来国俊(刀工)
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
来国俊(らいくにとし)
- 来一門を代表する名刀工。
- 生没年未詳。
- 徳川黎明会所蔵で「正和四年歳七十五」と在銘の太刀がある。正和4年は1315年であり、これを元に1240年(延応2年、7月16日に仁治に改元)生まれと比定される。
銘
- 銘に「国俊」の二字のものと、来を冠した「来国俊」の三字のものとがあり、作風も異なるため同人説・別人説の両方がある。
- 二字銘のものは、在銘品が少なく「来国俊」と切る鎌倉時代末期の刀工と区別され、「二字国俊」と呼び珍重される。
- また二字銘は太刀がほとんどで短刀は一振りだけであるが、三字銘には太刀、短刀ともに多くみられる。
国俊の同人説・別人説
別人説
- 別人説では、通常は二字國俊を三字銘を切る「来国俊」の父とする。
来国行──来国吉(太郎)──二字国俊──来国俊(孫太郎)
- 来国俊は晩年「孫太郎入道」と称したという。
- 通称から考えると二字国俊と来国俊をこのように並べると矛盾がなくなるために別人説が登場した。
- 「来国俊」3字銘と「国俊」2字銘を別人とするのは、既に室町時代末から広まっており、三好下野入道、建部内匠頭などが継承した。
同人説
- 同人説は吉野朝から存在し、室町時代末になると竹屋家で研究が行われた。
- 来国俊の銘には「正和四年歳七十五」と年齢を添えたものがあり、逆算すると弘安元年(1278年)作の二字国俊は38歳の作となる。
来源国俊 生年七十八 文保元丁巳七月日
- 「来国俊」と来を冠するようになるのが正応(1288)ごろからで、これは親の国行が死去したためともいう。
- 銘が何度も変るため、「六度変わり」「六度の国俊」ともいう。
銘「六度変わり」
- 同人説では、国俊は6度銘を変えたとされる。
- 仮銘
- 「国俊」。父国行生存中
- 大銘の仮銘
- 「来国俊」。目釘孔の上に打つ
- 大銘
- 目釘孔の下に大きな銘
- 山伏の写し銘
- ”國”の文字の中の左側の3つの点を右上がりに打ち、”俊”の右側をム久のように切る
- 小銘
- ”来”の第二画を「耒」(横棒)ではなく「来」のように分け、書体を小さく切る
- 中堂銘
- 「根本中堂来国俊」と切る「文保元年銘」、「正中元年銘」など、比叡山根本中堂に参籠して打ったもので、「源来国俊」と切るものが多い。
著名作:二字国俊
- 鳥養国俊
- 二字国俊。享保名物。尾張徳川家伝来。徳川美術館所蔵
- 愛染国俊
- 二字国俊。享保名物。重要文化財。加賀前田家伝来。
- 刀
- 無銘国俊。刃長68.3cm、反り0.6cm。鎬造、庵棟、大磨上げ無銘。二字銘時代の国俊と極められている。家康から水戸徳川家頼房、頼房より高松松平家初代頼重に譲られた。重要文化財指定。香川県立ミュージアム所蔵。※この刀には「二字国俊来由」という由緒書きが付く。刃長二尺二寸五分のほか、鞘書、袋についても詳細が記され、さらに権現様(家康)から源威様(頼房)へ、龍雲院様(頼重)へと伝わった旨が記される。
- 片田家旧蔵
- 毛利元就が尼子氏と和睦する際に仲裁をした片田氏に、尼子氏から贈られたもの。川田小一郎氏蔵
- 猪飼国俊
- 木村長門守が、姉婿の猪飼左馬之助に贈った刀。木村による長文の手紙がついていた。ただし無銘だったという。
- 有馬家旧蔵
- 太刀 銘 国俊。長二尺四寸九分五輪、反り八分五厘。鎬造り、庵棟、猪首切先。反り高く踏ん張りあり。表裏に棒樋を掻き流し、表に添樋と素剣、裏に添樋と腰樋が彫られている。生ぶ中心。表目釘孔下に国俊二字銘。有馬頼寧伯爵旧蔵
- 刀
- 額銘「國俊」。昭和12年(1937年)2月16日重要美術品認定。公爵徳川慶光所持。子爵松平保男(会津松平家)旧蔵。
徳川慶光は徳川慶喜の孫。1938年(昭和13年)10月5日には、会津松平家の子爵松平保男の四女・和子と結婚しており、その際に相続したものと思われる。
- 刀
- 金象嵌銘「國俊」。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品認定。東京関口台町の馬場一衛氏蔵。
著名作:来国俊
名物
- 「蛍丸」
- 旧国宝。太刀「来国俊/永仁五年三月一日」。※同人説では国俊57歳の作となる。
- 「結城来国俊」
- 来国俊
- 「大波国俊」
- 伝来国俊
- 「鷹匠切」
- たかじょうぎり。来国俊作。三尺一寸。足利将軍義教が鷹匠を唐竹割りにしたが、しばらく体がそのままで手にした鷹も驚く様子がなかったという。のち長州の大内持世が拝領し、家宝にした。四代後の大内義隆はこれを寵臣杉民部少輔に与えている。大和興武が杉に頼んでこれを譲り受け、弘治元年(1555年)の厳島の合戦のとき興武は陶晴賢に与するが、毛利方の香川光景に組み伏せられ捕虜となった。それから一両月後、毛利元就は光景に命じて大和興武を殺させている。光景は鷹匠切りを奪って元就に献上したが、元就は家宝にせよと言って香川光景に与えたという。
国宝・重文
- 小太刀
- 銘「来国俊」刃長54.4cm。国宝。日光二荒山神社所蔵
- 熱田の来国俊
- 短刀 銘「来国俊/正和五年十一月日」身長25.1cm、内反り。平造、三つ棟、重ね厚く、内反、尋常の姿。目釘孔2個。来国俊76歳の作。明治44年4月17日旧国宝指定。昭和30年2月2日に国宝指定。熱田神宮所蔵。
- 短刀
- 銘「来国俊/正和五年十一月日」長さ25.1cm、元幅2.6cm。平造、三つ棟。反りはなく、身幅は広目で、重ねも厚い。茎は生ぶで、わずかに反る。目釘穴は2個、その下に「来国俊」と大振りの三字銘があり、「正和五年十一月日」と裏銘がある。この短刀は76歳の作。同作の短刀は2口が国宝に指定されているが、その1つ。明治44年(1911年)国宝指定。
- 太刀
- 銘「来国俊/正和二二年十月廿三日□□歳七十五」重要文化財。尾張黎明会所蔵。
その他
- 太刀
- 重要美術品。太刀 銘 来孫太郎作/(花押)正応五□辰八月十三日云々。鎬造り、庵棟、小切先、反り高く踏ん張りあり。表裏に棒樋と蓮樋を掻き流し、それに添えて表には梵字と素剣、裏には腰樋。生ぶ中心。表に銘、裏に年紀銘。裏の目釘孔上に花押。うぶ中心。長二尺五寸五分、反り一寸。尾張徳川家伝来。
- 太刀
- 重要美術品。太刀 銘 来国俊。長二尺三寸八分三厘、反り七分五厘。鎬造り、庵棟。「来国俊」の三字銘。細川護立侯爵。
- 太刀
- 銘「来孫太郎作/(花押)正応五□辰八月十三日」以下不明。昭和14年9月6日重要美術品指定、尾張徳川黎明会所蔵
- 太刀
- 銘「来国俊正和四年□□」昭和16年9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
- 短刀
- 銘源来国俊/文保二年三月。昭和8年(1933年)7月25日重要美術品認定。加藤正治氏所持。
- 太刀
- 銘「来源国俊」昭和12年2月16日重要美術品指定、澤山昇吉所持。
- 太刀
- 銘「来国俊」二尺四寸五分。鎬造、庵棟。鋩子尖り心の小丸返る。寛永6年拾月に6代将軍徳川家宣奉納。拵え元禄頃。伊勢神宮所蔵。
- 太刀
- 銘「来国俊」長二尺三寸一分五厘。鎬造、庵棟。鋩子尖り心の小丸返る。一柳近江守越智直敬佩刀。瀬戸保太郎氏蔵。重要美術品。
- 太刀
- 銘「来国俊」刃長二尺二寸弱。附革包革巻太刀拵。林道倫所持。
- 短刀
- 銘「来国俊/正和四年八月」以下切。昭和16年(1941年)4月9日重要美術品認定。侯爵前田利為所持。
- 短刀
- 銘「来国俊」。昭和15年(1940年)2月23日重要美術品認定。伯爵亀井茲常所持。
- タイ捨流創始者の丸目蔵人佐が愛用したという
関連項目
- 一期一振
- 一期第一
- 上杉家伝来の刀
- 了戒
- 井伊家伝来の刀
- 今村長賀
- 仙台伊達家の江戸藩邸
- 伊東巳代治
- 伊達政宗
- 備前三郎国宗
- 備前岡山池田家の江戸藩邸
- 光山押形
- 刀工
- 前田光高
- 前田利常
- 前田利政
- 加賀前田家の江戸藩邸
- 名物
- 国宝
- 土屋押形
- 堀秀政
- 大久保一翁
- 大内正宗
- 大波国俊
- 太刀
- 小早川隆景
- 小此木信六郎
- 島津正宗
- 川田小一郎
- 庖丁藤四郎
- 徳川美術館
- 愛染国俊
- 折紙
- 斎村貞宗
- 新身来国光
- 旧国宝
- 明智光秀の刀
- 書物
- 最上正宗
- 木村重成
- 本阿弥光心押形集
- 本阿弥光瑳名物刀記
- 来一門
- 来国次
- 来国行
- 東京国立博物館
- 松平忠直
- 楢柴肩衝
- 正宗
- 水戸徳川家の江戸藩邸
- 池田忠雄
- 池田輝政
- 瀬戸保太郎
- 無銘藤四郎
- 熱田神宮
- 石井正宗
- 福原長堯
- 秘談抄
- 細川護立
- 結城来国俊
- 継平押形
- 若狭貞宗
- 蔵人
- 藤嶋友重
- 蛍丸
- 諸国鍛冶寄
- 諸国鍛冶系図
- 貞宗
- 重要文化財
- 重要美術品
- 鉋切長光
- 集古十種
- 駿府御分物帳
- 鳥養国俊
- 鷹匠切
Amazonプライム会員無料体験