伊達政宗


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 伊達政宗(だてまさむね)

戦国大名
伊達氏第17代当主
仙台藩初代藩主
従五位下・左京大夫、侍従、越前守、
従四位下・右近衛権少将、陸奥守、
正四位下・参議
従三位、権中納言
梵天丸、藤次郎
独眼竜、羽柴大崎侍従、松平陸奥守、貞山公

Table of Contents

 生涯

  • 永禄10年(1567年)出羽国米沢城で生まれる。
  • 伊達氏第16代当主伊達輝宗、母は正室最上義守の娘義姫(最上義光の妹)。
  • 幼名梵天丸。幼少期に患った天然痘により右目の視力を失う。
  • 天正5年(1577年)11月15日に元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主大膳大夫政宗にあやかって名づけたもの。※区別するため、独眼竜政宗を藤次郎政宗と呼ぶ。

 父殺し

  • 天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名相馬氏との合戦で初陣を飾る。
  • 天正12年(1584年)10月、父輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となる。

    天正十二年十月封を襲

  • 天正13年(1585年)閏8月、従五位下・美作守の叙任される。
  • 天正13年(1585年)、政宗は大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行う。
  • 大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵されるが、義継の見送りに出た所を拉致される。鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。

    (十三年)十月八日政宗放鷹せるの時、父輝宗二本松義継かために難にあふときゝて、すみやかにはせかへり、義継を討て其屍を小濱に暴す。

  • 初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲したが、11月17日に二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。数に劣る伊達軍はたちまち潰走するが、殿軍を務めた老臣鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
  • 天正14年(1586年)、左京大夫に進ぜらる。

 四十年前少壮時

  • 天正15年(1587年)12月、豊臣秀吉は関東・奥羽地方に惣無事令を発令する。
  • しかし政宗は秀吉の命令を無視し、天正16年(1588年)、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させるが敗北。さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされたが、両軍の間に割って入った母・義姫の懇願により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
  • これに乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきたが防衛し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(郡山合戦)。
  • 天正16年(1588年)4月、秀吉に鷹を所望され、これを贈ったことから「鎺国行」を贈られる。
  • 天正17年(1589年)には会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破っている(摺上原の戦い)。この戦いの後、遠藤文七郎宗信に「芦名兼光」を与えている。
  • この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。

 小田原征伐

  • 天正18年(1590年)5月、五奉行筆頭の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。
  • 秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。
  • 翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。
  • 喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。
  • 同年侍従、越前守に改められる。
  • このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した。
  • 朝鮮の役にも出兵している。しかし服属した時期が遅かったこともあり、豊臣政権において徴用されることはなかった。さらに豊臣秀次と親しかったことから、関白切腹事件の際には伊予への転封も取り沙汰されている。
  • 慶長2年(1597年)従四位下に叙せられ、少将に進む。
  • 慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると形見分けとして「鎬藤四郎」の脇指を贈られる。

 徳川氏への臣従

  • 秀吉の死後は家康に近づき、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。
  • 慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐を行うと、これに従い7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還した。
  • 関ヶ原の際には上杉領への侵攻を行うも奪還できたのは陸奥国刈田郡2万石のみであり、さらに一揆扇動も発覚し、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となった。

 仙台藩

  • 慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。
  • 石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。
  • 大坂の役にも出兵し、夏の陣では道明寺の戦いでは後藤基次らと戦っている。後藤隊を壊滅させた後、誉田村に兵を進めたところで真田幸村の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
  • 戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられ、伊達宇和島藩を立藩する。

 老来不識干戈事

  • 晩年は仙台領の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。また北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、寛永惣検地時点で内高74万5千石相当の農業生産高を確保した。
  • さらに近江在住の技師川村孫兵衛を招き北上川の河口に石巻港を設けた。これにより、北上川流域水運を通じ江戸まで米を出荷する態勢が整い、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」記述されるまでとなっている。
  • 政宗は非常に長命であったことから、戦国乱世の生き残りとして将軍の側近くで遇された。特に家光からは「伊達の親父殿」と呼ばれ、将軍の前での脇差帯刀を許されていた。ある時、将軍側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると、中身は木刀(竹光)であったという。

    政宗元より大脇差を好みけるが。御前へ出るにはいつも脱しけるゆへ。帶せしまゝにて進むべし。もし脇差さして出ずば。御盃くださるまじと戲れ給ひしかば。政宗涙を流し。先朝二公の御事は。政宗身不肖ながら身命を抛て。汗馬の勞を施せし事もおぼえ侍ど。當代にはさせる忠勤も申上ず。然るに老臣の殘喘を憐ませられ。かく殊遇をかうぶる事。死ともわするべからずとて。ことさら銘酊して前後も知らず熟睡しぬ。近臣等そのひまに。かの大脇差ぬきてみければ。中身は木刀にて在しとぞ。

  • また仙台においては隠居城として築いた若林城で花鳥風月を愉しんだという。

 最期

  • 寛永11年(1634年)頃から体調を崩しはじめ、寛永13年(1636年)、江戸への参勤交代の途上で急激に体調悪化、病をおして参府する。家光は5月21日に伊達家上屋敷に赴き、政宗を見舞っている。
  • 5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70。
  • 臨終の際、妻子にも死に顔を見せなかった。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。
  • 辞世の句

    曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く


 刀剣

  • くろんぼ斬景秀」「亘理来国光」「鎺国行」などを愛用したという。

    其外道具おほき中にも、此年までかげ身をはなさぬやうに、ひざうの物はわたりらい(亘理来)のかたな、かげひで(くろんぼ斬)、はゞき国行(はばき来)、是三こしなり。我いのちなれば死後に能くひざうせらるべし

  • 正月には、秀吉拝領の「鎬藤四郎」とこの三腰のいずれかを差している。

    公毎年元日ニハ白綾ノ御小袖ニ菊桐ノ御紋付クルヲ召サセラル、御長袴ノ上ニ御小サ刀鎬藤四郎ノ御小脇指ヲ指セラル。一年ノ元日嗣君御座ノ間ニ於テ畢テ公仰セラルハ、家ノ佳例ニテ此白綾エ菊桐ノ紋付ケル小袖長上下小サ刀ニ、近年ハ、此鎬藤四郎ノ小脇指ヲ指ス、刀ハ景秀、亘理来、鎺国行ナリ、此三腰ハ何レモ劣ラヌ大役、身ヲ放タヌ重宝ノ道具ナリ。吉光ハ太閤ヨリ御遺物ニ賜ル。天下ノ大名官位ヲ以テ、御自筆ノ御書立ニハ遥ノ末ニアレトモ、御道具ハ大神君、加賀ノ利家、我等三人ハ優劣ナシ。分テ首尾アリテ拝領ス。世間ニカクレ無キ事ナリ。公方ヨリ内々御所望アレトモ進上セス。伊達ノ家アラン限リハ段々譲リ秘蔵セラルベシ。

  • 振分髪正宗」にも逸話を残すが、これは江戸時代後期に伊達家に入ったものとされている。
  • 晩年には「秋保瀬登丸」が秋保家から献上されており、その他「池田正宗」や片倉小十郎に下賜した「立割真守」などの逸話に登場する。
  • 政宗が没した際、太刀・脇差が副葬されたと記録されている。

    (寛永十三年六月)四日丁巳、御遺骸御束帯石櫃ニ藏メ、陸奥國宮城郡仙台城巽経峰ニ葬リ奉ル。石櫃ニ御具足御太刀御脇差ヲ入ル。

    そくたいの御しようぞく。御かぶりめさせ、かわをの御太刀はかせ申。本の御のり物に入奉り。御そばに御具足・かぶと・御たち・御こしの物・御わきざしを入れ。人しずまりて後。御白より南あたごのわきにけんごの地を見たて云々

    くろんぼ斬景秀」「亘理来国光」「鎺国行」の三腰は明治まで残っており、これらではないことは確定している。

 刀剣に対する考え方

  • 様々な言葉で刀脇指への心構えを説いている。

    脇指ハ鞘止メヲ能シテ下緒ヲ能ク帯ニ夾ムヘシ。或ハ鞘ハシリテ怪我ヲシ、鞘ナカラ抜ケテ怪我シタル事幾度モアリ、平生能ク心懸クヘシ。小脇指中脇指ノ外サスヘカラス。利方ニモ能ク、立廻リニモ能シ。野山ニテハ大脇指善シ

    刀脇指諸道具ノ長短等ハ皆其人々ノ得物次第ナリ。一概ニ言フヘカラス

    男ノ命ハ脇指刀ニ有リ。鞘ヲ能シテ刃ノヒケヌ様ニシ、常ニ子()タ刃ヲ付ケテ鞘止ヲシテ指スヘシ。主ノ為已カ為ニモ少シモ油断ハ物体ナシ(勿体無い参照)。打物スルニ少シモ心ニ懸ラス能仕オフスルナリ。惣シテ若キ者ナトノ心持ニ、一太刀ニテ打治メント思フヘカラス。一刀打テキレスンハタゝキ殺スヘシト覚悟スヘシ。是事大ノ心入ナリ

    さいゝ手打ち杯する時も、常によければ少も子細なし(略)常々ふだしなみならば用にたちおとるべし

  • 近侍する者たちの心構え

    惣シテ刀脇指ハ昼夜ニ限ラス抜キ見テ拭ヒ、刃ヲ手ニ当テナトシテ指シタルハ快シ。奉公人ノ刀脇指ヲモ常ニ見タキモノナレトモ、事モ無キニハ見ラレス。或ハ酒マキレナトニ抜テ見テ、善ハホメナトシ、少身者ナトノ拵ヘハ見苦クシテ、刃ヲ一種ニ嗜ミタルナトヲ見テハ、殊更ニホメ、或ハ能刀脇指持ツヘキ様ナキモノハ取ラセナトシ、折節加様ニスレハ何レモ能ク平生嗜ムモノナリ。身近キ衆歩行ノ者ナトハ常ニ我ガ指刀同前ナリ。我身ノ為メ許リニモ非ス。兎角其所ニ心懸ケアレハ、オノツカラ人モマネテ不用心ナル事ナキモノナリ

    酒心にかづけにして、諸人の刀脇指をみるは、たしなみぶたしなみの為なり。定めて下々にては酒の上には、例のくせ事と申べけれ共、さはなきぞ

    • 酒の席で部下の刀をチェックするのは、普段なにもない場面ではいくら奉公人といえどもみれないためであって、決して趣味でやっているのではないという。徒士衆などで相応の刀脇指が指せないのは大将に嗜みがないせいであり、そのために良い刀脇指は褒めるなどして関心をもたせることも必要だと説いている。


 系譜

 茂庭綱元   原田宗資
  │      ├──原田宗輔(原田甲斐)
 香の前   ┌津多
  ├────┴亘理宗根
  │      │
  │亘理重宗─┬娘
  │     └亘理定宗┬[弟]伊達宗重(伊達安芸、涌谷伊達氏2代)
  │          └伊達宗実
  │勝女姫         │
  │ │    ┌────岑姫
  │ ├────┴────伊達宗勝(伊達兵部、一関伊達氏)
  │ │                 ├──伊達宗興(小倉藩小笠原忠雄預り) 
  │ │  ┌立花宗茂(柳川藩初代)   │   │
  │ │  └立花直次───┬立花種次──娘  姉小路公景四女(酒井忠清養女)
  │ │          │(筑後三池藩初代藩主)
  │ │   松平忠輝   │
  │ │    │     └立花忠茂(柳川藩主2代)
 伊達政宗  ┌五朗八姫          ├───立花鑑虎(柳川藩主3代)
  │ │  │              │
  │ ├──┤池田輝政─┬池田光政  ┌鍋姫
  │ 愛姫 │     └振姫    ├虎千代丸(早世)
  │    │       ├────┴伊達光宗(正保2年没)
  │    │       │ふさ  ┌田村宗良(はじめ鈴木重信養子、のち田村氏)
  │    │       │├───┴伊達宗規(岩谷堂伊達氏3代)
  │    ├──────伊達忠宗(仙台藩主2代)
  │    └伊達宗綱   ├─────伊達綱宗(仙台藩主3代)
  │            │      ├─────伊達綱村(仙台藩主4代)
  │     櫛笥隆致─┬貝姫     三沢初子
  │          │
  │          └櫛笥隆子
  │            ├─────後西天皇(第111代)
  │           後水尾天皇(第108代)
  │
  ├────┬伊達秀宗(宇和島藩初代藩主)
 新造の方  └伊達宗清(吉岡伊達氏当主)

 愛姫

  • 天正7年(1579年)には仙道地域(福島県中通り。阿武隈地方)の戦国大名であった三春城主田村清顕の娘愛姫を正室に迎えている。
  • 愛姫との間に、五郎八姫、伊達忠宗、伊達宗綱をもうけた。五郎八姫は松平忠輝室となるも、忠輝改易後に離縁。その後は仙台で過ごしている。
  • 忠宗は仙台藩2代藩主。宗綱は岩ヶ崎伊達氏初代当主となっている。
  • 忠宗の六男綱宗は3代藩主となるが、若年でもあり叔父を始めとした政治干渉や家臣団の対立が起こり、伊達騒動を引き起こした。

 側室:新造の方

  • 伊達秀宗は庶長子で、のち別家を認められ宇和島藩初代藩主となる。
  • 伊達宗清は飯坂宗康養子となり、吉岡伊達氏当主となる。

 側室:香の前

  • 元は秀吉の愛妾。
  • 政宗の重臣茂庭綱元に下賜されるも政宗が奪いとったという。
  • 2人の子を産んでおり、うち男子は亘理氏18代当主・亘理重宗の末娘の婿に迎えられて亘理宗根を名乗り、高清水城主となり、高清水亘理氏(のちの佐沼亘理氏)初代当主となっている。
  • 香の前の男子の方は柴田郡船岡城主・原田宗資に嫁ぎ、嫡男の宗輔を産んでいる。この宗輔が「牛王吉光」を所持した原田甲斐である。

 逸話

 酔余口号(すいよこうごう)

  • 戦国の生き残りとして武勇伝を誇った政宗だが、一方で料理や文芸にも深い理解を示し、数々の詩歌を残している。中でも高名なのが晩年の作「酔余口号」である。

    馬上少年過(馬上少年過ぐ)
    世平白髪多(世、平らかにして白髪多し)
    残躯天所赦(残躯天の赦す所)
    不楽是如何(楽しまざるを、是、如何んせん)
     
    四十年前少壮時(四十年前少壮の時)
    功名聊復自私期(功名(いささ)()た自ら(ひそか)に期す)
    老来不識干戈事(老来(ろうらい)識らず干戈の事)
    只把春風桃李巵(只把(ただと)る春風桃李の(さかずき)

    • 現在仙台市博物館所蔵の「伊達政宗画像」(狩野安信)の左肩には、儒学者の酒井伯元がこの「酔余口号」を書き添えている。

 自筆の絵

  • 伊達政宗自筆の絵が二点あると伝わっていたが、所在が確認できなかった。
  • 2015年10月、このうち一点が見つかった。梅の枝に雀が二羽止まる様子が描かれたもので、掛け軸を納めた箱には金泥で「御絵 梅ニ雀」、裏には「貞山公御自筆梅雀画 馬場出雲拝領」との短冊が貼り付けられている。※馬場出雲は藩士馬場出雲親成。

 白装束・鶺鴒の目

  • 大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭した。
  • さらに証拠の文書を突きつけられた際は、証拠文書の鶺鴒の花押の目にあたる部分に針の穴がない事を理由に言い逃れを行なっている。

 臥龍梅

  • 一国一城令が敷かれる中、隠居城として若林城を築いている。この若林城は現在宮城刑務所として使われているが、ここに文禄2年(1593年)の文禄の役の際に朝鮮から持ち帰ったという「臥龍梅」(古城の朝鮮ウメ)が残る。現在国の天然記念物に指定されている。
    幕府からの若林に別業建築の許可は寛永4年(1627年)2月23日。5月27日に若林の普請工事を命じている。

    死の直前、若林城の取り壊しを命じており、さらに2年後に築城される仙台城の二の丸にはこの若林城の遺構がいくつか移築されたことが判明している。

 黒脛巾組

  • 黒脛巾組(くろはばきぐみ)は伊達政宗が組織したという忍者集団。出羽三山系の修験者とされる。

    政宗公兼て慮りあって。信夫郡鳥屋の城主安部対馬重定に命じて、鼠になれたる者50人をえらみ。扶持を与へ。これを黒脛巾組と号す。柳原戸兵衛・世瀬蔵人と云ふ者を首長とし、安部対馬之を差引

 凍り豆腐と納豆(ずんだ)

  • 料理の趣味も持っており、元々は兵糧開発が主眼であり岩出山名物の凍り豆腐と納豆(ずんだ)は政宗の研究の末に開発されたものであったという説が有名である。
  • また政宗公御名語集には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という言葉もある。これは後世の多くの料理人に感銘を与え、現代でも校訓として引用されるほどである。
    ただし現代の研究では、東北地方の太平洋岸で枝豆栽培が発展したのは江戸時代以降のこととされる。江戸初期は上方からの「下り醤油」が大半で、享保期でも下り醤油が8割弱を占めたという。江戸中期以降ようやく千葉の野田や銚子で醤油生産が盛んになるにつれ、その後背地である東北太平洋岸で大豆生産が奨励されたことから始まったのだろうとされており、ずんだ餅が伊達政宗の発明であるという説は明確に否定されている。


 仙台藩

 一門(11家)

  • 本来は伊達氏と対等の大名で伊達氏に帰順した家系。
石川氏
角田石川氏。角田1万2千石の領主。伊達晴宗の四男が石川晴光の養嗣子となり石川昭光を名乗る。一時甥にあたる政宗と対立するが、天正17年(1589年)の摺上原の戦い以後伊達氏に属する。
亘理伊達氏
伊達成実を祖とする。伊達政宗の九男宗実が継いだ。
水沢伊達氏
留守氏。政宗の叔父にあたる留守政景が伊達姓を与えられたのに始まる。寛永6年(1629年)政景の子・宗利が胆沢郡水沢城主となり、以降幕末まで同地を治めた。
涌谷伊達氏
亘理氏。亘理氏第19代当主の定宗が、「竹雀紋」および「竪三引両紋」を下賜されて伊達姓を名乗ることを許され、伊達定宗と名を改めたのに始まる。伊達安芸を代々通称とする。
登米伊達氏
白石氏。古くに伊達氏第4代当主の伊達政依の子宗弘を養子に迎えている。白石宗直が政宗から伊達姓を与えられ一門に列せられるが、その子の宗貞のとき、一時伊達姓を没収され一家に落とされる。嗣子がいなかったため、3代および4代当主に忠宗の四男、五男が入り、一門へと復している。
岩谷堂伊達氏
岩城氏。初代政隆は岩城常隆の子であったが、秀吉の横槍もあったため岩城氏は佐竹義重の三子貞隆が継ぐこととなり政隆は追放される。祖父岩城親隆が伊達晴宗の長男という関係から伊達家を頼り、のち清水に知行を得、慶長15年(1610年)に伊達姓を賜って一門に列した。
宮床伊達氏
田手氏。伊達朝宗の六男に始まる家系。仙台藩3代藩主綱宗の代に一門に列せられる。4代藩主綱村が隠居させられると、宮床伊達氏の吉村が5代藩主となった。
岩出山伊達氏
伊達政宗の四男宗泰に始まる家系。慶長8年(1603年)、政宗が岩出山城から竣工した青葉城へと居城を移した際に宗泰が岩出山城を与えられたのに始まる。
川崎伊達氏
3代藩主綱宗の次男村和に始まる家系。5代藩主吉村の代に一門に列せられる。
真坂白河氏
下総結城氏の庶流。白河結城氏一族・小峰義名の子として生まれた白河義綱が伯父・結城義親の婿養子となるが奥州仕置で改易となり、伊達政宗の客分となる。義綱の子の白河義実の正室高流院が4代藩主綱村の乳母となり、のち一門に列せられる。
三沢氏
3代藩主綱宗の側室で、4代藩主綱村の生母となった三沢初子の弟三沢宗直が召しだされ延宝3年(1675年)に一門に列せられた。また三沢初子の末子伊達宗贇は、伊予宇和島2代藩主伊達宗利の次女と結婚してその婿養子となり、伊予宇和島藩3代藩主となっている。
一関伊達家
政宗十男の伊達宗勝。万治3年(1660年)に、宗勝は3万石の分知を受けてこの地に陣屋を置き、仙台藩の内分分知大名として一関藩が成立した。寛文11年(1671年)に伊達騒動が起きると宗勝一派は失脚、宗勝は土佐藩お預けとなり宗勝家は断絶する。一関藩は改易となり仙台藩に収公されるが、延宝9年(1681年)に田村建顕(宗永)が陸奥岩沼より移封され再び一関藩が立藩されている。
  • これら一門のうち、伊達宗勝と田村氏は内分分知の大名身分として特別な地位にあった。万治3年(1660年)に3代藩主伊達綱宗が隠居させられたとき、幕府は後見になった一門の一関伊達家の伊達宗勝と田村宗良を伊達氏の領分の中で3万石の大名にするよう命じている。宗勝は後に失脚するが、田村氏の方は存続し、将軍から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村に与えることが明記された。
    三春田村氏の田村清顕は、娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせることで生き残りを図るが、清顕の死後に家中は伊達派と相馬派に分裂する。奥州仕置で三春の地は伊達領となり田村氏は改易となる。清顕の甥宗顕は復領を目指して蒲生氏郷を頼るが病死し、田村家は断絶した。実家の断絶を悲しんだ愛姫の懇請により、伊達忠宗の三男で愛姫の孫である宗良が岩沼藩3万石田村氏として再興する。この宗良の子である田村建顕の時に岩沼から一関3万石へと移封され幕末まで存続した。

 一家(17家)

  • 古くからの伊達氏の家臣、古くに分家した家系。
  • 鮎貝、秋保、柴田、小梁川、塩森、大条、泉田、村田、黒木、石母田、瀬上、中村、石川、中目、亘理、梁川、片倉の17家。
  • この秋保氏は「秋保瀬登丸」で登場し、瀬登丸を献上したことからこの恩賞として、翌寛永3年(1627年)伊達家の年始規式より、それまで御一家十番目であった秋保氏の席次は二番目(右上席)へと昇格した。

 準一家(10家)

  • 戦国大名の分家や有力家臣で、政宗の代までに伊達氏に仕えた家系。
  • 猪苗代、天童、松前、葦名、本宮、高泉、葛西、上遠野、保土原、福原の10家。

 一族(22家)

  • 古くからの家臣で、一家に及ばない家系。

 実紀

(慶長11年是年)このころ伊逹越前守政宗がもとにならせ給ふ。數寄屋にて御茶を獻ず。政宗に長光の御刀。その子總次郎に大原貞守の御刀來國俊の御さしぞへをたまふ。

(慶長12年2月)日伊達越前守政宗櫻田の邸に。大御所臨駕したまふ。政宗いかにもして御心をなぐさめ奉らんと。圍棋の妙手本因坊算砂。林利玄。中村道碩。象棋師大橋宗桂等をめしあつめ御遊を催す。政宗へ長光の御刀。其子虎菊丸へ大原貞守の御刀を賜ふ。

(慶長15年10月)六日江戸にては御所松平陸奧守政宗が邸に臨駕し給ひ御茶宴あり。政宗が嫡子總次郎へ。來國俊の御差添をたまふ。

(慶長18年正月7日)松平陸奧守政宗の子美作守忠宗參り謁す。政宗に海鼠腸をたまはる。

(慶長16年4月)池田少將輝政が女は。大御所御外孫なれば。松平陸奧守政宗が嗣子虎菊定婚の事を。おかぢの局に仰下さる。先に局のうめる市姫君を虎菊に定婚ありしに。姫君世を早くし給ひて。局ふししづみなげきにたえざる故に。大御所かくは命ぜられしなり。

(慶長11年3月)伊達越前守政宗に常州信太。筑波。河内三郡のうち。龍が崎にて芻牧の地一万石を賜ふ。

(慶長18年是月)松平陸奧守政宗の女。上總介忠輝朝臣へ婚嫁のため越後へ入輿あり。

(寛永元年3月)廿日伊達宰相政宗の邸にはじめてならせらる。甲府中納言忠長卿及び丹羽宰相長重。朽木信濃守元綱入道牧齋陪從す。申樂。翁。三番叟。白樂天。忠度。松風。三輪。黒塚。鵺。志賀。政宗に元重の御太刀。貞家の御刀。志津の御脇差。御馬一疋。時服百。銀二干枚賜ひ。子美作守忠宗には一文字の御刀。御太刀一腰。御馬一疋。時服二十。銀三百枚。女子等にも綿二百把。銀百枚給ひ。政宗よりも豐後行平太刀光忠の刀。國次の脇差。小袖百。虎の皮十枚。鞍馬二疋銀干枚を獻ず。

 政宗:寛政重脩諸家譜

  • 慶長3年(1598年)8月太閤遺物「鎬藤四郎
  • 慶長7年(1602年)9月秀忠御成「御刀御脇指等を拝賜す」
  • 慶長11年(1606年)娘が忠輝に嫁あす。「御刀及び時服」
    • この年秀忠御成「長光の御刀を賜はる」
  • 慶長13年(1608年)正月「松平」称号、「来国光の御刀をたまふ」
  • 寛永元年(1624年)2月20日家光初めて御成。「元重の御太刀貞宗の御刀、志津の御脇指」、政宗より「豊後行平太刀光忠の刀、国次の脇指」を献ず。
  • 寛永5年(1628年)3月12日御成。「御太刀一腰」
  • 同26日家光茶宴。政宗に「御太刀一腰」
  • 寛永7年(1630年)4月6日家光御成。「貞宗の御脇指」
  • 同11日秀忠御成
  • 寛永12年(1635年)正月28日二の丸数寄屋。侘助肩衝茶入を賜り、長光の刀、久国の脇指を献ず。
  • 同年6月20日帰国の暇たまう土岐、「當麻の御刀」を拝領。

 忠宗:寛政重脩諸家譜

  • 慶長4年(1599年)12月8日大坂にて東照宮より「御刀」
  • 慶長8年(1603年)正月伏見にて「信国の御刀、左安吉の御短刀」を賜う
  • この月江戸に参りて、秀忠に拝謁し、「守家の御刀、真長の御短刀」を賜う
  • 慶長15年(1610年)「来国俊の御刀」を賜う
  • 慶長16年(1611年)12月13日江戸城の秀忠の前で元服し、忠宗と名乗る。この日「三原正家の御刀」を賜う。従五位・美作守に叙任される。
  • 元和3年(1617年)12月13日入興。18日父と共に登城して「長光の御刀、太鼓鐘。貞宗の御脇指」を賜う
  • 元和5年(1619年)3月父の邸に渡御の時、「包永の御刀」を拝賜す。
  • 元和6年(1620年)10月江戸城石垣普請で、政宗在国のため代わりに努めたために「大倶利伽羅廣光の御刀」をたまい。
  • 元和7年(1621年)12月20日秀忠渡御ありて「貞宗の御刀」を拝賜
  • 寛永元年(1624年)2月20日家光御成。「一文字の御刀、御太刀一腰」、忠宗より「太刀
  • 寛永元年(1624年)6月23日両御所仰せにより「越前守」に改め、家光より「無銘の御腰物」をたまう
  • 寛永2年(1625年)4月24日初めて封地へのいとま賜う時に、秀忠より「貞宗の御脇指」、家光より「保昌五郎の御刀」をたまう。
  • 寛永3年(1626年)上洛にしたがい従四位下少将。
  • 寛永11年(1634年)6月予め京都に赴いて参内。院の御所より「吉備前の御太刀」をたまう。
  • 寛永13年(1636年)7月21日襲封を謝し、「父が遺物正宗の刀、鎬藤四郎の脇指」を献ず。
  • 同8月10日帰国の暇たまい、「守家の御刀」をたまう。
  • 寛永15年(1638年)4月14日「陸奥守」に改め、「来国光の御刀」を賜う。

 東武実録

  • 元和2年(1616年)3月7日、松平陸奥守政宗、(略)御遺物トシテ清拙ノ墨跡ヲ政宗ニ賜ル
  • 元和2年(1616年)3月是月、伊達遠江守秀宗駿府ニ参覲ス時ニ大御所ヨリ御脇指貞宗御馬鹿毛ヲ秀宗ニ賜ル

 綱宗:寛政重脩諸家譜

  • 承応3年(1654年)12月22日家綱の御前にて元服し、綱宗と名乗る。「備前正恒の御刀」を賜う
  • 万治元年(1658年)9月8日襲封の挨拶で、父の遺物「當麻の刀、侘助の茶入」を献ず

 名語集

  • 伊達政宗にはいわゆる名語集と呼ばれる政宗の言行録というべき書物がある。
  • 刊行本としては、古くは大正年間に刊行された「仙台叢書 第一巻」(仙台叢書刊行会)に納められたものがある。
    • 仙台叢書 第一巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

      名語集
      此書は。伊達政宗卿の言行を記したるものなり。元禄十六年に編輯の成りし。伊達家の治家記録の引用書目に。
       一名語集又命期集トモ有リ作者不知或ハ是モ伊達成實ノ記ナルトモ云フ
      とあり。御命語集ともあれど。卿の言行を載せらるものなれば。名語集が正しきなるべき。命語とは末に卿の臨終の情態を記したれば。耳にめいごと聞ゆるを。命期に思ひ寄せたるなるべし。

  • これを「仙台郷土資料」第3巻で引用したのが小倉博氏である。
    • 仙台郷土資料 第3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

      解説
      政宗公御名語集は伊達家四代治家記録の引用書目中に「一、名語集又命期集トモ有リ作者不知或ハ是モ伊達成實ノ記ナルトモ云フ」とあるやうに、單に名語集とも命期集ともいひ、又明語集と題した本もある。この書の前半の大部分が政宗卿の噺であるから、これに依つて名語集又は明語集といひ、後半は卿の臨終薨去に關することを記してあるから、これに依つて命期集といふのも、謂はれの無いことではない。

      小倉博(おぐら ひろし):国文学者。歌道や仙台に関する著作のほか、奥浄瑠璃に関しても著作がある。小倉博 - 近代文献人名辞典(β)
       小倉家は仙台名取郡の大肝煎で醸造家。小倉三五郎のあと、孫に実業家で歌人の小倉長太郎(茗園)がおり、その子らはすべて東京大学に進学し業績を残した。小倉博の弟に、言語学者の小倉進平、海洋学者の小倉伸吉、地質学者の小倉勉、建築家で東北大学教授の小倉強、植物学者の小倉謙がいる。
  • さらに昭和62年(1987年)に高橋富雄氏による「伊達政宗言行録 : 政宗公名語集」(宝文堂出版販売。小倉博 編, 高橋富雄 新訂)としてまとめられた書籍があり、現代に読む書籍としては一番違和感なく読める内容となっている。
    • 伊達政宗言行録 : 政宗公名語集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

      一 新本の成立事情
       この本は、『政宗公御名語集』と題し、昭和十年、故小倉博氏が「仙台郷土資料」の一冊として、仙台無一文館より刊行したるものを底本としている。ほぼこれにより、ただ、これに句読点を数多く加えて、読みやすくしているところが異なるおもな点である。
       ただし、その原本とされる『仙台叢書』第一巻所収本により若干訂正し、さらに私見により、わずかに部分的に字句の読みまたは書法を改めたところがある。でもそれは、今日の慣行に合せたものが大部分である。
      (略)
       しかし小倉氏は採長補短の見地から、文意が通じるように補訂されており、それは、この方面の学問に詳しい氏が、別の写本によって校訂されているところと受けとらなければならないものである。仙台叢書以外対校本を持たない新板編者としては、みだりにこの権威の批判に及ぶべきではないと判断し、叢書本と異なる部分については、明瞭な誤字・脱字・脱文を除き、ほぼ底本に従っている。

      高橋富雄(たかはし とみお)日本史学者。東北大学名誉教授、福島県立博物館名誉館長。2013年没。
  • ここではこれらの経緯がまとめられているだけではなく、原著者に関する考察も行われている。さらに「名語集」あるいは「政宗記」という書名の関連性についても整理されている。
  • また著者についても、原著者である伊達成実のまとめた書籍を「名語集」化するにあたって、「小川」なる侍女の手によるものではないかとする小倉博氏の説を紹介している。

 関連項目


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