本阿弥光徳
本阿弥光徳(ほんあみこうとく)
本阿弥家九代当主
三郎兵衛
益忠
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生涯
- 天文23年(1554年)の生まれ、元和5年(1619年)7月20日没、64歳
- 通称は又三郎、三郎兵衛。諱は幸忠、益忠。
- 秀吉から「刀剣極所」(刀剣鑑定)を免許され、銅印を賜っている。
八世光刹三郎兵衛ト稱ス。鑑定及ビ磨研ノ業ニ堪能ニシテ、池田三左衛門ニ推挙セラレ秀吉ニ屬シテ始テ「刀劍極所」ト成ルコトヲ得タリ。是レヨリ世々本阿彌ノ宗家ヲ繼グ者三郎兵衛ヲ以テ通稱トス。光刹ノ時始テ鑑定折紙ヲ出シ、又無銘刀握ニ金挿嵌或ハ朱漆ヲ以テ銘ヲ記ス。九世光徳ニ至リ、秀吉海内ヲ統一シテ豐臣太閤ト仰ガル。威天下ニ振ヒ、本阿彌ノ勢力モ亦タ之レト共ニ增加シ、太閤ヨリ鑑定銅印ヲ賜フト云フ。
銅印ハ龍紋古錦襴ノ袋ニ入ル直角一寸、厚二分、紐高八分、輪郭二線、朱ノ本字ヲ刻ス。光徳以來本阿彌宗家ヨリ出ス、鑑定證書ノ裏面ニ捺用スル所ナリ。宗家二十世悌三郎其業ヲ罷メテ後姓名ヲ改メテ柏原一三ト稱ス。一三曰ク此銅印ハ數年前マデ尚ホ我家ニ在リシガ當時自身不用トナリシヲ以テ傳家ノ探幽筆光甫賛本朝三作畫幅ト共ニ切ニ請ハルヽガ儘之レヲ分家本阿彌忠敬ニ貸與シタルナリト現今忠敬ノ子彌三郎ノ所持スルモノ盖シ是レ歟
つまり初めに「刀剣極所」に免許を与えられたのは、先代である八代本阿弥光刹であるという。さらに九代の光徳も続いて任ぜられ銅印を拝領したということになる。
- この後江戸期になっても本阿弥家が世襲することになる。
八世光刹九世光徳祖業ヲ相承ケテ京師ニ任シ、山城國乙訓郡築山村同久世郡中村ノ兩所(或ハ云フ乙訓郡部村一所)ニ於テ知行二百五十七石ヲ賜ヒ光徳ニ至リ更ニ同國鳴瀧中野高雄栂尾梅畑數村ニ跨ル砥石山ヲ拝領シテ其運上ヲ収メ加之ナラズ
- 秀吉より鬼丸国綱を預かり、大坂落城ののちこれを徳川家に献上するが引続き本阿弥預かりとなった。
豐臣氏ヨリ足利將軍重代ト聞エタル鬼丸國綱ノ太刀保管ノ命ヲ蒙リ宏壯ナル邸宅ヲ起シ倉庫ヲ設ケテ之ヲ守護セリ家聲隆然トシテ暴カニ揚リ凡ヲ刀劍鑑定ノ事ハ此時ヨリシテ本阿彌一家ノ獨専ニ歸シタルモノヽ如シ
鬼丸國綱ノ太刀ハ元ト北條氏ノ重器ナリ、北條氏滅ビテ足利氏ニ傳ヘ後豐臣氏ニ歸ス、相傳フ粟田口國綱後鳥羽帝ニ隠岐ニ從行シ八十六歳ニテ鬼丸ノ刀ヲ鍛フト、北條時頼病ニ臥シテ夢ニ惡鬼ニ艱マサル國綱ノ刀ヲ枕邊ノ柱ニ立テヽ眠ルニ嘎然トシテ聲アリ自然ニ倒レテ火鉢ノ臺ナル子鬼ノ首ヲ切落セルナリ時頼病忽チ癒ユ仍チ此刀ヲ鬼丸ト名ク
大阪之役十世光室奔テ徳川氏ニ赴キ鬼丸國綱ノ太刀ヲ陣中ニ於テ家康ニ献ズ、家康曰ク永ク汝ノ保管ニ任スト。豐臣氏滅ビテ徳川氏ノ世トナルヤ光室父子關東ニ召出サレ知行舊ノ如ク新タニ五拾人扶持ヲ賜リテ江戸ニ常住ス而シテ五年一度一族交番ニ京都ニ上リ朝廷御用ヲモ相勤メ來リシト云フ是ニ至リテ本阿彌ハ海内唯一ノ刀劍極所ト爲リ其一家門ノ刀劍界ニ於ケル勢力益々加ハレリ
- 子の本阿弥光室が跡を継ぎ10代当主となった。
象嵌
- 桃山以降、大磨上無銘の刀には金で鑑定銘を象嵌し、これを金象嵌銘と呼ぶが、中でも光徳による金象嵌は「光徳象嵌」と称され古来珍重される。
- 稲葉郷
- 天正十三十二月日江 本阿弥磨上之(花押)/所持稲葉勘右衛門尉。国宝、岩国美術館
- 桑名江
- 義弘本阿(花押)/本多美濃守所持。重要文化財、京都国立博物館
- 城和泉正宗
- 正宗 磨上 本阿(光徳)。国宝、東京国立博物館
- 中務正宗
- 正宗 本阿(花押)/本多中務所持。国宝、国(文化庁)
- 池田正宗
- 正宗磨上 本阿弥(花押)。重要文化財、徳川美術館
- 大三原
- 大三原 二ツ筒 浅野紀伊守拝領 本阿弥光徳(花押)。重要文化財、東京国立博物館
- 長光
- 刀 金象嵌銘長光磨上 光徳(花押)/本多安房守所持。重要文化財
- 順慶長光
- 太刀 金象嵌銘「順慶本阿(花押)」。長二尺四寸、反り六分。徳川将軍家旧蔵。
- へし切り長谷部
- 長谷部国重 本阿(花押)/黒田筑前守。国宝、福岡市博物館
- 長左文字
- 左 磨上 光徳(花押)。蟹仙洞
- 左吉貞
- 刀 (金象嵌)吉貞 本阿(花押)。重要美術品、静嘉堂文庫
- 兼光
- 刀 兼光 光徳(花押)。島津家伝来、二尺二寸九分。昭和3年(1928年)5月侯爵島津家蔵品入札325番、1780圓で落札。
- 当麻
- 當麻 本阿弥又三郎磨上之(花押)/天正十一霜月日。黒川古文化研究所
- 助光
- 刀 金象嵌銘 助光磨上光徳(花押)。重要文化財
その他関係刀剣
- 埋忠寿斎による「埋忠銘鑑」には、「本(阿弥)三郎兵衛、光老、徳老」などと光徳の名が度々登場する。
書物
「日本鍛冶集」
- 刀工を国別に挙げた銘鑑。
- 天正20年(1592年)に木村吉清に贈ったもの。
「本阿弥光徳六十六ヶ条」
- 近衛家からのお尋ねに対して答えたもの。
六十六ヶ条ハ本阿弥光徳エ、近衛家ヨリ御尋有レシ時、一々御答申上候ヲ記シタルモノノ由、本阿弥栄治郎申聞候。此書佐野氏ノ原本ヲ借得テ写シ置ク者也 土屋温直
- 「小脇差多ク有ル物」「直刃物」など、66項目に分けて該当する刀工を並べたもの。
太閤御物刀絵図「光徳刀絵図」
- 中心と切先の図。石華墨でとった押形ではなく、刀を見て写生したものであるため「光徳刀絵図」と呼ばれる。「本阿弥光徳押形」
- 天正16年(1588年)極月3日、石田三成に進上したのが始まり。
- 文禄3年(1594年)6月14日には毛利輝元に進上している。
輝元には別に進上しておりそれを元和元年(1615年)極月に埋忠寿斎が模写したものがある。これには寿斎が象嵌や磨上、金具製作をした注記が入る。 - 文禄4年(1595年)5月12日。進上の宛名なし。
- 慶長5年(1600年)2月22日。進上の宛名なし。
享保名物帳
逸話
- ある時、家康から自慢気に相州正宗の脇差を「これは足利将軍家の重宝で尊氏の古い添え状もついている最上家伝来のものだ」と見せられる。
- これに対して、光徳は焼き直しものであると言上する。家康から不興げに理由を問われると、尊氏は目利きではないため添え状は役に立たない。またその頃の正宗は新身であると声高に答えた。それが家康の癇に障ったため二度とお召がなかったという。
権現様御秘蔵の正宗の御脇差を、光室が父光徳に御見せなされける。むかし公方家の宝なり。則尊氏公の添状有。最上家の重代なりと御意被成。御前にて拝見申ける所に焼直し也。則此由申上ければ、何とて左やうに申ぞと御意被也、御機嫌よろしからず。尊氏公の御添状は用に立不申候。目利の御誉れも無御座、其うへ尊氏公の御時、正宗はいまだ新身にて御座候と声高に申上ければ、慮外の仕合せと思召けるか、それより御前へ不被召出、程へて後光室を被召出、親に大きにまさりたりと忝き上意にて、御奉公申上ける。いかほど諂ひなき人々にても何によらず上様の御秘蔵のよし御意被成、御前にて御見せ被成に、何の用にも立ざるものと申上らるヽほど潔き人は稀なるべし。
関連項目
- こぶ屋藤四郎
- にっかり青江
- 一期一振
- 三好政康
- 三好江
- 上り竜下り竜正宗
- 上部当麻
- 上野江
- 中務正宗
- 享保名物帳
- 伊達政宗
- 倫光
- 兼光
- 刀工
- 前田正宗
- 北野江
- 北野紀新大夫行平
- 厚藤四郎
- 吉野太夫
- 名物
- 国宝
- 圧切
- 埋忠
- 埋忠寿斎
- 城和泉正宗
- 大三原
- 大坂御物名物刀剣押形
- 大江
- 大西左文字
- 太刀
- 太子屋国吉
- 太閤左文字
- 太閤御物刀絵図
- 安宅志津
- 宗易正宗
- 宗瑞正宗
- 寺沢貞宗
- 岐阜国吉
- 庖丁藤四郎
- 後藤正宗
- 後藤藤四郎
- 御掘出貞宗
- 御鬢所行平
- 徳川美術館
- 折紙
- 抜国吉
- 斎村貞宗
- 新身
- 新身国行
- 新身藤四郎
- 日向正宗
- 明智光秀
- 書物
- 有楽来国光
- 朝倉長光
- 本阿弥
- 本阿弥光室
- 本阿弥光心押形集
- 本阿弥光悦
- 本阿弥光柴押形
- 本阿弥光瑳
- 朱判正宗
- 村雲江
- 東京国立博物館
- 桑名江
- 横雲正宗
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- 豊後藤四郎
- 豊臣家御腰物帳
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- 重要文化財
- 重要美術品
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- 鎬藤四郎
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