細川正宗


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 細川正宗(ほそかわまさむね)

短刀
無銘 正宗
(太閤御物 号 細川正宗)
個人所蔵

  • 光徳刀絵図

    行光 八寸二分 家康進上

  • 平造り、筍反り。
  • 表裏に刀樋
  • 中心うぶ、目釘孔2個、無銘。
    • ※目釘穴が3つ開けられており、下の2つがつながっている
Table of Contents

 由来

  • 細川越中守所持にちなむ。

 来歴

  • 来歴が飛び飛びにしかわかっていない。
    そもそも無銘で、かつ多くの来歴は号でしか伝わっていないため、同物ではない可能性もある。

 家康→秀吉

  • もとは家康が秀吉に献上したもので、この時には本阿弥光徳行光と極めていた。

    行光 八寸二分 家康進上

    家康公御進上行光 八寸弐分

 将軍家→仙千代丸

  • いつごろか将軍家に伝わっており、寛永9年(1632年)1月の秀忠の薨去時に「越後仙千代丸」へと形見分けされている。これは越後高田藩主であった松平光長のことと思われる。しかし「徳川諸家系譜」によれば、この時光長は「宗瑞正宗」を拝領している。

      御遺物の次第
    一、細川正宗御腰物 越後仙千代丸

 細川越中守家

  • のち細川越中守家に伝わる。
  • 元禄14年(1701年)に本阿弥光忠正宗と極め、金三百枚の折紙をつけている。
    細川の号は、細川越中守所持にちなむという。しかしわかっている範囲の来歴では、この時にはじめて細川越中守家所蔵となるが、すでに上記秀忠薨去時には「細川正宗」と記され矛盾している。これより前に細川家にあった可能性が考えられるが、それを示す来歴は不明。

 松平頼貞(奥州守山藩)

  • 正徳2年(1712年)6月、細川家から、この正宗粟田口国安の刀、左安吉の短刀および伽羅を、千四百七十両で水戸徳川家分家の奥州守山藩主松平頼貞が購入している。
    松平頼貞(まつだいら よりさだ)
    松平頼貞は額田藩の初代藩主松平頼元の長男で、水戸徳川家初代の徳川頼房の孫にあたる人物。母は小笠原忠真の娘・嘉禰(兼姫)。この母方を辿ると、信長の娘と松平信康の間に生まれた姉妹が現れる。外祖父小笠原忠真の名をもらい大学と名乗ったという。
     寛文12年(1672年)将軍家綱に初お目見え。延宝4年(1676年)12月26日に従四位下・大学頭に叙任さる。元禄2年(1689年)12月25日に蜂須賀隆重の次女を娶る。元禄6年(1693年)4月父頼元の死去に伴い家督相続し額田藩2代藩主、同年12月侍従に進む。元禄13年(1700年)9月に陸奥守山に移封され、守山藩初代藩主となる。ただし江戸定府。元文5年(1740年)12月21日左近衛少将に進む。寛保3年(1743年)10月25日致仕。延享元年(1744年)8月3日卒。享年80。
     頼貞は武技を嗜み、弓馬剣槍を極める。中でも居合術新田宮流は別流を興し直指流と称した。さらに歴史的経緯で仲違いしていた黒田・細川両家の間を取り持ち、和睦させている。
     松平頼貞は子に恵まれ、六男の頼恭が高松松平家を、七男の頼済が府中松平家を、五男の定賢が親藩久松松平家をそれぞれ継いでいる。
           本多忠政         池田綱政の娘
             ├──┬忠刻(早世)   ├──本多忠孝
           ┌熊姫  ├政朝──政長━━忠国
    松平信康   │    │
      ├────┤    │ 徳川頼房┬松平頼重[讃岐高松藩初代]
    徳姫(信長娘)│    │     ├徳川光圀[水戸2代]
           │    │     └松平頼元
           └登久姫 └亀姫     ├──┬松平頼貞[陸奥守山藩水戸松平家]
            │     ├────嘉禰  └忠国(本多政長養子)
            ├───小笠原忠真
         小笠原秀政

 藤井松平家(信州上田藩)

  • 経緯は不明だが、遅くとも江戸末には信州上田藩主家である藤井松平家に伝わっていた。
    藤井松平家は、松平氏5代当主の三男松平長親を祖とする松平氏の庶流。この藤井松平家の分かれである松平伊賀守家は、駿河田中藩、遠江掛川藩、丹波亀山藩、武蔵岩国藩、但馬出石藩を経て信州上田藩5万8千石で幕末まで存続している。
  • 大正初年も、松平子爵家に伝わっていた。

    相模國正宗(號 細川) 松平子爵家(舊上田藩)蔵
    長さ八寸一分半、平造り筍反にして品位高く身巾細く重ね少しく厚し、表裏棒樋。
    生中心、無銘、目釘孔二つ中心先細し。
    元禄拾四已年、三百枚折紙あり。

    当時は、信濃上田藩の7代藩主松平忠礼の養子であった松平忠正の所持だと思われる。

  • 現存

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