  • 文政5年(1822年)、勝千代(斉泰)は8月江戸に上り、名を勝丸、さらに犬千代と改めた上で、松平の名字を与えられ、又左衛門と称し諱を利侯とする。同年10月、正四位下・左近衛少将となり、若狭守を称し、また将軍徳川家斉から偏諱を賜って斉泰に改名した。

【12代前田斉泰】

  • 文政5年(1822年)11月、父斉広の隠居により、斉泰が12歳で加賀藩主となる。左近衛中将に昇任し、加賀守を称する。
  • 安政3年(1856年)、本阿弥長根が江戸藩邸で前田家の蔵刀のお手入れをしている。

 明治後

  • 本郷上屋敷は、明治元年(1868年)閏4月の本郷春木町に発した火災により大部分が類焼した。その後、長屋や物置など一部の建物の修復が行われたのみで荒廃が進んでいたとされる。
  • その後、新政府に収公され官有地となっている。
  • 明治7年(1874年)11月、本郷の文部省用地(2万9644坪4合2勺)が東京大学の移転先と定められる。

    書面建築地位之儀本郷用地内へ可相定條条、本省会計科へ可打合候事
      明治七年十一月四日

    さらにのち、前田家邸と東京医学校が接する箇所に突出地があり、寄宿舎の設計上支障が出ることが判明する。交換を申し出た所、前田家の篤志により明治8年(1875年)5月7日付けで542.71坪の寄附(東京府への土地献上願い出)を受けたという。

  • 明治9年(1876年)に東京医学校(東大医学部の前身)が移転、ついで翌明治10年(1877年)には医学校と東京開成学校(神田錦町に所在)を統合し、ここに法理文医4学部からなる(旧)東京大学が発足した。
  • その後も順次、神田から法・文・理学部がここに移転(1884 - 85年)、ついで法学部との合併により司法省法学校が、工芸学部との合併により工部大学校が本郷に移転し、明治21年(1888年)には法医工文理5分科大学(学部)の校舎からなる東京帝国大学の校地として整備された。
  • 明治22年(1889年)、東大の校地に隣接する本郷弥生町に、第一高等中学校が一ツ橋から移転、明治27年(1894年)には第一高等学校と改称した。
  • 昭和10年(1935年)駒場の農学部が向ヶ丘の一高と校地を交換する形で本郷に移転、さらに昭和16年(1941年)には現在の浅野キャンパスを校地として取得し、本郷地区キャンパスは現在の形になった。
  • 加賀藩前田家上屋敷の御守殿門が「赤門」として現存し、大名の江戸藩邸を示すものとして高名。旧国宝で、現在は重要文化財

 駒場旧前田侯爵邸

  • 明治政府による藩邸の収公後も、前田家はかつての広大な本郷上屋敷地のうち南西の一画を所有しており、前田家16代当主である侯爵前田利為が壮大な邸宅を構えていた。
  • 大正15年(1926年)、前田家から屋敷や庭園を含む所有地(現在の懐徳館・同庭園・総合研究博物館・東洋文化研究所などの敷地)を譲り受け、代わりに前田家は当時駒場に所在していた駒場農学校(農学部)の農場の一部を譲渡され同地に邸宅を移転した。
    目黒区駒場公園(重要文化財 旧前田侯爵邸)
    侯爵前田利為はこの駒場を本邸として利用。昭和4年(1929年)には洋館、昭和5年(1930年)には和館がそれぞれ竣工した。洋館は地上3階・地下1階建て、和館は2階建て純和風建築で、それぞれを渡り廊下で結んでいた。
     昭和17年(1942年)に前田利為が事故死すると邸宅は他人の手に渡り、一時期は中島飛行機の本社がおかれた。敗戦後は米軍に接収され、接収が解除される昭和32年(1957年)までの12年間は連合軍極東軍司令官の官邸などとして使用された。
     昭和31年(1956年)に和館及び一部の土地が国の所有となり、昭和38年(1963年)に公園を建設することが決定したことから洋館を東京都が買収。昭和39年(1964年)に国有地部分も東京都に譲渡され、邸地は公園として整備されて昭和42年(1967年)に東京都立駒場公園として開園した。昭和50年(1975年)に目黒区に移管、洋館は昭和42年(1967年)に東京都近代文学博物館として開館したが、平成14年(2002年)3月に閉館された。また、公園の開設された昭和42年(1967年)に、公園の一角に日本近代文学館が開設され、日本の近代文学に関する資料が閲覧できる。
     洋館は平成3年(1991年)に東京都指定有形文化財(建造物)に指定、さらに平成20年(2008年)に和館ほか5棟と土地が東京都指定有形文化財に追加指定され、指定名称が「旧前田侯爵家駒場本邸」に変更。2013年には、洋館、和館を含む建造物8棟と土地が「旧前田侯爵邸」の名称で国の重要文化財に指定された。

 駒込邸・抱屋敷

江戸駒込
20666歩
明暦3年(1657年)~

  • 中屋敷、のち抱屋敷。
  • 明暦3年(1657年)牛込邸の問題発覚後に替地として屋敷地4万歩拝領。中屋敷とする。8954歩、4万歩を借上げ、中屋敷とする。

    相殘る四萬歩は駒込に而御望之旨。

  • 延宝7年(1679年)2月、板橋の下屋敷(平尾邸)を拝領した代わりとして、駒込邸を上地する。

    城主前田綱紀、下屋鋪を板橋宿に賜ひ、駒籠邸の内を上地す 

  • 天和2年(1682年)12月28日本郷邸類焼により、前田綱紀は駒込邸に避難。
  • 天和3年(1683年)2万歩上地。※2万+9千+4万

    金沢城主前田綱紀、筋違橋邸・切通邸・駒籠邸を帰上す

  • 天和3年(1683年)3月21日駒込邸を中屋敷と定める。

    自今江戸本郷邸を上屋敷、駒込邸を中屋敷、平尾邸を下屋敷と称せしむ

  • 貞享元年(1684年)6月20日

    金沢藩駒込邸の一部を、幕府の屋敷奉行に交付す

  • 元禄8年(1695年)4万歩上地。替地6200歩拝領。

 平尾下屋敷

江戸平尾
21万7930歩
延宝7年(1679年)~

  • 下屋敷。
  • 延宝7年(1679年)6万歩拝領、14万605歩借上げ。

    城主前田綱紀、下屋鋪を板橋宿に賜ひ、駒籠邸の内を上地す 

  • 天和3年(1683年)14万605歩拝領。下屋敷とする。
  • 天和3年(1683年)3月21日平尾邸を下屋敷と定める。

    自今江戸本郷邸を上屋敷、駒込邸を中屋敷、平尾邸を下屋敷と称せしむ

  • 明暦3年(1657年)この時点で21万7930歩。

 牛込邸

江戸牛込
6万坪
~明暦3年(1657年)

  • 6万坪。拝領時期不明。
    元は前田家にではなく、前田光高の正室清泰院大姫(実は水戸藩主徳川頼房の四女。将軍家光の養女として入輿)の拝領地であったため、これが婚家の前田家の拝領地となったという経緯があるとする。
  • 現在の東京都新宿区市谷加賀町1丁目付近とされ、それにちなんで「市谷加賀町」という町名になっている。
  • 寛永10年(1633年)12月5日以前に大姫に屋敷地拝領。

    寛永十年十二月五日に、將軍家光公の御姫君、光高公へ御嫁娶の御輿入とぞ聞えける。松平伊豆守・酒井讃岐守・阿部對馬守・酒井雅樂頭御供にて、御規式不レ輕事申に及ばず、千秋萬歳の御祝天下に聞え渡りて見えにけり。此時光高公は十八歳、姫君は七歳にて、いまだ御幼年の御事なれば、折々は入せられ、又或時は御登城にて、御城と加賀御屋敷の其間、上下男女馬やかごの往來は織絲筋より繁かりける。
    牛込に數千歩の御屋敷相渡り、長屋を建、姫君の御用人數百人居住す。加州より御廣式番其外役人數百人江戸へ被二召寄一、牛込の屋敷へ引越し、御前樣御用相勤む。御前樣御家老には塚原次左衞門を公儀より附置せられ、諸事御用等達二上聞一調上奉る。(中略)。御家の御威光天下に普く、光高公御登城の折節は、所々御番所下座致し奉レ敬事、將軍家の御成同事に見えさせ給ふ。目出度かりける次第也。

  • 明暦2年(1656年)9月23日、光高の正室清泰院大姫没。
  • 明暦3年(1657年)7月9日、替地を拝領する。

 上地騒動

  • この屋敷地については幕府との間に齟齬があり、「藤田内蔵允書状控」によれば明暦2年(1656年)に清泰院大姫が亡くなった後、この牛込屋敷地が前田家に断り無く尾張徳川家に譲られ、突然前田家士が追い出されたことに対して、前田利常が老中松平信綱に異議を申し立てたとする。結局は牛込屋敷地は幕府に収納され、代わりとして本郷及び駒込で併せて6万坪が拝領地として与えられることとなった顛末を記している。
  • これは松梅語園にも次のように詳細に経緯が記されている。

    一、清泰院様に公儀より被進候御屋敷は、牛込の末高田に有之候。(光高)御逝去已後御屋敷に被居候御附衆も引取申、此方より被附置候御奉行・足軽等も急に引取候様にと之事に候由。其段利常公御聞被成、御不快に而、御老中へ兼松小右衛門被遣、清泰院殿御屋敷御追立被成候、如何之事に候哉と被仰遣候へば、尾張大納言殿御要望御拝領に付、能瀬治左衛門に申渡候、其義に而可有之旨申來候。彌御紀元惡敷、御用番之御老中へ御腰被成、清泰院殿屋敷、筑前守家來共大勢罷有候處、急に追立被成候に付、行當り難義いたし候。清泰院殿御拝領之地に候得ば、犬千代筑前屋敷之義に候。左候得ば手前へ御相談も可有御座義之所に、兼て不承候段難心得候。尾張御取立之由。然ば屋敷望次第取勝と奉存候。左候得ば此方にも了間御座候。此段承度参事候旨被仰候處、御老中行當、右之趣自分様へ不申入義、同役中無念之仕合に御座候。仰之通御尤至極に候、申談自是可申進間、左様御心得被下候様に御挨拶に而、御歸被成候所、松平美作守を以、同役中無念之義迷惑仕候、御家中被指置候替地、何方に而成共御望次第御拝領之様に可申談候間、早速御見立被成被仰上候由由來候。御返事には、委細被仰聞候通致承知候。取勝之様に被存候に付、左候はゞ存寄有之に付相伺申候。此上は替地替地被下に及不申候間、右之御屋敷指上申候旨被仰上候。然ば替地御拝領不被成候得ば、底意解不申候と御老中思召候哉、重而御望被成候様に再三申來候に付、左候ば所は何方に而も無構候間、御渡被成候様にと被仰遣候而、駒込之御屋敷御請取被成候。右之御屋敷は牛込穴八幡之邉也。尾張様にも外に而被進、右之御屋敷は其後小身衆大勢へ渡候。其邉を清泰屋敷と申候。

    左様に候はゞ近藤登之助殿向同心屋敷を、不殘本郷御屋敷に御添御望之由。此所二萬歩。相殘る四萬歩は駒込に而御望之旨。且又前田帯刀屋敷所持不仕候間、右御拝領之内に而三千坪被遣度旨是は牛込の御屋敷六萬歩餘有之に付、右二ヶ所に而六萬歩其餘歩也御願之所、其通に御拝領被遊候。

    つまり光高の死後、その正室であった清泰院大姫は牛込邸で暮らしていたが、その大姫が亡くなった後突然尾張衆が来て残っていた前田家士を追い立て始めたために、前田利常が老中に異議を申し立てた所、前田家に断り無く尾張家の拝領地となっていたことを知る。しかしこれは幕府の失態であったために、前田家では替地として駒込4万歩(及び本郷2万歩)を拝領地として得ることとなり、また尾張家でも別の替地を拝領したため、当地は小身衆へと下げ渡されたという。なお明暦三年7月9日條にも替地と同じ件についての松雲公夜話の話が載る。
  • これによって加賀藩屋敷地は次のようになった。

    〔江戸諸邸歩數〕
    一、江戸本郷御上屋敷歩數之覺
     十萬三千八百二十二歩
     内一萬千八十八歩 出雲守様
      五千七百六十二歩 備後守様
    一、駒込御中屋敷歩數
     二萬六百六十歩
    一、平尾御下屋敷歩數
     二十一萬七千九百三十歩
    一、深川御藏屋敷歩數
     二千六百六十歩
    四ヶ所御屋敷歩數
     都合三十二萬八千二百二十二歩
    (松雲公夜話)

 場所について

  • なお、この前田家牛込邸は現在の東京都新宿区市谷加賀町1丁目付近にあったことが定説となっており、そのために「市谷加賀町」という町名になったとされている。※防衛省市ヶ谷駐屯地北側
  • しかし、上記引用にあるように牛込邸は末高田あたりであったとされ、さらに牛込穴八幡のあたりであるとも記されている。※早稲田大学西側、学習院女子大学北側

    牛込の末高田に有之候。

    右之御屋敷は牛込穴八幡之邉也。(略)其邉を清泰屋敷と申候。

  • これによると前田家牛込邸は、現在比定されている市谷加賀町1丁目付近ではなく、西早稲田2丁目1−11南側付近ということになる。
    市谷加賀町1丁目は現在大日本印刷株式会社本社ビルがある一帯。旧江戸城外堀の市ヶ谷見附の外側にあたる。 一方、西早稲田2丁目1−11南側は、早稲田大学がある。
  • この南側一帯の戸山には、のち尾張徳川家の徳川光友が4万6千坪の土地を祖心尼(光友正室の千代姫の曾祖母)から土地を譲られて戸山下屋敷を建造しており、さらに寛文11年(1671年)にはさらに千代姫に拝領された8万5千坪の土地を加え、13万6千坪余りの広大な下屋敷を構成した。

 牛込穴八幡(高田八幡)について

  • 上記、前田家牛込邸がその近くにあったとする「牛込穴八幡」とは、現在も西早稲田の地にある穴八幡宮を指している。
  • 社伝によれば、康平5年(1062年)に源義家が奥州からの凱旋の帰途にこの地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのが始まりという。
  • 寛永13年(1636年)に御持弓組頭であった松平直次がこの地に的場を築き、弓八幡として名高い石清水八幡宮を勧請した。大橋龍慶が方百間の地を寄進しており、この頃に境内の神木から瑞光が放たれたために後に山号(光松山)とした。
  • 寛永18年(1641年)に威盛院権大僧都良昌に開山させたところ、8月3日に南側の山裾に横穴が見つかり中から金銅製の阿弥陀如来像が現れたため「穴八幡宮」と称するようになった。同日に家光の世子家綱が誕生したこともあり、家光は穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としている。加賀前田家が人夫数百人を出したこともあり、8月14日に遷宮式を執り行っている。

    寛永十八年八月武州牛込穴八幡社建立、利常公より人夫数百人御助成あり。且遷宮の時餅酒肴を多く送り給はりて賑之しむと云々。光松山放生寺と號す。

    牛込穴八幡社の別当寺として建立されたのが光松山放生寺。廃仏毀釈までは宝生寺住職が両山を納めたという。一陽来福 放生会の寺 高野山真言宗 放生寺

  • 正保5年(1648年)には8800坪余りの社領に壮麗な社殿が並び、江戸屈指の大社となったという。
  • 享保13年(1728年)、将軍吉宗は世子(後の9代将軍家重)の疱瘡快癒祈願のために、当院にて流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。

 金沢の金谷御殿八幡宮

  • 前田家ではこの穴八幡宮への信仰篤く、金沢の金谷御殿(現、尾山神社の地)にも勧請していた。
  • 明治4年(1871年)、前田斉泰は八幡宮を徳用(石川県野々市市徳用町)の地に移している。明治7年(1874年)に鉾杉八幡神社、明治22年(1889年)に光松八幡神社と改称する。斉泰は、移す際に御神体、本殿、縁起などを譲り与えている。縁起は大橋龍慶が記したもので、末尾に「寛永十八年十二月式部卿法印龍慶誌之」と記す。現存しており、平成2年(1990年)5月29日に野々市町指定の文化財。
  • この利常の穴八幡への力の入れ方を見ると、到底無関係とは思えない。前田家の牛込藩邸地は、「牛込穴八幡之邉」にあった可能性が高い。


 その他

 江戸藩邸

筋違邸
8843坪。拝領は綱紀の代。
明暦の大火後に、辰口邸に代わり上屋敷となる。

(明暦3年)五月十四日
一、松平加賀守上屋敷の替地に、東門跡那須衆三人の屋敷拝領。

五月十四日幕府は之に代ふるに、筋違橋外なる東本願寺跡邸、及び那須衆と稱せられたる那須・蘆原・福原三氏の邸地を授けたりき。その面積凡て八千八百四十三歩にして、之を筋違邸と稱し、當時加賀藩の上屋敷なりしが、天和二年十二月廿八日の災に焼け、三年春切通邸と共に幕府の收むる所となれり。大日本地名辭書の所載によれば、萬治武鑑に「神田門跡屋敷、松平加賀守」と記し、武江圖説には「加賀原、元來東門跡なり。加賀原と世人は呼べりしかども、少し基地相違せり。加賀屋敷は今の金澤町の處なり。門跡の井、今昌平橋北の方、原の西南入口に在り。」などあるを参考すべく、按ずるに此邸跡は、後の加賀原にも金澤町にも亙りしなるべしといへり。

天和2年(1682年)の大火で焼失。これにより本郷邸が上屋敷となり、筋違邸地は翌年春に上地した。
築地邸
1万160坪。幕末の拝領。
筋違橋邸
7640坪。幕末の拝領。
切通邸・抱屋敷
4480坪。

江戸切通邸は所謂抱屋敷にして、廣さ四千四百八十歩あり。前の地主を渡邊久左衛門といひたりしが故に、一に久左衛門屋敷とも呼べり。加賀藩の聞番・物頭・足輕等を置きし所にして、その位置延寶の江戸圖に載せらる。明暦三年・萬治三年・天和二年十二月廿八日並に火災に罹り、天和三年春筋違邸と共に之を幕府に納る。その後眞言宗知足院こゝに在り。知足院は次いで神田橋外に轉ぜしめられて、護持院と改稱せしものなり。

炮𤊒島邸・抱屋敷
23000坪。

炮𤊒島邸は、江戸深川地方に在りし抱屋敷にして、その地を炮𤊒島とも炮𤊒新邸とも稱したるより名を得たるなり。延寶の江戸圖に、永代島の邸外別に一區を駢出して、松平加賀守と記するもの是に當る。天和三年加賀藩が、平尾邸の地を増賜せられんことを幕府に請ひたる時の文中に、永代島の屋敷二・三ヶ所を納付すべしといへるも、亦永代島・炮𤊒島・深川の三邸を指したるなり。但しその地荒無にして、代り請くるものなかりしを以て、眞に之を幕府に交附したるは貞享三年四月に在りき。廣さ二萬三千餘歩。

貞享三年四月永代島邸ト一時官ヘ歸上ナリ

深川邸・抱屋敷
32292坪。

江戸深川邸も亦加賀藩の抱屋敷にして、南は海に濱すといふが故に、之を元禄以前の江戸圖に稽ふるに、霊岸寺の所化寮と永代島邸との間に挟まる北入の地、卽ち是に當るといふ。天和三年深川邸を、永代島・炮𤊒島の兩邸と共に幕府に納るといへども、その荒廢地なるを以て收められず。貞享三年更めて上地とせり。但しこの後の江戸圖に、尚深川邸を加賀藩の有なるが如く記するものあり。恐らくは誤謬なるべし。

東ハ水野和泉守、西ハ杉浦内蔵助第、南ハ海トアリ。今此原地彼處トハ定了シ難ケレモ、永代島邸ニ鄰リ、北ヘ少ク退キタル閑地アリ。卽是古ヘノ深川邸迹ナルヘシ。(略)享保十二年後、此邸官ヘ歸上アリト思ハルレトモ、我諸舊記中其事由片語ナキハ一層ノ疑團也。

永代島邸
抱屋敷、蔵屋敷。31700坪。永代橋邸。

江戸の永代橋邸は、元和の初より加賀藩の抱屋敷としたるものにして、當時米廩は、是より先置く所の深川倉屋敷に轉ぜしめたるものゝ如しといふ。

貞享三年四月永代島邸ト一時官ヘ歸上ナリ

深川米蔵屋敷
深川黒江町。2668坪

江戸深川米蔵屋敷は黑得町に在り。廣さ二千四百三十二歩。初め明暦三年三月町人向井六右衛門・向井彦六・升屋市郎右衛門より購ひし地にして、萬治元年米倉を設置せり。寶永四年十二月閣老土屋政直の許可を得て新たに外圍を作り、次いでその歩數を改めて二千六百六十八歩と定む。後寶暦十年二月の火災に土藏一棟類焼し、明和七年八月十一日・天明六年正月廿二日並に米廩を類焼せり。深川米倉屋敷も亦傳へて明治に及ぶ。

宝暦10年(1760年)2月6日焼ける。

江戸深川に於ける金沢藩の蔵屋敷、火災に罹る

黒多門邸
本郷邸の飛び地。
天和2年(1682年)に焼失。天和3年(1683年)から大聖寺藩邸

本郷邸内に初め黒多門邸と稱する一區ありて、土墙を以て之を分てり。初め加賀藩の幕府に提供したる證人を置く所なりしが、寛文五年證人を廢したる後に於いても尚その屋舎を存し、聞番・足輕・御小人等を住せしめき。廣さ二千七十一歩。天和三年八月大聖寺公の邸中に加へらる。

浅草
本多能登守下屋敷近所百間四方。寛文元年(1661年)6月12日富山藩前田淡路守利次。
染井邸

江戸染井邸はその沿革を明かにせず。享和九年十月十八日、前田吉徳の生母預玄院が染井の新邸に移徙せしこと見ゆ。

 京都藩邸

京邸

天正十年豊臣秀吉の聚樂邸を京師に營むや、諸侯亦各々附近に館を構へしが、その中前田利家の邸は蒲生氏郷細川忠興との間に在りしと傳へ、文禄三年四月八日秀吉の臨みしもの亦この邸なりといへども、舊址の何れの地に當るかは、今之を考ふべからず。次いで同年十月秀吉聚樂第を秀次に譲り、躬ら伏見に住するに及び、利家も隨ひて移りたりき。徳川氏の世に至りては、京・伏見共に加賀藩の邸第あることなし。是を以て大阪冬陣の往路には、前田利常嵯峨に宿陣し、歸路には本能寺に入り、夏陣には往復共に北野に居り、元和九年七月徳川家光の入洛、寛永三年秀忠・家光父子の上京せし時には、利常供奉して本國寺に館し、更に十一年七月家光西上の際には、利常近江の大津に在りき。その後藩吏の京に留まるものゝ利便を計らんが爲、一たび二條油小路に邸を置きしことありといへども之を廢し、寛文元年又三條河原町に、呉服所三宅庄兵衛を地主名義として宅地を購ひ、こゝに藩の旅館を興し、小將組・馬廻組の士を交代派遣して奉行せしむることゝせり。邸の廣さ千四百八十四歩にして、東西五十七間・南北三十六間。東は高瀬川に接して橋及び門あり、南は藥罐町の方に水門ありて舟を入るべく、西門は河原町通、北門は塗師屋町通に在りしといふ。元治元年三月十九日長藩の兵京師に侵入して、火をその河原町の邸に放つ。加賀藩の邸之と隣るを以て、防ぎて僅かに難を免かるゝことを得たり。

岡崎邸

幕末京師多事の時に當り、加賀藩は洛北岡崎村の地四萬三千三十八坪を借り、假に屋宇を構へて藩士を置きしが、慶應三年八月六日その地を賜ひて我が邸とせんことを請ひ、直に幕府の同意を得たり。版籍奉還の時に至るまで岡崎邸と稱せられ、在京藩兵の舎營する所たりしもの卽ち是なり。

伏見邸

文禄三年豊臣秀吉伏見城を築き、十月十六日聚樂第よりこゝに移れり。是を以て諸侯皆邸をこの地に構へしが、前田利家の住する所は西丸の下にありて、利長の居も亦之と相並び、その間僅に榊原康政の館を挟むのみなりしといふ。後又利家の下屋敷を伏見河端に賜ふ。四年七月豊臣秀次の死するに及び、秀吉は利家にその遺館を與へしに、利家之に移り住めり。同年八月廿九日明の遊撃將軍沈惟敬を饗せしもの、慶長二年四月二日及び九月某日に秀吉の臨みしもの、皆この邸なり。三年八月十八日秀吉伏見に薨じ、四年正月十一日子秀頼の大坂に移るに及び、利家も亦随ひて彼の地に赴きしが、伏見邸は尚依然として在續せり。關ヶ原役後、利長は伏見邸を解きて材を封国に運搬し、慶長十四年高岡城建築の際之を組立しが、十九年利長薨じて廢城となりしを以て、再びその書院を移して御旅屋の用に供せり。

慶長3年(1598年)9月秀吉御成

伏見之邸秀吉公御成之時御拝領。
 御刀三池小傳太、水に降雪  御脇差切刄正宗
  付札切刄貞宗水に降雪共安宅共  高徳院様秀吉公より御拝領。

 関連項目


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