庖丁藤四郎


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  • 同名刀が2本ある。
  1. 【尾張徳川家伝来】:7寸2分、現存。徳川美術館所蔵
  2. 【徳川将軍家伝来】:八寸六分。明暦の大火で焼失
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 庖丁藤四郎(ほうちょうとうしろう)

短刀
吉光名物 庖丁藤四郎)
7寸2分(21.8cm)
重要美術品
徳川美術館所蔵

  • 包丁藤四郎
  • 表裏に刀樋と連れ樋彫り物。差表鎺元にふくれ破れ。目釘孔3個。中心少し磨上られ尻近くに「吉光」二字銘
  • 現存刀のこちらは「御家名物」とされ、享保名物帳には載らない。
  • 鞘書

    仁二ノ弐拾六 名物庖丁吉光小脇指 銘有長七寸三分

 来歴

  • 敗死したのちに鬼と化した楠正成を切ったとされ、のち足利家の所蔵となり足利将軍家に伝わった、という。
  • その後大谷吉継が所持したという。関ヶ原で討ち死にした後、分捕られる。

    上御脇指
    形部少輔ほうてう 吉光 御道具有
    (尾張家 駿府御分物帳

  • 徳川将軍家に入るが、家康薨去後の形見分けで尾張徳川家に贈られる。

    中之御脇指 ほうてう吉光 尾州
    駿府御分物刀剣元帳

  • 以後同家に伝来。

    庖丁吉光 御分物之内
    (慶安四年卯三月御腰物帳)

  • 昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。

    短刀 銘 吉光(包丁吉光) 一口 尾張徳川黎明會

  • こちらの庖丁藤四郎は、現在徳川美術館所蔵。
    尾張家史料などでは「包丁吉光」と表記されるが、徳川美術館では「包丁藤四郎」と記す。いずれも藤四郎吉光作であることを示している。




 徳川秀忠所持「包丁藤四郎」

短刀
銘 吉光
包丁藤四郎
八寸六分

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    庖丁藤四郎 長八寸六分 無代 御物
    多賀豊後守所持去る處にて鶴の腹の中へ金筋(鐵の火箸を入れ置くと一本にあり)を入置き、庖丁を所望しける、此事を悟り此脇差にて切る、金筋共に快く切れたり。夫れ故名く、其後鳥飼宗慶所持、子息與兵衛へ傳、秀忠公へ上る、家康公へ進せらる、紀伊国殿拝領、又々上る。

  • 目釘孔2個。「吉光」二字銘。

 由来

  • 室町幕府京都侍所所司代を務めた近江国の多賀高忠は、故実にも通じた文化人でもあり料理もよくした。
  • ある日政敵から鶴の料理を依頼されるが、その男は高忠に恥をかかせようと企んで鶴の腹の中に”鉄箸”を忍ばせていた。
  • 高忠はそれを察したが、包丁藤四郎を使って鶴を鉄箸ごと断ち切ってしまい、喝采を浴びたという。

 来歴

 多賀高忠

 堺の町人→鳥飼宗慶

  • のち堺の町人所持となっていたのを鳥飼宗慶が買い取り所持。子の与兵衛宗精に伝えた。
    • この時に本阿弥光心が押形をとっている。光心は永禄2年(1559年)2月没。

 秀吉

  • のち秀吉が召し上げている。
    同様の来歴を持つ「鳥飼来国次」は、子の兵衛宗嘴から秀次へと献上されている。
  • 天正16年(1588年)の「太閤御物刀絵図」石田本から載る。
    恐らく天正年間の早い内に献上されたものと思われる。
  • 秀吉のもとにあった時に本阿弥光徳が押形を取り、さらに慶長16年(1611年)2月に埋忠寿斎が金具を作っている。

 上杉景勝

  • 文禄3年(1594年)10月、秀吉が上杉景勝邸を訪れた際に景勝が拝領する。

    今日、渡御ニ付テ殿下ヨリ御刀一腰藤四郎吉光 号包丁藤四郎御脇差一腰同作御屏風一雙濃彩松鳥圖 海北友松御小袖五十領純子五十巻
    (景勝公御年譜)

    十月廿八日御成ノ亭(略)
    秀吉入御在テ着座シ玉フ今日渡御ニ付テ殿下ヨリ御刀一腰藤四郎吉光号庖丁藤四郎御脇差一腰同作御屏風一雙濃彩色松鳥 海北友松畫御小袖五十領純子五十巻ヲ賜ル
    (藤林年表)

  • 包丁藤四郎が刀になってしまっているが、刀で包丁というのは考えにくく、仮にそのような形状の刀があったとしても贈答用としても相応しくない。同時に吉光の脇指(短刀)も贈っており、これが本刀であり御刀と脇指で誤って書き伝えられたのではないかと思われる。
  • なお、この包丁藤四郎とは別に贈与された藤四郎作の「刀」については、同日に贈られた記録がある「三本寺吉光」だと思われる。
  • 景勝は、返礼として助秀の太刀、守家の刀、来国俊の短刀を贈っている。

 秀忠・将軍家

  • のち秀忠に献上。秀忠は家康(大御所)に贈り、さらに遺物として将軍秀忠に渡る。

    上々御脇指 ほうてう 将軍様ヨリ 吉光

 紀州徳川家・将軍家

  • 秀忠はこれを紀州頼宣に与えるが、頼宣は再び将軍家に献上している。
  • 将軍家では一之箱に納め御腰物帳の6番目に記載。
  • こちらの包丁藤四郎は、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼けてしまった。


 駿府御分物刀剣元帳」での記載

  • 庖丁藤四郎は、「駿府御分物刀剣元帳」では「庖丁吉光」として上々御脇指、および中之御脇指にそれぞれ1本ずつ、計2本載っている。
  • 上々御腰物13点については江戸城の将軍家(秀忠)に贈られているため、こちらが明暦の大火で焼失した目釘孔2個で八寸六分の方になる。
  • また中之御腰物の「庖丁吉光」は「尾州」と書かれており、こちらが徳川美術館所蔵の現存刀(目釘孔3個で7寸2分のもの)となる。

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