大三原


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Table of Contents

 大三原(おおみはら)

太刀
金象嵌銘 大三原 二ツ筒 浅野紀伊守拝領 本阿弥光徳(花押)
名物 大三原
長2尺6寸7分(80.9cm)、反り八分六厘(2.6cm)
重要文化財
東京国立博物館所蔵

  • 享保名物帳所載

    大三原 象嵌銘長二尺六寸六分 代金二十枚 松平安芸守殿
    寸長き故名付、中心表に本阿弥光徳判、裏に大三原二つ胴、浅野紀伊守拝領と象嵌なり

  • 鎬造り、庵棟、中鋒。
  • 佩表に大三原云々、裏に光徳花押の金象嵌がある。
  • 備後三原派、古三原とのみ伝わってきたが、重要文化財指定の際に正広(正廣)として極められた。
  • 目釘孔2個
  • 享保名物帳で取り上げられた三原物は、この「大三原」のみとなっている。
  • なお「二ツ筒」とは二ツ胴のことを指している。

 由来

  • 享保名物帳には次のように書かれている。

    寸長き故名付く

  • つまり80cmを超える大きな刀であり、「大三原」と呼ばれた。

 来歴

 秀吉→浅野幸長

  • 秀吉の逝去後49日を経た慶長3年(1598年)12月下旬、伏見の前田利家邸に諸大名が集められ、盛大に形見の刀分けが行われた。
  • この太刀はその席で浅野紀伊守幸長が賜ったと伝えられている。

    浅野左京大夫 大三原
    秀吉公御遺物

  • 浅野幸長は、慶長6年(1601年)に従四位下・紀伊守に叙任されている。それ以後に本阿弥光徳埋忠寿斎に命じて「大三原 二ツ胴 浅野紀伊守所持 本阿弥光徳(花押)」と金象嵌を入れさせている。
  • 代付けは通常二十枚とされるが、無代、または二十五枚とする異説がある。長についても、一部に二尺六寸三分とするものがある。

 浅野家代々

  • 昭和15年(1940年)の名宝日本刀展覧会出展。

    刀 金象嵌銘 大三原 二つ筒浅野紀伊守拝領 本阿彌光徳(花押)
    名物大三原 東京 侯爵 浅野長之
     長さ二尺六寸七分二厘 反り八分六厘 元幅一寸一分
     
    上記のごとくに本阿彌光徳が大三原と名附けてゐるが、蓋し古三原の作と鑑せられ、浅野紀伊守幸長が豊臣秀吉より授けられしところ、享保名物帳所載の三原は此の一口のみである。

  • 戦後まで浅野家に伝来、浅野長之侯爵所持。
    元治元年(1864年)広島新田藩の第7代(最後)の藩主浅野長厚九男として生まれ、のちに従兄弟・浅野長勲(広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代藩主)の養子となる。養父・長勲の死去に伴い、昭和12年(1937年)3月1日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員となる。昭和15年(1940年)12月20日に隠居し、家督を長男・長武が継承した。昭和22年(1947年)4月23日死去。
     なお長男の浅野長武氏は重要美術品等調査委員会会長、正倉院評議員、国立近代美術館評議員、国立西洋美術館評議員なども務め、昭和26年(1951年)に東京国立博物館長に就任している。
  • 昭和30年(1955年)6月22日重要文化財指定。
  • 昭和55年(1980年)の「国宝重要文化財総合目録」では、浅野長愛氏蔵(浅野長武旧蔵)。
    平成19年(2007年)時点では個人蔵。浅野長武氏の長男浅野長愛氏が2007年1月6日に亡くなられているため、恐らくその後に遺族より寄贈されたものではないかと思われる。

 東博




 細川家の大三原

脇差
大磨上無銘
刃長一尺九寸程
出水神社所蔵(熊本県立美術館寄託)

  • ※上記、浅野家伝来(東博所蔵)の大三原(太刀)とは別の脇差。

 来歴

 細川幽斎→細川三斎

  • 細川幽斎、細川忠興(三斎)所持

    幽斎君より御譲り

  • 三斎はこの脇差を殊の外気に入り、嫡子忠利が所望するも譲らなかった。

 細川忠利

  • 将軍秀忠のお供をして浅草に水浴びに行った時にも、これを指していっている。秀忠は大三原を忠利が所望していることを知っていたため、三斎が水浴びしている間に「余がもらって遣す」といって大三原を取り上げ、細川忠利に与えてしまった。

    大三原之御脇差は藤孝公より忠興公へ御譲被遊候、殊の外御秘蔵成候を忠利公荐りに御所望被成候得共、不被進候、此段臺徳院様(秀忠)御耳にも立候然處に臺徳院様浅草川にて水を御浴被遊候時、忠興公も此脇差を傍に指置川へ御被成候しかば、臺徳院様此脇差を被成御取忠利公へ被仰候は内々其方望の脇差を我等取次にて遣候間、忠興公も異議在間敷とて被遣候

細川幽斎─┬細川忠興─┬細川忠隆(長岡休無)──長岡忠春──長岡忠重(忠季)──長岡忠英【細川(長岡)内膳家】
     │     ├細川興秋(→細川興元養子)
     │     ├細川忠利[熊本藩初代藩主]──細川光尚[2代]
     │     ├細川立孝──細川行孝[宇土藩初代藩主]──細川有孝[2代]
     │     ├細川興孝【細川刑部家】
     │     └松井寄之(→松井興長養子)
     │
     ├細川興元[常陸谷田部藩初代藩主]─┰興昌[2代]──興隆[3代]
     ├伊也(一色義定のち吉田兼治室)  ┗興秋
     ├細川幸隆[豊前竜王城主]
     └細川孝之(細川休斎)[豊前香春城主]

 細川立孝

  • 細川忠利(豊前小倉藩の第2代藩主、肥後熊本藩初代藩主)は、のちにこれを弟の立孝に譲っている。

    其後忠利公より立孝公へ被進候

 細川光尚

  • 寛永20年(1643年)正月8日、忠利の嫡子である細川光尚(肥後熊本藩の第2代藩主、熊本藩細川家3代)に子供(綱利。第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代)が生まれると、立孝は祝いとしてこれを細川光尚に贈っている。

    寛永二十年正月八日御曾孫御六様(六丸綱利)御誕生、此時自立孝公爲御祝儀大三原之御脇差を被進候

 細川行孝

  • 慶安2年(1649年)12月26日、光尚が31歳で若死にすると、その遺物として立孝の嗣子行孝に贈られた。行孝は肥後宇土藩主であり、以降同家に伝来した。

    其を今度の御嘉儀に被進候しを肥後様(光尚)御取被成候ひしが肥後様御遺物に行孝公へ御被進候、御代々あなたこなたへ御相傳被成、名覺の御脇差也

    つまり肥後細川家の宗家(肥後熊本藩主家)と、分家である宇土藩主家の間を往復した後、宇土藩主家に伝わったということになる。のち宗家は7代藩主細川治年で絶えてしまい、宇土藩主家の細川立禮が宗家を継ぎ8代藩主細川斉茲となった。現在、本刀を出水神社が所蔵しているということは、その際に宗家に戻ったのか、あるいは明治11年(1878年)の出水神社創建時に納められたのではないかと思われるが、詳細は不明。

  • 現存

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