骨喰藤四郎


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る

 骨喰藤四郎(ほねはみ)

薙刀直シ刀
無銘 伝粟田口吉光
名物骨喰藤四郎
刃長1尺9寸4分(58.8cm)
重要文化財
豊国神社蔵

Table of Contents
  • 粟田口藤四郎吉光の作で、元は長刀(なぎなた)だったものを磨り上げて太刀とした薙刀直し刀である。
  • 吉光骨啄刀(ほねばみとう)。
  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    骨喰藤四郎 無銘長一尺九寸六分 御物
    昔の大友の長刀(なぎなた)なり、尊氏鎮西下向の時に誓詞後味方に参り候時上る、骨喰と申子細はたはむれに切るまね致しても先の者骨くだけ死する故名付る段々不思議なる事敷々有之大内に有之刻刀に直す、長刀直し、表本樋の内に倶利伽羅、裏樋の内に梵字、其下に不動有之段々将軍家へ伝はり、秀吉公御物になり秀頼公へ伝へ大坂落城の刻失る、其後御城の堀より出候由にて町人光室方へ持参候間、指留め早速二条城御城へ持参致し家康公へ御覧に入れ奉る、以の外御喜悦に思召れ候然ども寸も長く重く候間御指には難被成由上意に付、伏見へ持参致し秀忠公へ奉入御覧候処、御意に応し御指し可被遊旨にて白銀十枚拝領仕る今焼直しに成て御城に有之

    • この由来について「詳註刀剣名物帳」では「秀吉公御物となる云々の記まで極めて要領を得ぬ書ざまなり」と記す。
  • 「名物記」

    骨喰粟田藤四郎吉光 一尺九寸六分 御物

  • 鋩子尖り尋常に返っている。表の櫃の中に倶利伽羅竜を浮き彫り、裏の櫃の中には梵字とその下に不動明王の浮き彫りが入る。
  • 中心は薙刀を脇差に直した際に切除されてしまっているが、残った中心の長さから見てもともと無銘だったとされる。
  • 本阿弥家ではこれを吉光作と極めているが、古剣書にも異説が多い。


 由来

  • 大友氏から足利尊氏に献上された時に、すでにこの号がついていたという。
  • 対面し斬る真似をするだけで骨まで砕かれるほどの凄まじい切れ味のために号したという。

    戯れに切るまね致すにも先の者の骨を砕き死する

  • 「名物記」にも同様の逸話が載る

    此刀ニテ切付候得ハ、骨之縫綴候様ニ相腦候ト申切レ物之由ニテ、骨喰ト名附之由申傳候



 来歴

 大友家以前

  • 鎌倉時代に源頼朝から九州大友家初代大友能直が拝領した物というが、藤四郎吉光の作であれば時代が合わない。
    一説には多々良浜の戦いで尊氏が「御重代の骨喰」を帯びていたとも伝える。そもそも吉光作であれば時代が合わない。古剣書で指摘されるとおり吉光作ではないか、または大友家伝来ではなく足利家伝来であったことになる。ともかく尊氏の頃から足利家にあったことはどの伝でも相違はない。

 足利将軍家

  • その後足利尊氏が西国に下った折、九州大友家6代目大友貞宗(または貞宗の子で8代大友氏時とも)より忠誠を尽くす証として献上された刀であり、「鬼丸国綱」、「大典太光世」とならぶ足利将軍家の重宝となった。
  • 多々良浜の戦いの際に、この骨喰を佩いたとされる。

    尊氏公は赤地錦の直垂に唐綾威の鎧を著て、骨喰太刀又二ツ銘と名つく、頼政卿傳る處也、を佩る、舎弟左馬頭直義は、赤地の錦の直垂に、紫革綴の鎧を著て、篠作太刀足利家代々の重寶也、を佩かる、

    ただし源頼政より伝わる骨喰ということは、骨喰ではなく「骨食」ということになる。さらに骨喰の別名が「二つ銘」(篠丸)となっている上に、直義まで「篠作太刀」となっており、結局2人が同物を佩いていることになってしまっている。無理やり解釈すると、尊氏は骨喰、直義は二つ銘則宗(篠丸)を佩いたものが誤伝したと取ることも出来る。

  • 室町中期(9代義尚)までは足利家の重宝として元の薙刀の原型をとどめていた。

    御長刀ほねかみと申す御重代をかつがせ(長享番帳

  • これより後の来歴については「大友興廢記」に詳しい。

    右骨啄の刀ハ、大友家重代の寶刀也、しかるを建武のころ、尊氏将軍鎮西御下向の時、大友氏時御馳走被成、深く一味の誓を以て、此刀を進之らる、骨啄と云事、戯に人にむかひ切まねをなさるれハ、卽時に骨摧けるによつて號せらるゝ、此旨をも御物かたりにて進らる、尊氏公此刀を得て本意をとけられ、代々公方の重寶と成しを、何の時にか多賀豊後守此かたなを求得て所持せし處に、永禄八年乙丑五月十九日に、三好左京大夫・松長(原文ママ、以下おなじ)弾正逆心をおこし、義輝公方を弑し奉りしとき、豊後守戦死をとけし後、松長霜臺此刀を得て、天下の權柄を執、御秘蔵有を、大友家先祖の重寶成故、御所望なされんために、同八年に毛利()兵部少輔鎮実を使者として、錦繍・厚板・巻物以下、金銀凡三千兩の價を松長公へ献し申請らるゝ、松長おしくハおほしめさるれとも、その比大友宗麟公ハ九州六ヶ國餘おさめ大身成故に、辭難くや思ハれけん、剰祐成の太刀を相添給りぬ、
    毛利兵部少輔下向の時、播磨灘にて不思議有、夜に入て船の跡一二里もあらんに、燈のことくなるもの、幾千萬といふかすをしらす、舟を心かけたるやうに見え來る、兵部少輔思やう、松長太刀を給り、又おしくおもひ取かへしにやきたるとおもひ、船中の者ともに心を付、命のあらん程ハ、此かたなにおゐてハ放ましきと、荒言いひちらしけれハ、たちまちに光物きえ失ぬ、扨ハ龍宮よりおもひかけぬるか、すくれたる銘作の物ハ、龍王よりのそみ有よりつたへきく、遮莫いかほとの事かあるへき、此かたなにおゐてハおもひもよらすと、勇力を胸臆にこめ、船中の者ともに下知するにより、事故なる下著したりき、建文(ママ)のころより永禄八年まて二百二十九年の星霜を經て、大友家へたちかへるところに、今又天正十七年に秀吉公へ進らる、大友家の衰徴か、おほつかなしとそ人々申あへり、そのゝち秀吉公御音信として、義統方へ千鳥・成田栗毛と云名馬二疋つかハれぬ、豊後よりハ使札到來不被成に、却而御使者を差遣れし事度々成
    (大友興廢記)

    文中「松長弾正」および「霜臺(霜台=弾正忠)」は、松永弾正久秀のこと。

  • その後戦国期には磨り上げられて太刀に姿を変えたという。

    大内に有之刻刀に直す  ※大内は大友の誤りか

  • 幕府重臣で刀剣に造詣の深い多賀豊後守が所望し、拝領していた。

 松永弾正

  • 永禄8年(1565年)5月、二条御所にいた13代将軍足利義輝を攻め殺した松永久秀(弾正)が骨喰を入手する。この時多賀豊後守(後代か)が所持していたという。

 大友家

  • しかし過去、足利将軍家に献上した経緯がある九州大友家の大友宗麟が松永久秀に返還を求め、同永禄8年(1565年)、毛利兵部少輔鎮実を使者として送り三千両相当の謝礼で大友家へと戻った。
  • この時、骨喰刀を得て帰る船旅において、不思議な事があったことが大友興廃記に記される。

    毛利兵部少輔下向の時、播磨灘にて不思議有

    毛利鎮実は、筑前鷹取山城の城主。天文11年(1542年)には大友氏から大内氏に寝返るが、大友宗麟に攻められると降伏、その後は大友家臣として仕えた。

 豊臣秀吉

  • その後天正13年(1585年)9月27日以前に秀吉から所望され大友義統(大友宗麟の子)より献上、27日に謝礼の手紙を送っている。

    段々(足利)将軍家へ伝はり、秀吉公御物になり秀頼公へ伝へ

    大友宗麟公御所持の吉光骨啄のかたなハ、あまねく世にかくれなき重寶なり、御嫡男義統公にゆつらせ給ふ、しかるを太閤秀吉公の御前にて、宮内卿法印(松井友閑)・利休居士、此刀の事を申上らるゝ、秀吉公きこしめし、むかしより國をおさむ大将は、名譽のつるきを持事を専とするもの也、あわれ其骨啄を御所望なされ度よし仰出さるゝ、すなハち宮内卿法印・利休居士兩人より、先々内證申下候へと仰付らるゝ、此兩人御意にしたかひ、天正十七(ママ)年己丑三月上旬のころ、使札到來して申さるゝハ、貴公御所望の骨啄の事、秀吉公きこしめしをよハれ、御所望ありたきよし御噂に候條、遮而進之られましく候哉、内證のためかくのことくなりと申達せらるゝ、義統きこしめし、其儀におゐてハ、早速進上あるへきよしの御返事なり、やかて使者をもつて御進上有、秀吉公御悦不斜、其後御使者を豊後へさし下さるゝ、其御書にいはく、
    ○中略、九月二十七日附大友義統充秀吉書状ニカヽル、大友文書ニ豫リテ上ニ収ム
    (大友興廢記)

    (天正13年9月27日条)大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、
    (大日本史料)

    大友左兵衛督(大友義統)殿
             秀吉
     猶以宮内卿法印・利休居士可申候、随而此等式雖如何候、見來候間、厚板・小袖三十進之候、以上、
     
    吉光骨啄刀之儀、所望成候由、秀吉前にて放之者共、宮内卿法印・千利休居士兩人承候而、其方に相傳候處、早速給候儀、一入満足不斜候、軈以一札可申之處、其刻北國表國之置目等爲可申付、令出馬、不届者不残成敗申付、○秀吉、越中ニ出馬シ、佐々成政ヲ降スコト、八月二十六日ノ條ニ見ユ、關東・北國依明瞭、閏八月至大坂納馬候、猶自是可申候、謹言、
      九月廿七日      秀吉
       大友左兵衛督殿
    (大友文書)

  • 献上の経緯は、「名物記」でも同様となっている。

    袖長刀ニテ室町家所持也、松永弾正ヘ渡リ、大友家求之、スリ上、長刀直シ差料ト成、千利休茶道見分之タメ九州ヘ下向之刻、此刀ヲ見、歸國之上噂申候ニ付、大友家ヨリ大坂ヘ送ル

    ここでは、九州へ茶道見分の旅の際に千利休が見知った経緯までが書かれており、その後京都で噂話をしたところ秀吉の耳に入るという流れになる。

  • この献上のすぐ後、秀吉は大友義統および島津義久に書状を出し、和議を命じている。※いわゆる「惣無事令」。

    就勅定染筆候、仍関東不残奥州果迄被任倫命、天下静謐処、九州事于今鉾楯儀、不可然候条、国. 郡境目相論、互存分之儀被聞召届、追而可被仰出候、先敵味方共双方可相止弓箭旨、叡慮候
    (10月2日付島津義久宛書状)

    なお島津家ではこれを無視し、翌天正14年(1586年)7月、八代に本陣をおいて筑前攻めを開始する。仙石秀久を大将とする秀吉軍が九州に上陸するのは12月であったが島津軍はこれを戸次川で撃破。その後天正15年(1587年)に豊臣秀長が率いる10万余人の軍勢が到着し、島津はようやく退却した。

  • 天正16年(1588年)本阿弥光徳が押形を取っており、石田本「太閤御物刀絵図」に所載。

    御物、ほねはみ、長さ一尺九寸五分半、むねきり、なかこきる 切物之内ニむら有之故さらへ申し金具寿斎仕候、此所ヨリ切申候。
    太閤御物刀絵図

    • この時に磨上と磨きを行ったようである。彫り物に汚れがあったために取り除き、金具は埋忠寿斎が行ったと記されている。

 豊臣秀頼

  • 骨喰は、秀頼に伝わる。

 大坂の役

  • 大坂夏の陣に際し、町人が堀の中から無傷で回収し、本阿弥光室に届けた。
  • 一説に秀頼の茶坊主が盗み出し、大坂城落城以降に売りに出したが怪しまれ買う人がいなかったとも伝わる。

    私に云ふ、秀頼公最期の時、藥研藤四郎と云太刀、骨喰と云太刀焼け失せたりと云ふ、或説に骨喰は此節秀頼公茶湯坊主盗取り、御陣以後賣拂はんとすれとも是天下の名物なれは買人なし、後には此刀大樹公へ捧ぐ、其後富士見櫓に納まり、明暦丁酉の歳の大火に骨喰終に焼失すと云々、抑も此の太刀は源三位頼政の攝津守頼光より重代したる劒にて、稀代の名物と云ひ傳ふ

    また別の説では、冬の陣の際に木村重成が佐竹義宣陣を襲って手柄を立て、感状とともに拝領した。のち夏の陣で井伊直孝隊に討ち取られ、骨喰も分捕られ家康に献上されたという。
  • 木村重成が拝領していたとする説。

    大坂落城の刻、秀頼公御刀を持出し、急き二條の御城へ持参し、権現様に差上ける所に殊の外御機嫌能、則光室に下されける、大名共に高直に賣候へ、去なから先将軍様の御目に懸よと御意被成、則伏見に持参、台徳院様に差上けれは、御指領に被成へきよし仰出され、白銀三千枚拝領仕、(略)此ほねはみは、大坂冬陣の時、秀頼公の御めのと子木村長門守、鴫野口の御門を開、佐竹殿のそなへに押寄、一番鎗を突て、澁谷内膳と言ふ家老を打取ける、流石のかたき備へ成故、早く引取ける、後藤又兵衛眞田左衛門佐抔見物して、古今無双の花鎗なりと感けるとなり、此時に秀頼公御感状に添て、此ほねはみを拝領申也、明則五月六日、此ほねはみをさして打死しける、権現様御刀を御覧被成、これは秀頼公より木村に給りけると聞し召けるか、是を差ていさき能打死をしける、かはねの上の面目是成へしと御意被成けると、光室同苗に語り申也
    (本阿彌行状記)

    木村長門守鴫之口戰功、佐竹家之侍澁江内膳ヲ討取、右高名無比類、秀頼感状ニ骨喰ヲ添テ給之、井伊家之士長門守カ物具ヲ剥取、本阿彌又三郎手ニ入、権現様ヘ奉入上覧候處、長門守骨喰ヲ持タル事、骸上面目トノ御沙汰ニテ、又三郎御前ヲ退候所、又被爲召、台徳院様へ入上覧候様上意ニ付、伏見ヘ罷越奉入上覧候處、直ニ被遊御留メ、銀千枚被下置候
    (名物記)

  • つまり大阪冬の陣の際、今福の戦いで佐竹家臣渋江政光を槍で討ち取る手柄を立てたため秀頼から感状と骨喰を拝領したという。翌年の夏の陣ではこの骨喰を差料として出撃し、井伊軍との激戦の末に戦死したとする。
    木村重成の首級は家康のもとに届けられ、頭髪に香が焚き染めてありその覚悟の程に家康が感服するという逸話が残る。しかし普通に考えれば討ち取られた際に、「物具ヲ剥取」られているのだから、骨喰も井伊軍兵士により分捕られておかしくないはずだが、なぜか町人が堀の中から無傷で回収し本阿弥光室の手に入ることになる。差料としていたが死を覚悟して誰かに持たせて城へ戻そうとしたか、または当日は差料としていなかった。あるいはそもそも拝領していなかったなどの可能性が考えられる。

 徳川将軍家

  • 本阿弥光室二条城の家康に献上すると家康は大いに喜んだが、家康の差料とするには長くて重かったため光室を伏見城に遣わしたという。伏見城にいた秀忠はこれを大層喜び白銀千枚を与えたと記す。

    (元和元年6月)廿九日秀頼秘蔵せし薬研藤四郎吉光骨喰(骨喰藤四郎)の名付けたる太刀を、河州の農民拾ひ得しとて、本阿彌又三郎二條城(家康)へ進覧せしかば、又三郎に返し下されしに、又三郎これを伏見城(秀忠)に持参して献ず、よて金百両下さる
    (台徳院殿御實紀)

    閏六月廿九日、秀頼所持之骨喰刀吉光一尺九寸五分、本阿弥又三郎尋出、献御前処、則被下於本阿弥、然所本阿弥将軍家差上ル、則黄金十枚賜之云々
    (駿府記)

  • のち明暦の大火(1657年)で焼身となったが、三代康継に命じ修復された。

    骨ハミ吉光
    (御腰物之覚)

    二代康継は正保3年(1646年)2月15日病没。

  • 紀伊徳川家に伝来したが、明治2年(1869年)7月に将軍家に戻される。

 豊国神社

  • 元和元年(1615年)に豊臣宗家が滅亡したあとに家康の意向を受けて取り潰されていた豊国神社が、慶応4年(1868年)閏四月明治天皇により再興された。
  • 徳川宗家の徳川家達は、骨喰藤四郎に金百圓を添え寄進している。
  • 当時、豊国神社の再建は国により行われたため骨喰も国有であったが、大正14年(1925年)に豊国神社に下賜され、同年4月24日に旧国宝指定。

    丙種 刀劔
    薙刀直シ刀(骨喰)無銘傳粟田口吉光
    附白鞘 徳川家達寄進ノ鞘書アリ
    豊國神社

    刄長一尺九寸四分古來粟田口吉光作骨喰として傳わつた大名物である、惜い哉明歴(明暦)の火災に罹つて燒身となつたが三代康継の手によつて燒直され其の特殊な形を今に傳ふる事となつた、地刄の特色は全く失はれて居るが東京帝室博物館の所藏で災厄以前初代康継が模造したので見れば原は小丁字小亂の美しい刄文であつたらしい、唯だ刀身に刻まれた不動明王と倶利伽羅龍には幸に名刀の刀法が窺はれる程當初の面目が殘つていつ、かくして名物の骨喰としては其の形と彫物とに於て尚特色を有するものとして尊重される、吉光は一つに藤四郎と云ひ正元頃の人で山城國粟田口に住し幾多の名劍を鍛てゐるが骨喰は其の名の示すが如く特に切味の鋭利を以て知られ歴世尊重された由來が諸書に載つてゐる。

  • 現在も豊国神社にて所蔵されている。


 タグ




 骨喰み写し

  • 非常に高名な名物であった骨喰には、いくつかの写しが作られている

 骨喰み(吉光)写し


銘 南都住藤原金房兵衛尉政次
長二尺八分二厘弱、反り八分五厘

  • 秀吉が所有する骨喰藤四郎を見た池田勝入斎恒興が、金房兵衛尉政次に頼み込み「骨喰み(吉光)写し」と呼ばれる刀を作らせたという。
    ただし池田恒興は天正12年(1584年)4月9日に小牧・長久手の戦いで討ち死にしており、翌天正13年(1585年)9月に献上された骨喰を写すのは無理がある。写しを依頼したのは恒興の息子の池田輝政(三左衛門)ではないかと思われる。
  • 銘は「南都住藤原金房兵衛尉政次」であり、表の櫃内火炎不動明王、裏の真の倶利迦羅の彫物も骨喰に類似している。
  • 勝入斎はこれを加藤左馬助嘉明に贈っており、その後雲州松江城主松平氏が所有することになったという。
    加藤嘉明の次女が池田恒興四男(池田輝政の弟)池田長政に嫁いでおり、その縁で贈られたものと思われる。

    いっぽう加藤嘉明は会津若松44万石に封じられ、寛永8年(1631年)に病死する。後を嫡男の明成が継いだが、暗愚であったために家老堀主水ら一党が出奔してそれを追討するという事件が起こる。結果的に庶子の明友が近江水口藩2万石として存続するが、この時に「骨喰み写し」も手放されたのではないかと思われる。

    松江松平藩は、京極忠高が出雲隠岐26万石で入ったものの嗣子なく一時断絶した後に、1638年(寛永15年)に松平直政(結城秀康の三男)が信濃松本7万石から18万6千石で入封したのに始まる。松江に入る際、家臣団も増強しており、旧福島正則家臣である大橋茂右衛門を6千石の家老として召し抱えている。
  • 江戸時代は同家にあり、明治に入ってから、波多野中将さらに権藤善太郎(権藤成卿)へと渡り、大正8年(1919年)に河瀬虎三郎氏の所蔵となる。
  • その後昭和10年(1935年)に同家より出て某氏所蔵となった。

 骨喰吉光模(康継写し)

脇差
銘 以南蠻鐵於武州江戸越前康継/骨喰吉光
名物 骨喰藤四郎吉光写し
1尺9寸4分
東京国立博物館所蔵

  • 初代康継
  • 明暦の大火(1657年)で焼身となる前に写された。
  • 光徳刀絵図とくらべると、本科にすこぶる正確に写されており、骨喰本来の姿がわかるという。

 骨喰写し

銘 播磨大掾重高

  • 寛文新刀期の越前の刀工播磨大掾重高による写し。

Amazonファミリー無料体験