埋忠
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埋忠(うめただ)
京都西陣に住した金工家の系統
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埋忠
- 文政年間に出版された「刀剣鑑定歌伝附録」には次のように記載される。
梅多田と申すは皇城東北の郷即ち宗近の領知なり。仍而宗近苗字となす。又三条東洞院と烏丸との間は、今に梅忠町と云う。更に埋忠の文字の事は、梅多田の曠野の方辺に水溜池あり。この池を埋めんがために浮人形を拵えて池に放ち、従来の旅人礫を投ぐ。年月を経て平地となる。御代の皇帝称光院の天聴に達し、叡感あり。中納言豊光卿、烏丸家御館に召出され、勅定 依工深成平地。以忠埋梅多田、埋忠と可改。波之丸の紋を相添下さる。時に応永廿三丙申年、是れ宗近十九代の孫彦之進橘重宗時代也。
- 平安京の東北に「梅多田」という地があり、そこを宗近が領し、苗字としたという。また三条東洞院と烏丸との間を「梅忠町」と呼んだという。さらにこの梅多田のあたりに池があり、称光天皇のころ烏丸豊光(日野資康の三男、権中納言)が召しだされ、埋め立てたために以後「埋忠」と改めたという。これが応永23年(1416年)のことだという。
西陣住
- 「西陣住」と彫るように、後年住地を移している。これは宗近24世の孫、埋忠重隆(明寿の父)のことを指していると思われる。
三条より西陣へ移る事は、元亀元歳庚午二年十五日なり。即ち宗近廿四代の孫彦左衛門橘宗隆の代也
「梅忠」
- 江戸時代に入ると、「埋忠」ではなく「梅忠」、または梅花紋に「忠」字を彫るようになる。
猶梅忠と書く事は京都所司代板倉周防守殿、関東下向の節、一品を献ぜらる。即透し鍔なり。埋忠は文字武家の忌言なり。向後梅忠と改む可き旨仰せ渡さる。此時宗近廿八代の孫橘宗之の代也。
- つまり28代の時、京都所司代板倉周防守の命により、埋めるの文字が忌み嫌われるため梅へと改めたという。
18代:埋忠重義
- 足利義満に仕える
- 鍔を鍛え、埋忠家における鍔鍛えの元祖となる
- のち重吉と改名するが、銘は代々「重義」と切った
19代:埋忠重宗
- 18代の子
24代:埋忠重隆
- 彦次郎、入道明欽。
- 足利義晴、義輝、義昭、信長に仕える。
- 子の彦次郎(明寿)とその兄と共に槇島城に籠城した足利義昭に従うが、長男が病死した後、彦次郎とともに城を脱出する。
25代:埋忠明寿
- 重吉。埋忠彦左衛門重隆の次男。三条宗近25代の孫ともいう。
- 晩年入道して鶴峰明寿と号す。
- 本能寺の変の後、秀吉から知行を与えられ、秀次や黒田、鍋島、吉川、藤堂など諸大名の御用や本阿弥家からの金工注文を請けるなど刀剣界の元締めのような存在となる。
- 金工(装剣具)において不動の地位を占めるが、鍛刀の製作においても新刀以降の鍛刀法である水挫(みずへ)し法を創始し、新刀の祖と仰がれる
- 家督は弟の家隆に譲り、家隆が江戸に召されたが明寿は京都に残り、寛永8年(1631年)5月18日没した。74歳
- 詳細・著名作については埋忠明寿の項参照。
- 25代明寿以降の系図(諸説あり)
明欽───┬彦五郎重政(病死) 彦左衛門│ 重隆 │ │ ├明寿 │ 彦次郎・重吉・宗吉 │ │ └明真────寿斎────明甫────┬与三左 彦市 重長 与三左 └市兵衛 彦一 明榮 与三左衛門 重義
26代:埋忠家隆
- 重吉明寿の弟
- 彦左衛門、法名明真。法橋に叙せられる。
- 明寿の子重吉の早世につき、兄の後を継ぐ。慶長6年(1601年)9月23日徳川秀忠が伏見から江戸に変えるため挨拶にまかり出たところ、江戸下向を命じられ扶持と屋敷を拝領し江戸に定住することになった。
- 銘 重義
- 関東御扶持人
- 関係刀剣
27代:埋忠重長(寿斎)
- 家隆の子で、埋忠明寿の甥。
- 通称彦右衛門。
- 刀銘重長
- 慶長2年(1597年)脇差五腰を打ったが、病身のため刀の磨上や拵えの金具作りに転向した。
- 埋忠家に来た刀の絵図を取り、「埋忠銘鑑」を世に出した。多数書写されており、「埋忠押形集」などとも呼ばれる。
- 江戸幕府の扶持を受けていたが、将軍家光の時病身につき返上している。
- 寛永20年(1643年)以降に死去。
- 「埋忠寿斎」
28代:埋忠宗之(明甫?)
- 宗之、宗重。七左衛門。彦左衛門尉。
- 明寿の次男。
29代:埋忠宗茂
- 七左衛門、数馬助宗義同人か?鍔の妙手。
30代:埋忠重幸
- 儀左衛門。鍔を能くする。寛保頃。
江戸以降
- 寛永~正保~慶安年中には江戸に下向して仕事をしていたことがわかるが、それ以降、金工の仕事は徐々に幕府の抱え工となった吉岡家に移っていったと見られている。
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