真守(刀工)
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大原真守(おおはらさねもり)
- 長享銘尽
安綱ガ子、大原真ト打、平家重代抜丸是ヲ作、此太刀ヲ抜丸ト云㕝ハ、中比伊勢國ニ貧キ男アリ、身ノ貧ヲ太神宮ニ年末祈申キ去間、或時夢想ニアリ、汝猟ヲメ妻子ヲ養ト示□ノ□□事ヲ心ニ懸テ世ヲ渡ケル、或時三子塚ト云所ニテ太刀一ツ求得タリ、此太刀ヲマウケテヨリ更ニ狩ヲニカスフ無サレハ太神宮ノ宣同心□ト思テ身ヲ不放、或夜此太刀ヲ大木ニヨセカケテ其下ニ宿ス朝比木ヲ見ルニ悉枯タリ是則神□則木枯ト名付、其比忠盛卿ハ伊勢ノ守ニテヲハシケルカ、此太刀ヲ□石テ種々ノ弥寶ヲ与エ給フ、去程ニ□ホカ家中ノ富古又無限是即大神ノ御利生也、其後忠盛卿都ニ帰テ池殿ニヒル寝ノ比木枯ヲ御枕ニ立掛ケリ、大蛇忠盛卿ヲ呑ントス其時此太刀サヤヨリ抜タリ大蛇其光ニ怒テ池に不入、其ヨリ此太刀ヲ抜丸ト名付□々秘蔵無限
生涯
- 父は大原安綱という。
- 嵯峨天皇の御宇、弘仁・天長年間。
- 現在の鳥取県倉吉市下田中には大原真守の屋敷跡が残る。
※京都にも大原という地名があり宅跡と伝えるが、こちらは関係がない。
銘
- 「真守」または「真守造」。
著名作
- 木枯
- 平忠盛が佩用し平氏の宝刀となった「木枯」の作者という。「抜丸」と同物だともいい、はじめ「木枯」と号し、のち「抜丸」と改めたという。
- 中丸
- 平清盛の佩刀という。
- 太刀
- 銘「真守造」刃長2尺5寸3分(76.8cm)、反り1.9cm。鎬造、庵棟、なかごは雉子股形で生ぶ。茎の棟に「大ハラ」と刻まれているというが、現在は不明。元は新羅三郎義光の佩刀という。武田信玄・勝頼に伝わり、家康所持となる。
水戸25万石であった松平信吉(武田信吉。母は下山殿、秋山氏)に譲るが、早世したためその後(頼宣の後に)水戸領を継いだ水戸頼房の手に渡った。その後徳川光圀が、長子であり本来は水戸家を継ぐはずであったとして兄である徳川頼重に贈ったという。
高松松平家では「御三刀」と呼ばれて大切に扱われた。讃岐高松藩2代松平頼常の頃、のち将軍綱吉のもと側用人として権勢をもった柳沢吉保が、武田家の流れを汲む家であるとしてこの太刀を2代藩主頼常から借り出すが、返却しないばかりか鎺を花菱紋の入った金鎺に取り替えてしまった。
綱吉が亡くなったのち、讃岐高松藩3代藩主松平頼豊のころ、水戸家を通じて柳沢家に太刀の返却を求めたところ、ようやく高松松平家に戻ってきたという。現在も花菱紋金鎺が付く。昭和8年(1933年)1月23日旧国宝指定。昭和55年(1980年)の「国宝・重要文化財総合目録」では松平頼明氏所持。現在は香川県立ミュージアム所蔵。元禄十七年二月三日付け代金子百三十枚の折紙が付く。
- 綱丸
- 奥州津軽家所蔵。刃長三尺三寸。佩き表に「八幡大菩薩」。津軽家の先祖である大浦頼秀が、仁治元年鎌倉において将軍頼経または北条泰時から拝領した。津軽為信は、天正13年8月に軍船に乗り鰺ヶ沢港を出港。秋田牡鹿半島まで来たところ、暴風にあい難破しそうになる。老臣沼田面松斉の進言により、宝刀を海神に捧げたところ暴風が収まったという。北海道の松前に流されたために自領の三厩港に戻って碇綱を引き上げると、刀が綱に絡まっていたため綱丸と号した。明暦の大火に巻き込まれるが奇瑞があったという。
また寛永4年9月10日の夜、弘前城に落雷し炎上した際、この太刀だけは飛び出して松の梢にひっかかっていたという。明暦三年正月十八日、十九兩日、江戸表大火事、此時漢だ小川町御上屋敷、御類焼に付、柳原御中屋敷へ、御立退、此節御重代綱丸太刀御奇瑞あり、尤、御上屋敷御土蔵御類焼に付、御代々御日記并御武器共消失(津軽歴代記類 - 工藤家記)
- 立割真守
- 伊達家相伝、片倉小十郎拝領。
- 太閤真守
- これも小田原陣に時に、片倉小十郎に対して秀吉が三春5万石を与えようとするも固辞したため、代わりに大原真守の二尺三寸余を与えたという。
- 肌小袖
- 伊達家相伝。片倉小十郎景綱が元服した際に、烏帽子親である伊達成実から贈られた刀。伊達家14代伊達稙宗が足利義稙に献金を行い、一字拝領および従四位下、左京大夫に叙任された際に拝領した。あるいは伊達実元が上杉定実の養子となる際に越後上杉家から拝領したものという。後者であるとすると「宇佐美長光」と共に贈られたことになる。
- 太刀
- 銘「真守造」昭和28年3月31日旧国宝指定。重要文化財。東京国立博物館所蔵
- 太刀
- 銘「伯耆大原真守」長75.2cm。大正2年(1913年)4月14日に旧国宝指定。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵がつく。重要文化財。和歌山東照宮所蔵、和歌山県立博物館寄託。
- 太刀
- 銘「真守造」昭和8年1月23日旧国宝指定。重要文化財。香川県歴史博物館所蔵
- 太刀
- 銘「真守」長二尺七寸四分。後醍醐天皇に仕えた堀田弥五郎正泰(紀行高の子)の佩刀で、のち正泰が摂社弥五郎殿社を創建し寄進したと伝える。正泰は楠木正行に従い、河内四条畷で高師直と戦い貞和4年1月5日戦死。大正9年4月15日に旧国宝指定。重要文化財。愛知県津島神社所蔵
- 太刀
- 銘「大原真守」長79.4cm。目釘孔1個。なかごに「白河院」と金象嵌が入る。秋田県大仙市の指定文化財。
- 剣
- 銘「真守」長27.7cm。造両鎬。表裏鎬の上に細い樋をかき流す。刃文直ほつれ、帽子尖る。鍛板目。なかご生ぶ、目釘孔1個、先山形。「寛永年間大橋入道式部 法印竜慶寄進」。明治45年2月8日旧国宝指定。重要文化財。誉田八幡宮所蔵、大阪歴史博物館寄託 ※法印竜慶とは秀忠の右筆を務めた大橋竜慶のこと
- 太刀
- 銘「真守造」磨上。長二尺三寸一分半。目釘孔がなかご先に残る。鞘に「寛永八年卯四月朔日拝領代金七百貫」黒田侯爵家伝来。
- 太刀
- 大原真守。昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会では秋月種英子爵所持。
- 打刀
- 銘伯耆大原真守。長二尺一寸九分。大内政弘による寄進で、側近であった相良遠江守正任の添翰が附く。
大内政弘御寄進大原眞守ノ打刀 一口
在銘長二尺一寸九分。中心四寸二分五厘。及梵字ヲ彫ル。相良遠江守正任ノ添翰アリ。原書明治九年本営炎上ノ際紛失。
御打刀一腰 銘伯耆大原眞守。勝字有之。金作也。 事御寄進候。みハ貳尺六寸。つか六寸六分。ひ兩方同様。ぬりさや。つかことのいと。
七月七日 正任押字
二宮大宮司殿 - 八幡
- 長宗我部元親の佩刀という。大原真守の作。「元親記」によれば、元親が夢で弓を敵を射た時に弦が切れて箭が砕けたという。目覚めた後、これを八幡の祇官左近という者に話すと、「此の夢吉兆言ふべからず、其の理由は弓強きが故に弦斷ち、箭頸きが故にヤガラ碎く、箭鋒の指す所、誰か敢へて當り得ん」と元親はこれを聞いて大いに喜び、謝礼として薙刀を与えたところ、左近は刷いていた真守の刀を元親に献上したのだという。それにより「八幡」と号して毎戦佩用したのだという。
備前真守(びぜんさねもり)
著名作
- 高照神社蔵
- 太刀 銘「真守」。長2尺5寸1分(76cm)、反り9分6厘。弘前藩主4代津軽信政が佩用していたものを、5代津軽信寿が寄進したとの伝来を持つ。糸巻太刀の拵つき。生ぶ中心、目釘孔1個。大正15年(1926年)4月19日に旧国宝指定。青森県弘前市の高照神社蔵。→高岡の森弘前藩歴史館所蔵
- 太刀
- 銘「真守」長66.7cm。鎬造、庵棟、中鋒、磨上げながら腰反り。鋩子乱込み、先小丸。なかご磨上、先切、鑢目勝手下がり、目釘孔1個。表なかご先棟寄りに二字銘。昭和28年(1953年)11月14日に重要文化財指定。紀州徳川家伝来。江戸初期の打刀拵で後藤製作の金具。株式会社ブレストシーブ所蔵
佐野美術館所蔵で、同日に重文指定された長74.1cmの太刀がある。同物ではないかと思われる。
- 二百貫丸
- 備前真守作。足利尊氏の家臣仁木義長の佩刀。当時、真守作で二百貫文は高価な方だったため、それが異名になったという。当時米一石は一貫文弱だったことから米二百石に相当することになる。
- 刀
- 無銘備前真守。刃長一尺七寸。延宝4年辰7月3日付けの本阿弥の折紙が附く。この備前真守には正宗と交換したという逸話がある。それによると近江膳所藩主であった本多俊次(膳所2代藩主、酒井忠次の孫)はかねがね尾張徳川家と親交があり、尾張公がある時本多家にある正宗(本多正宗)を見る機会があり、所望したという。その時膳所藩では藩財政が良好ではなかったために、本多俊次はその短刀を出すことで少しでも改善するならばと渡すことにしたという。尾張公はこれへの謝礼として金千五百両を出すとともに、その後幕閣に働きかけがあり両度の加増があり、本多家は三河西尾、伊勢亀山を経て7万石で再び膳所に加増転封されることになる。藩財政が豊かになったため、正宗の代品とて千両で備前真守の短刀を購入したという。その後は藩主交代のおりに代々伝えた。しかし明治維新の混乱で市中に流れてしまう。その時旧臣柴田勝久がこれを見つけ出し、のち明治16年4月に本多神社が旧膳所城瓦ヶ浜御殿の跡に創建された際に神宝として修めたという。
系譜
- 真忠:真守の子。
その他
古刀
- 備中、三河(小原真守)、豊後高田にも真守がいた。
新々刀
- 黒羽藩士 真守:武守真守。刀工となる。「黒羽藩士源真守造之」、「武守勝太夫真守」、「黒羽士源真守造」「源真守造之」
関連項目
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