聚楽第


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 聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)

  • 豊臣秀吉が京都内野に築かせた城郭兼邸宅。
Table of Contents

 概要

  • 古文献では「聚楽第」のほか、「聚楽亭」、「聚楽城」などとも記される。
  • 本丸を中心に、西の丸・南二の丸の2つの曲輪を持ち、堀を巡らせていた。
  • 「聚楽亭」とも呼ばれ邸宅のような印象を持つが、形態としては住居を備えた戦闘用の平城であった。のち豊臣秀次が北側に拡張して北の丸を増築している。
    なおWikipediaなど一部のサイトでは、聚楽第に天守がなかった説を展開している。しかし近年、京都大防災研究所などの共同研究チームの表面波探査により、本丸北西端に40メートル四方の天守台が削られた跡と見られる高まりが確認された。これは「聚楽古城之図」などに描かれている「天守」の位置に相当する。現在地は、グーグルマップで「聚楽第 天守の位置」と表示される地点から南西方向の、京都市上京区新白水丸町及び今新在家町の辺りとなっている。

 着工と入城

  • 前年に、従一位・関白となっていた秀吉は、天正14年(1586年)2月より京都における政庁として、聚楽第の着工を開始している。翌天正15年(1587年)2月に完成し、同年9月にはこの聚楽第へと入城した。

 二度の行幸

  • 天正16年(1588年)4月および天正20年(1592年)1月の二度、天皇の行幸を迎えている。
1度目の行幸
天正16年(1588年)4月
・聚楽第の主は秀吉
・正親町上皇と後陽成天皇を招き行ったもの
2度目の行幸
天正20年(1592年)1月
・聚楽第の主は豊臣秀次
※前年末12月27日に関白、左大臣に任じられている
・後陽成天皇を招き行ったもの

 譲位と破却

  • 天正19年(1591年)12月、秀吉は関白職を甥である秀次へと譲ると、この聚楽第も秀次の住居となる。
    秀吉は、天正15年(1587年)より聚楽第に居住開始し、秀次に関白を譲った天正20年(1592年)8月には指月伏見の隠居屋敷の建築を開始しており、1年弱の名護屋陣中より戻った翌文禄2年(1593年)にはこの伏見屋敷へと入っている。
  • 文禄4年(1595年)7月、秀吉は秀次を高野山に追放して切腹させ、同年8月に聚楽第は破却された。
    この当時、城の建造が頻繁に行われており、その建築部材は工期短縮のため古城や近辺の寺社などから調達されることもしばしばあった。古淀城の天守・櫓などは指月伏見城へと運ばれており、聚楽第についても当時建造していた指月伏見城および支城である向島城に運ばれている。その他にも、古城の部材を再利用した例は多数ある。
     なお一般に聚楽第は、秀吉により徹底的に破壊されたと認識されることが多く、様々な文献や例えばWikipediaや京都市のサイトなどもそう記述している。しかしこれは建物など上物だけのようで、寛永初年ごろまでは石垣や堀などが残っていたようである。跡地は芸能興行や野畠などに使われたがやがて中心部が市街化されていったようだ。江戸中期になってもその傾向は変わらず、幕府側にはかつての聚楽第中心部以外は多くが空地あるいは塵捨場として認識されていた。

 場所

  • 秀吉は、大内裏跡地である内野(うちの)の地に聚楽第を築いた。
    平安京大内裏は、天徳4年(960年)に焼亡した後にも度々火災と再建を繰り返し、安貞元年(1227年)以後は再建されることがなく、内裏の機能は里内裏へと移されていった。南北朝期に入ると、大内裏の地は度々戦場となっている。その後内野は、北野社(北野天満宮)の門前所領となっていた。
  • 北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通付近にあったものと推定されているが、上記共同研究チームの表面波探査によれば、さらに北および西方面の外側に外堀があり、北は元誓願寺通、西は千本通に至ったと推定されている。

 聚楽第の歴史

  • 豊臣秀吉の生涯年表における聚楽第建造~破却までの期間のうち、聚楽第に関係するものを記す。
    それ以外の事項については、秀吉の行動及び所在がわかるものを記載。
  1. 【天正14年(1586年)】
    ・2月:聚楽第着工
    ・4月21日:上京して内野の地に決める
    ・4月23日:縄張りを開始
  2. 【天正15年(1587年)】
    ・1月24日:庭園用の木石を徴収
    ・2月7日:親王公卿以下、聚楽第にて歳首を賀す
    ・7月25日:秀吉、大坂城より聚楽第に入る
    ・8月1日:公卿諸人、聚楽第で秀吉に謁見、八朔を賀す
    ・9月13日:聚楽第落成、秀吉大坂城より移徙
    ・9月16日:親王公卿ら、聚楽への移徙を慶す
    ・9月18日:数百隻の船が淀川を遡り、淀から五千人の人夫が荷駄を運び入れた
    ・11月22日:秀次、権中納言・従三位に叙任される
  3. 【天正16年(1588年)】
    ・1月25日:秀吉、聚楽亭に於て和歌会を催す
    ・2月:秀吉、淀に城を築く(古淀城)。24日に宮部宗治が近江の人夫を徴収している
    ・4月:秀次、清華に準ずる。この日、参内して献上
    ・4月14日:後陽成天皇の行幸 【聚楽行幸記】
    ・4月16日:聚楽第にて和歌御会
    ・4月17日:聚楽第にて舞楽を叡覧
    ・4月18日:還幸
    ・4月19日:秀次を従二位、北政所を従一位に叙す
    ・7月24日:毛利輝元、小早川隆景、吉川広家ら入京し、聚楽第で秀吉に謁見。秀吉は豊臣姓・羽柴氏を授ける 【輝元公上洛日記】
    ・7月30日:豊臣秀長、聚楽第で猿楽を催し、輝元、隆景らを饗応する
    ・8月1日:毛利輝元、小早川隆景、吉川広家ら、聚楽第で秀吉に謁見し、八朔を賀す
    ・8月2日:秀次、聚楽第の邸に輝元、隆景、広家らを招き饗応する
    ・8月15日:秀吉、聚楽第において、観月の宴を催す
    ・8月27日:毛利輝元ら、帰国のため聚楽第で秀吉に謁見、のち参内
    ・9月9日:朝日姫(秀吉妹)、大政所の病状を伺うため上京していたが、この日帰国
  4. 【天正17年(1589年)】
    ・1月16日:諸住持、聚楽第で秀吉に謁し歳首を賀す
    ・3月:聚楽第落書き事件
    ・5月20日:秀吉、聚楽第にて陽光院誠仁親王の第六皇子、八条宮智仁親王以下、廷臣・諸将に金銀を分かち与える

    於京都聚楽、從関白殿金銀諸大名衆へ被下、於近江中納言(秀次)屋形之御門前ヨリ東へ二町程、三通りニ並之、金銀臺ニツム、諸大夫衆三百人事赤母衣装束ニテ御使ノ使者也、稀代見物、古今不可有事也、驚耳目、
     以上金子四千九百枚
     以上銀子貳万千百枚
      都合二万六千枚歟

    ・5月22日:信雄、家康、羽柴秀長、秀次、宇喜多秀家ら参内し、太刀、馬等を献上
    ・5月28日:琉球王尚寧、島津義久及び天龍寺桃庵の仲介により上洛、安谷屋親雲上宗春らと共に聚楽第で秀吉に謁見
    ・12月10日:家康、上洛。聚楽第で秀吉に謁見。北条氏討伐について謀を行う
    11月29日駿府発ち田中に着、12月1日浜松、2日三河吉田、3日岡崎、5日岡崎を出る、9日入京
  5. 【天正18年(1590年)】
    ・1月3日:朝廷より菊亭晴季を使いにして、秀吉に太刀・馬を賜わる
    ・1月14日:朝日姫、聚楽第で死去(家康継室)
    ・1月15日:秀忠、上洛し聚楽第で秀吉に謁見 ※3日駿府発、13日入京
    ・1月21日:秀吉、秀忠に信雄の娘・小姫を娶せ、この日婚儀を行う
    織田信雄の長女で、生母は千代御前(北畠具教の娘)。信勝失脚後に秀吉養女となり北政所に養育されていたが、この日秀忠の最初の正室となった。当時6歳とされる。翌天正19年(1591年)7月9日死去。秀忠が継室・江と結婚したのは文禄4年(1595年)である。

    ・2月~7月:小田原征伐
    ・5月20日:秀吉生母の大政所、奈良より聚楽第に戻る
    ・7月~8月:秀次、奥州仕置
    ・7月13日:信雄追放、信雄旧領の尾張・北伊勢五郡を秀次に与える。近江八幡は京極高次
    ・9月23日:秀吉、聚楽亭に茶会を催す。毛利輝元、加藤清正も茶会を催す
    ・11月7日:秀吉、朝鮮正使黄允吉・副使金誠一・従事官許筬等を聚楽亭で引見する
  6. 【天正19年(1591年)】
    ・1月14日:朝廷、勧修寺晴豊を聚楽第に使わして秀吉に太刀・馬を賜う
    ・1月22日:豊臣秀長、大和郡山城にて没。享年52。※秀吉姉の子・秀保(秀次の弟。大和中納言)が継いだ
    ・1月~閏1月頃:御土居の建設に着手
    ・閏1月8日:天正少年使節、宣教師アレッサンドロ・バリニヤーニと共に聚楽第で秀吉謁見する。※閏1月28日に長崎港を出港
    ・2月13日:千利休を堺へ追放
    ・2月28日:千利休切腹
    ・5月:御土居ほぼ完成
    ・8月:来春の唐入りを布告、那古屋城築造開始
    ・8月5日:鶴松没
    ・8月7日:清水寺で3日間籠もる、のち有馬の湯へ
    ・8月18日大坂帰着
    ・8月23日:小西行長に名護屋を検分するよう命ず
    ・9月16日:諸大名に朝鮮出兵の準備を命ず
    ・10月10日:名護屋城の築城開始
    ・11月28日:秀次、権大納言・正二位に叙任される
    ・12月4日:秀次、内大臣に任じられる
    ・12月:秀吉、関白辞職、太政大臣如元(太閤)
    ・12月27日:秀次、関白左大臣に叙任
  7. 【天正20年 / 文禄元年(1592年)】
    ・(文禄の役:1月5日出陣発令)
    ・正月1日:秀次、参内して歳首を賀す
    ・1月26日:行幸、和歌会
    ・1月27日:舞を叡覧
    ・1月28日:聚楽第より還幸
    ・3月26日:秀吉出陣
    ・4月15日:秀次、前田玄以邸に臨む
    ・4月25日:秀吉、名護屋城着陣
    ・7月5日:秀次、聚楽第で能を興行
    ・7月22日:大政所薨去、同日秀吉、海路大坂城へ向かう。海難事故に遭うも毛利秀元により救出され、秀元は「厚藤四郎」を拝領する。※「水手切り」の項を参照
    ・7月29日:秀吉、大坂城に着
    ・8月4日:秀吉、大政所の菩提を弔うため、高野山に青巌寺を創建する
    ・8月11日:秀吉、指月周辺を散策
    ・8月17日:秀吉、指月伏見の隠居屋敷の場所を決め、20日に隠居屋敷の着工を命じる。24日縄張り、9月3日工事開始 ※後の指月伏見城の場所
    ・9月18日:秀吉、大坂より入京し、この日参内
    ・9月23日:秀吉、京都より大坂城へ戻る
    ・10月1日:秀吉、大坂より名護屋へ出陣
    ・12月8日:文禄改元
  8. 【文禄2年(1593年)】
    ・1月5日:正親町上皇崩御
    ・1月6日:明軍、平壌を包囲、10日小西・宗ら平壌脱出
    ・1月25日:秀次、聚楽第にて月次の和歌会
    ・2月22日:秀次、名護屋の秀吉に能道具を献上する。秀吉は4月15日に面を返却している
    ・2月29日:加藤、鍋島ら漢城入り
    ・3月9日:秀次、聚楽第にて連歌会
    ・4月9日:秀吉、名護屋陣中で能を興行
    ・4月17日:秀次、聚楽第で能を興行
    ・4月18日:漢城の日本軍、明使を伴い漢城を出る
    ・4月30日:秀次、嵯峨より聚楽第に戻る
    ・5月10日:秀次、聚楽第にて蹴鞠
    ・5月12日:秀次、聚楽第にて和歌会
    ・5月15日:石田、小西ら明使を伴い名護屋城へ
    ・5月22日:秀次、聚楽第で能を興行
    ・6月8日:秀次、聚楽第内の山里茶亭に遊ぶ
    ・6月28日:和議七か条を提示
    ・6月29日:明使名護屋城を発ち、朝鮮へ
    ・8月1日:聚楽第で八朔の祝い
    ・8月3日:大坂城二ノ丸にて秀頼(捨)誕生
    ・8月5日:今井宗久没
    ・8月10日:秀次、聚楽第で連歌会
    ・8月13日:秀吉、名護屋城で四座の能を興行する
    ・8月15日:秀次、聚楽第にて観月会
    ・8月15日:秀吉、海路大坂へ
    ・8月25日:秀吉、大坂着
    ・閏9月4日:秀次、伊豆熱海より有馬湯治仲の秀吉夫妻、及び大坂の秀頼に手紙
    ・閏9月20日:秀吉、伏見の隠居屋敷に入る。同日伊達政宗、伏見で秀吉に謁見する
    ・閏9月22日:秀吉、伏見で茶会。客は家康、利家、会津少将、有楽斎、徳善院、有馬法印、
    ・10月1日:秀吉、拾(秀頼)と秀次の娘の婚約を決める
    ・10月11日:秀次、伊豆熱海より聚楽第に戻る
    ・10月27日:秀次、伏見で秀吉に謁見
    ・10月29日:聚楽第で観能
    ・11月2日:聚楽第で観能
    ・11月18日:秀吉、伏見に入る。秀次、伏見に来て秀吉に謁見。のち秀吉尾張で放鷹
    ・11月25日:秀次、聚楽第で能を興行
    ・12月5日:秀次、聚楽第で能を興行
    ・12月11日:秀吉、尾張より伏見に戻る
    ・12月14日:秀吉、伏見より大坂城へ戻る
    ・12月29日:秀次、聚楽第で羽柴秀保に謁し、村雲の刀を与える「村雲当麻」か
  9. 【文禄3年(1594年)】
    ・正月1日:秀次、聚楽第で諸将の参賀を受ける
    ・1月3日:秀吉、大坂城を秀頼に与えるため、伏見に築城開始(指月伏見城
    ・2月10日:秀次、大坂城より聚楽第に戻る
    ・2月13日:北政所ら、指月伏見城の山里の茶亭で花を観る
    ・2月14日:秀吉、指月伏見城に入る
    ・2月16日:秀次、指月伏見城で秀吉に謁見
    ・2月21日:秀吉、秀次を伏見城の山里の茶亭に招き茶会を催す。のち秀次は聚楽第に戻る。秀吉は大坂城に戻る
    ・2月27日:吉野山大花見
    ・3月3日:秀次、大和郡山の羽柴秀保邸で観能、翌日聚楽第に戻る
    ・3月7日:指月伏見城の普請開始
    ・3月17日:秀吉、大坂城より伏見にいたり、18日に普請を巡見
    ・3月19日:島津家久(忠恒)、伏見で秀吉に謁見し、のち聚楽第で秀次に謁見
    ・3月20日:秀吉、古淀城を廃城とする ※天守、櫓などは指月伏見城へと運ばれた
    ・4月1日:秀吉、伏見より京都の施藥院全宗の亭に臨む
    ・4月3日:秀頼を伏見城に移そうとする、15日:21日実施と大阪に伝える、22日:翌年正月まで延期となる
    ・4月14日:秀吉、伏見の蒲生氏郷亭に臨む
    ・4月15日:聚楽第にて観能
    ・4月20日:秀吉、伏見の宇喜多秀家亭に臨む
    ・6月3日:秀吉、指月伏見城の普請を見る
    ・6月14日:「太閤御物刀絵図」毛利本
    ・7月3日:秀吉、指月伏見城の普請を見る
    ・8月:指月伏見城完成
    ・9月9日:秀次、伏見に至る。同日:秀吉、家康の伏見屋敷に御成
    ・9月18日:秀吉、指月伏見城の滝の座敷で茶会を催す
    ・10月18日:秀次、聚楽第にて北政所を饗応する
    ・10月20日:秀吉、聚楽第に臨む。諸将これに従う
    ・10月28日:聚楽第近くの上杉邸に御成(庖丁藤四郎三本寺吉光
    ・11月3日:秀吉・秀次、家康を指月伏見城に招き茶会を催す
    ・11月21日:秀頼、伏見城に移徙
    ・11月25日:秀吉、伏見の家康邸に臨む
    ・12月20日:この日までに秀頼、大坂城より伏見城に移徙
  10. 【文禄4年(1595年)】
    ・1月3日:公家衆、聚楽第で秀次に歳首を賀す
    ・1月7日:筒井定次、伏見で秀吉に祝賀、ついで聚楽第で秀次に祝賀
    ・2月14日:秀吉、鍋島勝茂に豊臣姓を授け、父直茂に伏見の邸地を与える
    ・2月16日:秀吉、大坂より伏見城に入る
    ・2月27日:秀吉、秀頼の叙爵を願い出る
    ・3月2日:後陽成天皇より秀頼に剣・馬が与えられる、翌日公家衆が伏見城に下向しこれを祝う
    ・3月8日:秀吉、聚楽第に臨む
    ・3月25日:秀吉、伏見より京都に入る
    ・4月6日:秀吉、大坂城で観能
    ・4月8日:秀吉、秀頼がはしかに罹かったため、大坂から伏見に入る
    ・4月10日:秀次、伏見にいき、同日聚楽第に戻る
    ・4月21日:秀吉、伏見より大坂に戻る
    ・5月12日:「太閤御物刀絵図」大友本
    ・5月21日:秀次、伏見で能興行。秀吉・北政所らこれに臨む
    ・7月3日:秀吉、聚楽第に三成・長盛を派遣し、秀次を譴責する
    ・7月8日:秀吉、前田玄以らを聚楽第に派遣し、秀次を伏見木下大膳亮(木下吉隆)の邸にいれる。同日、関白・左大臣の官職を解き、高野山に追放する

    関白左大臣・正二位、豊臣秀次、七月八日、於高野山出家

    ・7月15日:秀次切腹
    ・7月20日:秀吉、前田利家を秀頼の傅役とする
    ・8月2日:三条河原で秀次側室・侍女ら処刑
    ・8月22日:秀吉、伏見城に入る
    ・8月23日:家康、京都より伏見に至る
    ・8月:聚楽第の破却 ※指月伏見城および支城である向島城に運ばれた
    ・9月8日:伊達政宗、伏見で秀吉に謁見
    ・閏9月26日:城下町の縄張り

    今日惣之屋敷割、浅弾、民法、増右、長大、山橘、我等躰に仰付けられ候

    ・10月15日:吉川広家、朝鮮より帰陣し、伏見で秀吉に謁見。のち出雲富田へ帰国
    ・11月2日:秀吉、伏見より京都に入る。家康もこれに従う
    ・11月8日:秀吉、病気のため参内を中止し、伏見に戻る
    ・12月18日:秀吉、伏見より大坂城へ戻る
  11. 【文禄5年 / 慶長元年(1596年)】
    ・閏7月12日深夜:慶長伏見地震
    ・閏7月15日:木幡山伏見城の作事に着手
    ・10月10日:木幡山伏見城の本丸完成
    ・11月18日:秀頼、大坂城本丸へ移徙
    ・11月28日:秀吉および北政所、伏見山御殿へ移徙
  12. 【慶長2年(1597年)】
    ・正月1日:秀吉、伏見より大坂城に赴く
    ・正月:京都新城(太閤御所・太閤上京御屋敷)着工

 関連項目


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