大国吉


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  • 同名2口あり、享保名物帳焼失の部と、追加の部に記載されている。
  1. 名物焼失:銘「国吉」一尺二寸二分
  2. 名物追加:銘「左兵衛尉国吉」弘安年紀銘。一尺七寸五分
Table of Contents

 大国吉(おおくによし)


国吉
名物 大国吉
一尺二寸二分

 由来

  • 大きさゆえの号
    というが、小夜左庵国吉(二尺三寸九分)、鳴狐(一尺七寸八分)などもあり、特に大きいとはいえない。詳註刀剣名物帳に「この刀も由来分らず」と記すとおり、由来についてはよくわからない。次の「左兵衛尉国吉」銘の大国吉についても同じ。

 来歴

  • 大坂落城で焼失。


 大国吉(おおくによし)


銘 左兵衛尉国吉
名物 大国吉
一尺七寸五分

  • 粟田口国吉
  • 享保名物帳名物追加

    大国吉 長一尺七寸五分 大久保加賀守殿
    平造り上々の脇差也、左兵衛尉國吉、弘安の年號あり。

  • 詳註刀剣名物帳

    此の大久保加賀守は徳川家初期の元老たりし相模守忠隣の子忠常なり、初め新十郎のち加賀守、執政となる。此國吉は来の元祖國吉にあらず、粟田口則國の子の國吉なり、元久に生れ文永に死すと古刀大全にあり、弘安は文永より十五年後なれば大全の記す處誤りなるべし。

    元久年間は1204~1206年。文永年間は1264~1274年。弘安年間は1278~1287年。粟田口国吉には弘安銘が複数あるため、古刀大全の「文永に死す」という記述が誤りであるという内容。

 由来

  • 大きさゆえの命名
  • 銘が「左兵衛尉国吉」と長銘であり、弘安の年記銘がある。

 来歴

  • 相州小田原の大久保家伝来で、その後の行方が不明。

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