千鳥一文字


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 千鳥一文字(ちどりいちもんじ)


銘 一
2尺1寸5分

  • 享保名物帳所載

    千鳥一文字 在銘長二尺一寸五分 所在不明

    • 一尺一寸四分、一尺一寸五分など。
  • 鋩子はすぐ、わずかに返る。中心は磨上、中心先は切り。
  • 目釘孔ははじめ2個、のち3個。銘「一」

 由来

 来歴

  • 大内氏滅亡の際に、大内家五名剣として厳島神社に奉納される。
  • 毛利輝元が寺社領千石を納めるのと代わりにこれを取り出した。
  • 「秀元記」によれば毛利家より太閤秀吉に献上したという。それによれば、天正15年(1587年)の九州島津討伐の帰路、7月5日に赤間ヶ関に新たに建てた旅館に秀吉を招待しその席上で献上した。

    関戸の御泊にて輝元一献捧たてまつり、ひめをきし千鳥之太刀進上有しかば、御感有て、御腰にさし給ふ光忠の刀を輝元へ被下けり。大友(宗麟親子)は瓢箪の壷進上有。何も無双なる珍奇なり。

    三献飲んだとき輝元金造りの太刀を献じた。此刀は誰作かと尋ねられた時、隆景此は千鳥と名付け候一文字の作にて候と言上する、太閤喜んで(略)金小札紫縅胴丸の鎧を持出す、太閤輝元に向てこの鎧は今日對面の記念に参らすと言って千鳥を腰に帯てまた盃をとりあげた。輝元鎧を拝領して退き、再び前へ出ると太閤盃を輝元に差す、頂いて飲みほす時、毛利殿お肴を参るぞと傍らにあった備前光忠の刀をとって輝元に賜わる云々

    七月三日、小倉に御宿陣。(略)関戸の御泊にて、大和中納言殿、大友宗麟父子、毛利輝元、吉川、小早川、御迎に参らる。秘め置きし千鳥の太刀進上す。御腰に差し給ひし忠光の刀を、輝元へ下さる。大友は瓢箪の茶入進上す。何れも無雙の珍寶なり。四日、関戸より陸路を経て十四日大坂御歸城なり。
    (西国太平記)

    九州の帰路ではなく往路での献上であるとも言う。その場合、赤間着の3月25日以降数日の間ということになる。


  • しかし、毛利家から献上された千鳥一文字は、享保名物帳のころには所在がわからなくなっている。




 島津家伝「鵆一文字(ちどりいちもんじ)」

太刀
片山一文字作
鵆一文字

  • 上記大友五名剣の千鳥一文字とは別に、島津義弘が朝鮮の役で「鵆一文字」にて明将を斬ったと伝わる言い伝えもある。

    ときに敵陣より兩三人戈を取、衆に抽てむかふものあり。家久馬よりをり、千鳥一文字の小太刀を提て、彼が戈をきりおり、たゞちに其首をとる。よの家數十人の敵を討取、をのれも創をかうぶり、馬もまたきづつくといへども、士卒等にいたるまでつとめたゝかふがゆへに、不日にして明軍敗走にをよぶ。

    「鵆」は「行」の間に鳥の字。これで「ちどり」と読み、千鳥と同義。

  • それによれば、文禄の役(朝鮮出兵)で島津義弘が泗川において明軍と戦った際に敵将が鉾を揮って島津兵を叩き立てて進んできたものがあり、それを見た義弘が鵆一文字の太刀で真っ向から断ち割って斬り倒したという。
    • 慶長の役で、慶弔3年10月とも。

もしこれが厳島神社由来の千鳥一文字と同物であるとすると、天正期に毛利から秀吉に献上されたものが島津家に渡って文禄の役で使用され、さらに後慶長期には再度秀吉に献上され刀絵図に載ったという経緯になるが、島津家から献上されたという記載もなく無理があるため、別物と思われる。


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