豊臣秀吉

豊臣秀吉(とよとみひでよし)  

木下藤吉郎
羽柴秀吉
筑前守、従五位下・左近衛少将
従四位下・参議
従三位・権大納言
正二位・内大臣
従一位・関白、太政大臣
太閤、豊太閤、猿、禿げ鼠
豊国大明神

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生涯  

  • 天正元年(1573)ごろ羽柴秀吉を名乗る。
  • 天正13年(1585)7月に近衛前久の猶子として従一位、関白宣下。
  • 天正14年(1586)9月9日には豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣宣下。
  • 天正19年(1591年)に後継者の鶴松が病死し、甥秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤を称する。
  • 文禄元年(1592)4月12日文禄の役、慶長2年(1597)2月慶長の役。
  • 慶長3年(1598)8月18日薨去

所蔵品  

太閤御物刀絵図  

  • これら所蔵刀の目録がいくつか作られている。
    • 文禄三年(1594)六月十四日:毛利輝元の求めに応じたもの
    • 文禄四年(1595)五月十二日:宛名なし
    • 元和元年十二月(埋忠寿斎写)
  • 太閤御物刀絵図参照

形見分け  

  • 慶長三年(1598)8月の歿後、所蔵刀や名物茶器について、諸大名への形見分けが行われた。百六十余振(166口)が贈られたという。

    秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚如帳面写之


名物茶器  

  • 秀吉が名物茶器を手にしたのは、天正4年(1576年)7月の安土普請の功により牧谿の「洞庭秋月」の絵を拝領したのが始まりとされる。12月には但馬・播磨攻めを賞して「乙御前釜」を拝領する。茶会を許され、この2つの茶器ではじめて茶会を開いたのが天正6年(1578年)10月である。
  • その後、天正9年(1581年)には鳥取攻略の功により但馬の金山とともに8種類の茶器を与えられたという。この時の感動を、のち天正10年10月に「今生後生に有難く忘れ難く存じ候」と書き送っている。
  • 本能寺の変ののち、天正13年(1585年)ごろまでに信長名物(安土名物とも)を集め、これは後に太閤御物と呼ばれるコレクションの4割を占めたという。天正11年(1583年)9月には大坂城でこの自慢の茶器の披露を行っている。
  • 天正13年(1585年)3月には大徳寺で茶会を開き、このときには堺や京の茶人150人アマリを招き名物茶器を披露したという。
  • 天正15年(1587年)には秋月種実から「楢柴肩衝」を献上させたことにより、「初花肩衝」「新田肩衝」とともに、かつて東山御物であった「天下三肩衝」を一手に納めた。
  • 信長が、当時すでに「侘び」が取り入れられ始めていた茶堂の流れに逆らう形で唐物名物を蒐集するのに腐心したのに対して、一方で金ずくめのド派手で豪華絢爛な趣味を持ちながらも、千利休の影響を受けこの茶堂の流行である「侘び」の追求をも行った点が注目されている。これは大坂城内の山里曲輪などにも現れている。
  • 信長が唐物名物を中心に集めたのに対して、秀吉は東山名物、信長名物に加え、ルソン壺を愛好して蒐集させたほか、備前焼、瀬戸焼などの和物なども蒐集している。こうして秀吉が蒐集した名物茶器は、327点に上った。




豊臣家御腰物帳(太閤家之御腰物之控)  






直系子孫  

  • 秀吉が妻との間にもうけた子供とその系統
    南殿──石松丸秀勝(夭折)
    
    淀殿─┬棄丸(鶴松、夭折)
       │
       │  和期の方
       │   ├──国松(六条河原で斬首)
       └秀頼(拾丸)
           ├──天秀尼(千姫養女)
          小石の方

南殿  

  • 詳細は不明だが、長浜城主時代に南殿と呼ばれる女性との間に子を成したとされる。

羽柴秀勝  

石松丸(いしまつまる)
石松丸秀勝
6歳で夭折

※秀吉は、この初めての子につけた「秀勝」という名前を他に2名の人物に与えている。ひとりは織田信長の四男(於次丸、於次秀勝)で、もう一人は三好吉房の次男(小吉、小吉秀勝)である。
このうち、於次秀勝は内藤元種の娘(毛利輝元の養女)と婚約するが子を残さずに病没。小吉秀勝は浅井長政娘(お江)との間に完子を残し、この系統がのちのちまで続いている。

淀殿(茶々)  

  • 諸説あるが、淀殿(浅野長政子、母は信長妹お市の方)との間に「鶴松」、「秀頼」の2人の子を設けた。

鶴松  

棄丸(すてまる)
生来病弱で、数え年3つで死去

秀頼  

拾丸(おひろい)

  • 子供
  1. 国松:母は和期の方(名は伊茶。渡辺五兵衛娘)。大坂城落城後に六条河原で斬首。
  2. 天秀尼:俗名は不明だが、千代姫または奈阿姫ともされる。母は小石の方(おいわのかた。成田助直娘)。大坂城落城後に千姫の養女。後に鎌倉東慶寺に入れられ天秀尼と称す。

※なお鶴松、秀頼の2人ともに大野治長を父とする説が優勢である。天秀尼は兄と同腹という資料もあり、天秀尼の母が不詳である。

母系子孫  

  • 秀吉の兄妹の子供とその系統
    とも─┬─秀次─┬仙千代丸(三条河原で処刑)
       │    ├百丸
       │    ├十丸
       │    ├土丸
       │    ├露月院誓槿大童女
       │    ├お菊 (大坂夏の陣後、紀伊南の河原で処刑)
       │    ├不明 (梅小路家に嫁ぐ)
       │    └隆清院(真田信繁の側室)
       │
       │
       │ 徳川秀忠
       │  ├─┬千姫(秀頼室)、珠姫(前田利常室)、勝姫(松平忠直室)、初姫(京極忠高室)
       │  │ └徳川家光、徳川忠長、徳川和子(後水尾天皇中宮)
       │  │
       │  │  九条幸家  ┌二条康道(二条家第16代当主)
       │ お江   ├────├九条道房(九条家第19代当主)
       │  ├──豊臣完子  ├序君  (東本願寺宣如光従室)
       ├─秀勝        ├通君  (西本願寺良如光円室)
       │           ├松殿道基(松殿家第12代当主)
       │           ├栄厳  (東大寺別当、随心院住持、大僧正)
       │           └日怡  (瑞龍寺2世)
       └─秀保(享年17)
          │
    豊臣秀長─おきく

日秀(とも)  

日秀尼
父は木下弥右衛門、母は大政所。秀吉姉。
弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、1568年(永禄11年)に秀次、1569年(永禄12年)に秀勝、1579年(天正7年)に秀保を産む。

秀次  

父は三好吉房、母は日秀尼
秀吉養子、殺生関白。
幼名治兵衛(じへえ)、通称孫七郎(まごしちろう)。
秀吉の命により阿波の三好康長に養子入りして三好信吉(みよし のぶよし)と名乗るが、後に羽柴秀次と名乗り天正19年には関白、豊臣氏の氏長者。
文禄2年(1593年)に秀頼が生まれたことにより秀吉から疎まれ、文禄4年(1595年)7月に高野山に追放、青巌寺にて切腹。

  • 子供
  1. 仙千代丸:仙千代丸(せんちよまる)。母は尾張衆日比野下野守娘 於和子。他の秀次の一族とともに三条河原で処刑
  2. 百丸:母は山口少雲娘 お辰の方
  3. 十丸:母は北野松梅院娘 阿左古の方
  4. 土丸:竹中重定(貞右衛門)娘 お長の方
  5. 露月院誓槿大童女:母は毫摂寺善助娘 お亀の方(中納言局)
  6. お菊:淡輪隆重娘(淡輪重政の姪) 小督局。祖父の弟の子供である後藤興義に預けられた。成人した菊は、元和元年(1615年)4月20日に紀伊国の代官である山口安弘/山口安弘喜内の嫡男、山口朝安/山口朝安兵内の元に嫁いだ。大坂夏の陣、樫井川の合戦において夫の朝安が討ち死にし、お菊も紀伊南の河原で処刑。
  7. 隆清院:真田信繁の側室


秀勝  

父は三好吉房、母は日秀尼
幼名小吉
隻眼であったとされる
秀吉養子
羽柴秀勝(織田信長四男、秀吉養子)死後、丹波国亀山城主となり「丹波少将」と呼ばれる。
文禄元年(1592年)、従四位下参議に任じられ、「岐阜宰相」。
文禄の役に九番隊の大将として外征するが、朝鮮国の巨済島にて病死。
正室のお江(浅野長政娘、母はお市の方。小吉秀勝死後に徳川秀忠に嫁す)との間に完子を残す。

  • 豊臣完子

    父は豊臣秀勝(小吉秀勝)、母お江
    豊臣完子(とよとみさだこ)
    文禄4年(1595年)に母の江が徳川秀忠と再々婚したため、淀殿に引き取られ養われる。
    慶長9年(1604年)九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。
    慶長13年(1608年)に忠栄が関白に任官し、完子は北政所となる。
    九条忠栄との間に7人の子を残している。
    母のお江が徳川秀忠に嫁したため異父弟妹に千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、徳川忠長、徳川和子がいる。

  1. 長男・二条康道:慶長12年(1607年) - 寛文6年(1666年)。二条家第16代当主
  2. 次男・九条道房:慶長14年(1609年) - 正保4年(1647年)。九条家第19代当主
  3. 長女・序君(生没年不詳):東本願寺宣如光従室。琢如らの母
  4. 次女・通君:慶長18年(1613年) - 寛永9年(1632年)。西本願寺良如光円室
  5. 三男・松殿道基:慶長20年(1615年) - 正保3年(1646年)。松殿家第12代当主
  6. 四男・栄厳:元和8年(1622年) - 寛文4年(1664年)。東大寺別当、随心院住持、大僧正
  7. 三女・日怡:寛永2年(1625年) - 寛文4年(1664年)。瑞龍寺2世


ねね(高台院)経由の系図  

                         ┌─木下勝俊(長嘯子)
  杉原家利──┬─杉原家次───┬─杉原長房  ├─木下利房(足守藩2代藩主)
        │        └─おあこ   ├─木下延俊(豊後日出藩初代藩主)
        ├─朝日殿こひ     ├────┴─小早川秀秋(秀俊)
        │  ├─────┬─木下家定(足守藩初代藩主)
        │ 杉原定利   ├─────────やや
        └─七曲殿ふく  └─ねね(北政所)  ├───┬浅野幸長(初代和歌山藩主)
           ┝━━━━━━━━│━━━━━━浅野長政 ├浅野長晟(2代和歌山藩主)
         ┌浅野長勝      │           ├浅野長重(笠間藩主)
         └姉──浅野長政   │           ├豊姫(杉原長房室)
木下弥右衛門              │           └智相院(松平定綱室)
 ├────┬───────────豊臣秀吉
なか    └─日秀        ┌─豊臣秀次(関白)
 │       ├────────┼─豊臣秀勝
 │      三好吉房      │  ├───豊臣完子(九条幸家室)
 │                │ お江(のち徳川秀忠室)
 │                └─豊臣秀保(豊臣秀長養子)
 ├────────────────豊臣秀長
竹阿弥




エピソード  

豊臣氏と羽柴氏  

木下氏(苗字)  

  • 秀吉ははじめ「木下」を名乗っていた。
  • もっともこれは、妻ねねの兄杉原家定が母方の名字「木下」に改称したのを借りたものであるともいわれる。永禄8年(1565年)11月2日付文書で、「木下藤吉郎秀吉」の署名があるのが初出とされる。
  • 木下氏を最後に使った時期については諸説あったが、近年(2015年7月)に元亀4年(1573年)5月24日付文書が見つかっている。

羽柴氏(苗字)  

  • 羽柴氏を使ったのは、これ以降7月20日の間とされる。元亀4年(1573年)7月20日付文書で「羽柴藤吉郎秀吉」と署名する。

    其比信長の心に叶ひのゝしる柴田修理亮勝家。丹羽越前守長秀とかやいひしかば。其人の名字を一字づつたまはらんとて。丹羽の羽に柴田の柴をそへ。羽柴筑前守と改給しとなり。

  • 親族以外に羽柴氏を与え始めたのは天正10年(1582年)頃からとなっている。

平氏(本姓)  

  • この頃は本姓として「平氏」を名乗っていた。これは主君である織田信長(平氏)の本姓を倣ったものとされる。その期間は、天正11年(1583年)の項に「参議従四位下」としてはじめて記載されてから、関白になる直前の天正13年(1585年)に「内大臣正二位」に叙任されるまでとなっている。

藤原氏(本姓)  

  • 天正13年(1585年)7月11日、関白に就任するにあたり、前関白近衛前久の猶子となり、本姓を平氏から藤原氏に改めている。

豊臣氏(本姓)  

  • 「押小路家文書」では、「豊臣氏」を朝廷より下賜され名乗ったのは天正13年(1585年)9月9日付(宣旨)。
    ただし「公卿補任」では天正14年の項に月日不詳として書かれている。公卿補任で「豊秀吉」となるのは天正15年(1587年)からである。実際に改姓したのは太政大臣就任時ともされている。
  • 続いて後陽成天皇の即位に合わせ、天正14年(1586年)12月には太政大臣に昇進する。
  • 天正19年(1591年)に鶴松が病死すると、甥の秀次(内大臣)を養子として関白の地位を譲り、自分は太政大臣在任のまま太閤殿下として実権を保持し続けた。
  • 秀吉の死後も秀頼没時まで豊臣姓の使用は続いている。大名においても、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が「豊臣朝臣輝政」として右近衛権少将に任じられている。また土佐守に任官された山内一豊も「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。さらに加藤清正が主計頭から肥後守へ改めているがこの時は「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。
  • その後も、池田利隆(輝政の長男輝直)、加藤忠正(清正の次男清孝)、福島忠勝(正則の次男忠清)なども豊臣氏として任官を受けている。
  • 大坂の役で秀頼滅亡後、福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。
  • 秀吉の正妻高台院の兄弟たち及びその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。木下利次(ねねの実兄木下家定の次男)は、高台院の養子となり豊臣の社稷を相続することが許されている。

赤影  

  • この豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃に、琵琶湖の南に金目教という宗教が流行っており、飛騨の里から赤影、白影、青影の三人の忍者を呼び寄せる。
  • これが往年の特撮TV番組「仮面の忍者 赤影」である。