北野大茶湯
北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)
- 豊臣秀吉が天正15年(1587年)に北野天満宮境内で行った大茶会。
- きたのだいちゃのゆ、北野大茶会(きたのだいさのえ)
概要
- 天正15年(1587年)10月1日、秀吉は京都北野天満宮において、大茶会を催した。
北野大茶湯の開催年については、天正15年説と天正13年説、天正16年説などがある。13年説は「甫庵太閤記」によるもので、15年説は「宗湛日記」、「兼見卿記」、「多聞院日記」による。16年説は主に「武徳編年集成」、「豊鏡」、「豊臣譜」、「絵本太閤記」などの秀吉関係の書に多い。公家日記類の記載により、現在は天正15年(1587年)10月の開催であったことがわかっている。
- 秀吉秘蔵の名物茶器が神社拝殿に並べて展示され、拝殿中央には黄金の茶室、その左右に名物茶器が並べられた。
- 拝殿の前には四畳半の茶室四席が用意され、それぞれ秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久が茶頭役を務めた。
北野大茶湯の謎
- この北野大茶湯には次のような点の謎が指摘されている。
- 【開催日数】:最初10日間実施されるという告知であったが、1日のみで終了した。
- 【参加者】:四席の茶頭のお点前を受けるために「くじ」をひかせたが、そのくじを引いた人数が803人であったと記される。
開催日数
- 当初この大茶会は10日間開催される予定であったとされる。
北野の森において、十月朔日より十日の間に天気次第、大茶湯御沙汰なさるるに付き、御名物共残らず御揃えなされ、執心の者に拝見させらるべきために御催し成され候事
(北野大茶湯之記)
- また博多商人の神屋宗湛もこの茶会に招待されており、秀吉に指定された9月17日に出立したが遅れたために出席し損ねている。
北野において大茶湯成され候の間、宗湛、罷り上るべきの由、御朱印成られ候、宗及老御取次にて飛脚到来し候事、九月十七日、しからば九州よりは、ただ宗湛一人までに候ほどに、急度参上すべきの通り、御状参り候に付き、罷り登るなり
- これが一日で終わった理由としては、肥後で起こった肥後国人一揆によるともされる。九州征伐の後、肥後は佐々成政に与えられ、天正15年(1587年)6月6日に隈本城へ入城するが肥後国人はこれに従わず一揆を起こしている。
京都茶の湯、去る朔日の分にて止め終わんぬ、即ち各々下向すと云々、何とぞ仕合の逸れたる事これ在るかと申す、西国にて、佐々蔵之介は一円果てたるかと云々、嘘か
(多聞院日記 十月四日条)
唐入りの際の兵站地と位置づけていた秀吉は、事態を重く見てさらに九州四国の大名を総動員し、12月までに小早川秀包を一揆討伐の総大将として出陣させた。九州、四国の諸大名が参陣、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を包囲。激戦の末に田中城を攻略して一揆を鎮圧した。
- ただし一日で終わったのは当日に決まったことではなく、すでに9月中旬には一日だけと変更されていた可能性が指摘されている。
十月朔日の早天より北野の松原にて
御茶湯御沙汰あるべく候旨、一昨日より
仰せ出され候、堺衆一所にかこい至すべきの通りに候
(略)
来たる二十二、三日ころ、申す条々申し次がれ、
上洛然るべく候、恐々謹言
九月十五日 易(花押)
(千宗円宛利休書状)
- 北野大茶湯前後の出来事
- 【天正10年(1582年)】:本能寺の変、山崎の合戦
- 【天正11年(1583年)】:
・賤ヶ岳の合戦
・大坂城築城開始 - 【天正12年(1584年)】:
・2月21日:秀吉、信雄に「京極茄子」、井戸茶碗「筒井」、台天目を贈る
・2月24日:秀吉、信雄と茶会
・4月:小牧・長久手の戦い起こる
・11月:信雄と単独講和
・仙洞御所造営 - 【天正13年(1585年)】:
・3月5日:大徳寺大茶会
・3月10日:秀吉、紀州雑賀征伐に出陣
・6月:四国征伐
・7月:関白就任
・10月7日:禁中茶会 - 【天正14年(1586年)】:
・2月:聚楽第建設開始
・4月:東山大仏殿建設開始
・家康と和議 - 【天正15年(1587年)】:
・正月3日:大坂城茶会
・5月:九州征伐で島津降伏
・9月17日:博多の神屋宗湛宛に秀吉の書状が届く
・10月1日:北野大茶湯
参加者
- 一般にこの大茶会の参加者は803人であったとされる。
十月小一日
関白の御前において、鬮取りこれあり、茶堂は四人、鬮も四つ、一二三四鬮、一は関白、二は宗易、三は宗牛、四は宗久、予、四番目にて宗久の前において呑む、次いで退出す、道を替て罷り出づるなり、草履は懐中せしめ、退出の時履くなり、
八百三人これありと云々、午刻、御茶湯各々相済了んぬ、次で茶湯所御見物なり、申剋、公家衆の所を御覧なり、一段と御機嫌なり、予、侍従、小座敷の前庭の上に蹲踞せしめ訖んぬ、各々同前なり、御帰りし已後、端々見物せしめ畢んぬ
(兼見卿記)
- 境内から松原にかけて、800から1500軒あまりの数寄屋や茶屋が建てられたという。
- また秀吉が茶会への参加を呼び掛けるために立てた高札は、京都、奈良、堺の3ヶ所であったとされる。
洛の上下、奈良、堺にも立ち置かれしかば、侘ずきの面々、これは目出たき御代にあうて、価貴き道具をも拝見し、又侘ずきの名誉をも達せんと悦ぶも有り、洛中の数寄者は名をも取り、秀吉公の御感にも預かり、堺の数寄者共を一あて当て、常々の名人顔を汚さんと巧み侍るもあり
- この大茶湯は同天正15年(1587年)5月に島津家が降伏したことで終了した九州征伐の戦勝記念として行われた側面が強いとされる。
- さらにこの時点では、小田原の後北条氏を始めとして、伊達氏、最上氏、佐竹氏、芦名氏などが残っており、天下統一はまだなっていない状態であった。
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