火車切広光


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 火車切広光(かしゃぎりひろみつ)

脇差
銘 相模国住人広光/康安二年十月日
附 黒漆塗小サ刀拵
号 火車切
長38.5cm
重要美術品
佐野美術館所蔵

  • 上杉家御手選三十五腰のひとつ
  • 上杉家御腰物帳五十二号

    火車切広光 脇指拵 御重代 三十五腰之内
    一尺二寸七分

 由来

  • 上杉家に伝わった火車切広光の由来は不明である。
  • おそらく伝承に登場する妖怪の火車を斬ったことから名付けられたと思われる。
    後述する「藤嶋友重の火車切」では火車を切る場面が詳述される。

 来歴

  • 上杉家所蔵

    三十五腰之内

  • 昭和頃に静岡の石居健次氏蔵
  • 現在は佐野美術館所蔵

 別の広光作脇指

  • 上杉家には、この「火車切」とは別の広光作の脇指が存在し、これも同様に上杉家御手選三十五腰のひとつとなっている。

    脇指
    銘 相模国住人広光/延文五年八月日
    一尺四寸

  • 銀無垢の一重鎺が附き、金の平象嵌で「自古河(こが)様拝領」と入る。古河様とは4代古河公方・足利晴氏のこととされる(あるいは5代の足利義氏か)。

 「火車」

  • 「火車切」の火車(化車、かしゃ、きゃしゃ)とは、日本各地に古来伝わる妖怪の名前で、生前悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を葬式や墓場から奪っていくとされる。正体は年老いた猫とされ、妖怪猫又が正体であるとも言われる。
    現在となっては単なる妖怪譚に過ぎないが、昔の人はこれを恐れ、実際に「火車の爪」や血染めの衣を伝授していたのだから、当時の人にとっては実在する妖怪であったことは確かである。
  • 元々は仏教説話に登場するもので、地獄で罪人を運ぶのに用いられたという。

    くわしや〔火車〕
    【火車】とは、罪人を迎接するに用ゐる地獄の火の車をいふ。極重の罪人、命終堕獄せんとするとき、地獄の相、現前するを【火車相現前】すといふなり。
    (仏教辞林)

  • それが後、葬列に襲いかかってくる妖怪として世に広まったのだという。この妖怪火車になると、葬送される人間の善悪は関係ないものとなる。※むしろ火車を撃退した人物の徳の高さを示すような逸話となる。

     室町時代には臨終の火車は「外部化」して雷雨が堕地獄の表象とされるようになり、十六世紀後半には雷が死体をさらうという話が出現する。それとともに戦国末には禅宗の僧が火車を退治する話も流布し始めた。葬列の際の雷雨を人々が気にするのは、中世後期に上層の華美な葬列が多くの見物人を集めるようになったことと関係がある。
     猫が火車とされるようになるのは十七世紀末のころと見られる。近世には猫だけではなく、狸や天狗、魍魎などが火車の正体とされる話もあり、仏教から離れて独自の妖怪として歩み始める。
    (「火車の誕生」勝田至、2012)

 火車の例「宇治拾遺物語」

  • 説話物語集「宇治拾遺物語」では、地獄で亡者を責める悪鬼である「獄卒」が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。

 火車の例「北越雪譜」

  • 越後雲洞庵(うんとうあん)の和尚・北高和尚(北高全祝。曹洞宗の禅僧)が葬儀に現れた火車を撃退したという話がある。

    むかし天正の頃、雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備の尊者にておはせり。その頃この寺にちかき三郎丸村の農家に死亡のものありしに、時しも冬の雪ふりつづき、雪吹(ふぶき、ママ)もやまざりければ、三、四日は晴をまちて葬式をのばしけるに晴れざりければ、強ひていとなみをなし、旦那寺なれば北高和尚をむかへて棺をいだし、親族はさらなり、人々蓑笠(みのかさ)に雪をしのぎて送りゆく。その雪途(ゆきみち)もやや半ばにいたりし時猛風俄におこり、黒雲空に()き満ちて闇夜(あんや)のごとく、いづくともなく火の玉飛び来り棺の上に覆ひかかりし。火の中に尾はふたまたなる稀有の大猫牙をならし、鼻をふき、棺を目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨て、こけつまろびつ逃げまどふ。北高和尚はすこしも(おそ)るるいろなく口に呪文を唱へ大声一喝し、鉄如意を挙げて、飛びつく大猫の(かしら)をうちたまひしに、かしらや破けん、血ほどはしりて衣をけがし、妖怪は立地(たちどころ)に逃げ去りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。
    (北越雪譜)

    ※雲洞庵は新潟県南魚沼市雲洞、三郎丸村は現在の南魚沼市塩沢。

  • この時に北高和尚が身につけていた衣を「火車落しの法衣」といい、大猫の血のとび散った血染めの袈裟が残っている。ノンフィクション作家の辺見じゅん氏が昭和後期に訪れて見せてもらっている。この時は「香染めの麻」と呼ばれていたが薄墨色の血の跡が残っていたという。現存
    辺見じゅん(1939-2011):旧姓角川。父は角川書店創業者の角川源義。同母弟に角川春樹、角川歴彦がいる。著書に「男たちの大和」、「収容所からきた遺書」など。
  • また北高和尚が撃退するのに使った鉄如意の方は、信州龍雲寺に保存されているという。
    のち北高和尚は武田信玄に招かれ、永禄4年(1561年)に佐久の龍雲寺を中興したという。

 「火車」に関する参考文献




 藤嶋友重の火車切

  • 火車切広光とは別の「火車切」がある。

藤嶋友重
火車切

 由来

  • 紀州藩士の学者・神谷養勇軒の著した「新著聞集」は、怪異奇談集であり寛延2年(1749年)に刊行されている。
  • この中に「火車切」の逸話が登場する。

    松平五左衛門殿(近正)従弟の葬禮に、雷電四方に閃き、龕の上に、黒雲かゝりしを、五左衛門殿、龕に手を掛うかゞひみたまふに、熊の手のごとく成もの、雲の中より指出す處を、抜うちにしたまへば、手答へして雲はれぬ。跡を見れば、血おびたゞしく流れたり。其中に、怖ろしき爪三つ付、その本に、銀の針をすりならべたる様の、毛生ひたる物切おとしたり。それよりこの刀を、火車切と名づけ所持ありしを、諏訪圖書を聟にとりて、其引出物にせられしを、諏訪若狭守殿、強ちに所望、黙止がたくて、つかはしけるとぞ。
    (新著聞集)

  • これによると、徳川家康に仕えた「松平五左衛門」こと大給松平家の松平近正が従兄弟の葬儀に参加した際に、雷鳴が鳴り響き雲の中から現れ遺骸を奪おうと現れた火車の腕を抜き打ちに切り落としたという。
  • この時に「火車の爪」と思しきものが血だまりの中に落ちていたため、刀を「火車切」と名付けという。

 来歴

  • のちこの「火車切(藤嶋友重作)」は、近正の孫娘(近正の長男である松平一生の娘)が信濃諏訪藩の家老・諏訪頼雄に嫁ぐ際、火車の爪と共に婚礼の引出物となり、以来諏訪図書家の家宝となる。
    諏訪頼雄は諏訪藩初代藩主諏訪頼水の弟(諏訪頼忠の嫡男が頼水、頼雄は四男)。諏訪図書家を興し、代々、高島城二の丸に居住し二の丸家と呼ばれた。
  • 諏訪頼雄は元和7年(1621年)に隠居し、子の盛政に家督を譲っている。この時火車の爪と、藤嶋友重の刀(火車切)も譲られている。
  • 「新著聞集」の中で「(あなが)ちに所望」したという諏訪若狭守とは、初代藩主諏訪頼水の次男であり2代藩主諏訪忠恒の弟の諏訪頼郷(若狭守、土佐守)であると思われるが、その後の「火車切」の行方は不明。
  • 大田南畝の「一話一言」には、この藤嶋友重作の火車切に関する逸話「火車切刀之記」が載っている。

    火車切刀之記
    曰者征夷大將軍正一位家康公之家臣 有松平五左衛門尉近政(※近正)者、住于上野之國三之藏所。一日朋友之妻死、送槨(※棺)於野之時、随衆緢共行郊外、時俄然天起黑雲、雷車驚耳、電光入眼、風疾雨烈、各消魂冷膾。一片之黑雲、降于槨上、雲中出一手、攫槨而欲昇、於是近政前奏刀、斬其腕、所切落之手、見之有三爪、々根生黑毛、爪色如靑磁之陶先尖也。俗所謂火車者也。近政爲奇爲怪、採皈吾家、爲家珍、是非其人之壯勇、其刀之利銛、何可免此難哉、由此寶其刀、而藏之久矣、其刀藤島友重之所作也。
    余祖父諏訪因州太守頼水、随大將軍家康公幕下、居于信州諏訪之城、家臣有諏訪美作守頼雄者、娶近政之女爲妻、近政時添所斬火車之刀、及爪一、遣頼雄、頼水乞刀、以傳二男若狭守頼郷。頼郷者、余家君也、爾後其刀相傳、在余庫藏。爪者頼雄之苗裔大學頼及藏之、今尚在焉、爾後得一爪、而添此刀、作記以令後昆知其來由者也、于時延寶三年乙卯朧月下旬、從五位下諏訪備前守源頼音書。
      覃云、此文此書、作者世系、歴々可見、因抄出全文。

    前段は近正の火車退治の話、後段はそれが諏訪家に伝わっている話。
     これによれば、延宝3年(1675年)に諏訪頼郷の子である諏訪頼音(頼水の孫)が「火車切刀之記」を記している。ただし若干話が異なっており、婿である頼雄に対して兄である頼水が刀を乞うており、頼水はそれを次男・若狭守頼郷に与えたのだとする。誰が要求したのかは別にして、結局、火車切刀は頼郷が入手したという点では同じ。「爾後其刀相傳、在余庫藏」となっており、どうもこのときには諏訪頼音に伝わっていたことになる。一方爪の方は「爪者頼雄之苗裔大學頼及」と頼雄の子孫である大学頭頼及が所持していたとする。※「苗裔(びょうえい)」も「後昆(こうこん)」も末裔という意味。

    諏訪頼忠─┬頼水─┬忠恒
         │   ├頼郷─┬頼音
         │   └頼長 └頼常
         │
         │
         │(諏訪図書家:二の丸家)
         └頼雄──盛政──頼及(盛住)──頼意
    

 刀工藤嶋友重

  • この諏訪家に伝来した「火車切」は藤嶋友重の作であると書かれており、上杉家伝来「銘 相模国住人広光」の脇指(火車切広光)とは別物である。

 松平近正

  • 松平近正は、大給松平家の祖である松平乗元の家系。三河松平氏の3代当主松平信光は、大給城を攻略して三男の親忠に与えた。この親忠の次男が乗元で、さらにその次男親清の子が松平近正となる。
    松平信光─┬守家──守親(竹谷松平)
         ├昌龍
         ├親忠─┬親長(岩津松平家・宗家)
         ├与副 │
         └光重 │(大給松平家)
             ├乗元─┬乗正
             │   ├親清──近正──一生──成重
             │   └乗次(宮石松平家)
             │
             │(安城松平家→宗家)
             └長親──信忠──清康──広忠──元康(家康)
    
    
  • 松平近正は、慶長5年(1600年)家康が会津上杉討伐に向かう際に伏見城留守居の一人となり、迫り来る西軍の中、三の丸に籠もる。最期は守将鳥居元忠と共に討ち死にした。(伏見城の戦い)
  • 嫡子の松平一生(かずなり)の代に上野三ノ倉5500石から下野板橋1万石に加増移封されて大名となる。以降、一生系大給松平家と呼ぶ。一生系大給松平家は、板橋藩で2代藩主を務めた後に、松平成重が大坂夏の陣での功が認められ三河西尾藩2万石に転封され、さらに2万2千石で丹波亀山に加増移封、松平忠昭の代に豊後中都留、豊後高松を経て豊後府内に入り、そのまま幕末を迎えた。

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