豊臣秀吉

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豊臣秀吉(とよとみひでよし)  

木下藤吉郎
羽柴秀吉
筑前守、従五位下・左近衛少将
従四位下・参議
従三位・権大納言
正二位・内大臣
従一位・関白、太政大臣
太閤、豊太閤、猿、禿げ鼠
豊国大明神

Table of Contents

生涯  

  • 天正元年(1573年)ごろ羽柴秀吉を名乗る。
  • 本能寺の変以後の年表
  1. 【天正10年(1582年)】:本能寺の変、山崎の合戦
  2. 【天正11年(1583年)】
    ・4月:賤ヶ岳の合戦
    ・5月:家康より戦勝記念として「初花肩衝」、秀吉から「不動国行」と「白雲の大壺」を贈る ※あるいは8月
    ・5月25日:秀吉茶会。幽斎、滝川一益、宗易
    ・7月2日:秀吉茶会。宗易、宗及
    ・7月6日:秀吉茶会。宗及
    ・7月7日:秀吉茶会。宗易、宗及、宗久、松井友閑、荒木道薫、宗二
    ・7月11日:秀吉茶会。宗及
    ・7月20日:秀吉茶会。宗易
    ・8月13日:秀吉茶会。宗易、宗及
    ・9月:大坂城築城開始(本丸築造)
    ・9月16日:御道具揃茶会。宗及、宗易、松井友閑、宗安、荒木道薫
    ・9月:妙顕寺跡に妙顕寺城(二条新邸)を建築
    ・9月:大坂平野郷住民の移住、町割り
    ・10月:京都に新邸を営む
    ・10月3日:毛利家からの人質である小早川元総(毛利秀包)、吉川経信(吉川広家)が大坂城で秀吉に謁見、天守を見物。広家は11月に安芸帰国。
    ・10月4日:秀吉茶会。荒木道薫、宗易
    ・10月5日:秀吉茶会。前田利家、滝川一益、宗易
    ・10月6日:秀吉茶会。幽斎、宗安、宗甫
    ・10月7日:秀吉茶会。瀧川入道(滝川一益)、宗及
    ・10月15日:秀吉茶会。宗易、宗久、宗及(茶頭)、その他
    ・10月15日:秀吉茶会。松井友閑、武田佐吉
    ・10月19日:秀吉茶会。筒井順慶、高山右近、蒲生氏郷
    ・10月21日:秀吉茶会。秀長、堀秀政、長谷川秀一
    ・11月11日:秀吉茶会。三河衆、石川数正、休庵、森長可、滝川雄利、富田知信(一白)、津田隼人、荒木道薫、宗及
    ・12月10日:終日茶湯。宗易、宗及(茶頭)
  3. 【天正12年(1584年)】
    ・正月3日:山里曲輪にて秀吉茶会。宗易、宗及
    ・2月15日:秀吉茶会。宗及
    ・2月21日:秀吉、信雄に「京極茄子」、井戸茶碗「筒井」、台天目を贈る
    ・2月24日:秀吉、信雄と茶会
    ・4月:小牧・長久手の戦い起こる
    ・6月:美濃墨俣にて茶会。宗無、宗二、宗及
    ・10月7日:山里曲輪にて秀吉茶会。宗及
    ・10月10日:大坂屋敷にて茶会。宗及
    ・10月14日:山里曲輪にて秀吉茶会。宗易、幽斎、宗二、安津、小寺休夢斎
    ・10月15日:秀吉大坂屋敷にて終日茶会
    ・11月:信雄と単独講和
    ・11月21日:秀吉、従三位権大納言に叙任(公卿)
    ・11月22日:秀吉茶会。宗及
    ・12月1日:山里曲輪にて秀吉茶会。宗及
  4. 【天正13年(1585年)】
    ・正月17日:有馬湯治
    ・正月19日:秀吉茶会。石川数正、宗易、宗及
    ・2月:「茶道具之記」秀吉御物

    天正十三 二月上旬注之 秀吉様御物

    ・2月21日:「京極茄子」「槌花入」を信雄に贈る、22日松井友閑邸
    ・2月24日:山里曲輪茶会。信雄、織田有楽斎
    ・2月25日:上洛
    ・3月:仙洞御所造営
    ・3月8日:大徳寺総見院で紫野大茶湯大徳寺大茶会) ※3月5日?
    ・3月10日:秀吉、正二位内大臣に叙任
    ・3月21日:紀州雑賀征伐に出陣、千石堀城の戦い、積善寺城の戦い
    ・4月:大坂城本丸完成
    ・4月:本願寺に天満の地を与え移す
    ・4月27日:下間頼康、大坂城天守、風呂を見物
    ・4月28日:秀吉茶会。下間頼康、宗易
    ・4月:高野山降伏、4月22日太田城開城で紀州征伐終了
    ・5月2日:大友宗麟より「新田肩衝」「似たり茄子」献上、「野洲井茶碗」を贈る
    ・6月:四国征伐開始、7月25日降伏、8月6日講和
    ・6月12日:茶会。本願寺顕尊佐超(顕如次男)
    ・6月27日:茶会。本願寺教如
    ・6月27日:本願寺顕如、大坂城天守を見物(秀吉不在)
    ・7月11日:近衛前久の猶子となり、従一位、関白宣下、内大臣如元
    ・8月:富山の役(越中佐々成政)
    ・9月8日:秀吉茶会。本願寺顕如、教如、顕尊
    ・9月27日:「骨喰藤四郎」献上の礼状
    ・10月:長宗我部元親・信親、秀吉に謁見、天守見物
    ・10月2日:島津宛私闘禁止書状(惣無事令)
    ・10月7日:禁中茶会。正親町天皇、公家
    ・12月21日:小早川隆景、吉川元長が大坂城で秀吉に謁見、黄金の茶室拝見
    ・12月23日:大阪屋敷で秀吉茶会。小早川隆景、吉川元長
    ・12月24日:山里曲輪で秀吉茶会。小早川隆景、吉川元長
  5. 【天正14年(1586年)】
    ・正月16日:黄金の茶室を禁中小御所に運び茶会。正親町天皇、公家
    ・2月:聚楽第建設開始
    ・2月:大坂城二の丸建築開始(16年完成)
    ・2月:毛利・大友の和議成立
    ・3月:大友宗麟上洛
    ・4月:東山大仏殿建設開始
    ・4月5日:大友宗麟、大坂城で毛利との和議御礼と島津討伐を懇願、茶壺「志賀」献上、6日黄金の茶室拝見
    ・4月10日:島津討伐の準備を命じる
    ・5月:朝日姫が家康正室として嫁ぐ
    ・6月8日:秀吉茶会。榊原康政
    ・6月14日:上杉景勝初の上洛。黄金の茶室拝見。従四位下・左近衛権少将に叙任
    ・6月14日:秀吉茶会。上杉景勝
    ・6月16日:山里曲輪で秀吉茶会。上杉景勝
    ・6月:島津軍筑前侵攻、7月10日島津討伐決定、9月十河・長宗我部軍が大友軍に合流、10月毛利軍九州上陸
    ・7月25日:黒田官兵衛ら京都出発、8月に小倉着、8月23日に島津勢立花城から撤退、9月黒田ら立花城入城
    ・9月:大政所を人質として家康のもとに送る
    ・9月9日:秀吉、正親町天皇より豊臣の姓を賜る
    ・10月:家康が上洛し和議成立
    ・10月22日:島津義弘の軍勢が豊後侵攻
    ・10月28日:神屋宗湛上洛の旅に出発
    ・11月:家康配下武将に叙任
    ・11月:正親町天皇譲位、後陽成天皇践祚
    ・11月:堺の濠を埋める
    ・11月18日:神屋宗湛京都着、23日24日に津田宗及訪問、25日後陽成天皇即位式見物、12月3日大徳寺で出家「宗湛」を名乗る
    ・12月1日:秀吉、諸国に九州征伐の出兵命令
    ・12月12日:戸次川の戦い
    ・12月19日:内大臣辞職
    ・12月25日:太政大臣宣下
  6. 【天正15年(1587年)】
    ・元旦:九州征伐の部署を伝達し軍令を下す、正月25日に宇喜多秀家出陣、2月10日豊臣秀長出陣
    ・正月3日:大坂城茶会。神屋宗湛出席、宗久?
    ・正月:聚楽第作庭
    ・2月:聚楽第落成
    ・2月25日:山里曲輪で茶会、宗湛
    ・3月1日:秀吉、九州征伐に出陣、25日赤間着、4月10日筑後高良山、16日肥後隈本、19日肥後八代、25日肥後佐敷、26日肥後水俣、27日薩摩国内に進軍
    ・4月2日秋月氏より「楢柴肩衝」献上、道中にて本願寺より「鴫肩衝」献上、大友宗麟より「臼杵瓢箪」献上
    ・4月28日:茶会。宗湛
    ・5月:1日出水より阿久根に進軍、3日川内泰平寺、6日島津義久出家、8日島津義久(龍伯)泰平寺で降伏
    ・5月28日:肥後佐敷
    ・6月7日:筑前筥崎八幡宮で九州国分令、8日宗湛筥崎に参上
    ・6月10日:博多
    ・6月15日:対馬宗家に安堵、朝鮮国王参洛交渉を命ず
    ・6月15日:島津義久上洛。八代、高瀬、高良山、24日岩屋、25日博多。秀吉に拝謁。29日下関(義久夫人、久保、島津彰久合流)、7月10日堺
    ・6月19日:筑前筥崎にてバテレン追放令(「天正十五年六月十八日付覚」、「吉利支丹伴天連追放令」)、同日宗湛、宗室と茶会
    ・6月25日:宗湛、筥崎にて茶室を設け秀吉を招き茶会
    ・6月25日:秀吉朝茶会。島津義久、伊集院忠棟
    ・6月:秀吉茶会。斯波三松、小寺休夢斎
    ・7月2日:筑前筥崎を出発し帰京
    ・7月3日:赤間ヶ関着、豊前仕置
    ・8月15日:肥後にて国人一揆
    ・9月13日:秀吉、聚楽第に移る
    ・9月17日:博多の神屋宗湛宛に秀吉の書状が届く
    ・10月1日:北野大茶湯、「北野大茶湯之記
    ・10月1日:城井鎮房、官兵衛留守中の豊前で反乱、12月下旬降伏。16年4月20日豊前中津城で謀殺
    ・10月8日:宗湛上洛、聚楽第で秀吉に謁見
    ・10月15日:聚楽第にて茶会、宗湛 14日?
    ・10月12日:細川幽斎茶会
    ・10月14日:秀吉茶会、宗湛
    ・10月21日:大坂城山里曲輪にて茶会、宗及、宗湛。終日雑談す
    ・12月:伊達氏、最上氏、後北条氏など関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令
  7. 【天正16年(1588年)】
    ・1月13日:足利義昭、征夷大将軍職を返上
    ・3月5日:秀吉茶会。大友義統
    ・3月21日:秀吉茶会。
    ・3月23日:筥崎陣屋秀吉茶会。輝元、道三、宗湛、宗室、宗是、武士衆
    ・4月2日:長崎を蔵入地とする(奉行鍋島直茂)
    ・4月14日:聚楽第行幸
    ・5月15日:東山に大仏殿居礎の儀
    ・閏5月:島津家の人質交代。義久→義弘。先月5月26日飯野発、閏5月3日徳之口、17日鞆の浦、21日兵庫、23日堺
    ・閏5月14日:佐々成政切腹、15日肥後は加藤清正と小西行長へ
    ・6月4日:島津義弘、秀吉に謁見
    ・6月6日:山里曲輪で茶会。島津義弘、伊集院忠棟、幽斎、利休、宗及
    ・6月15日:上杉景勝二度目の上洛、従三位・参議に叙任、島津義弘従五位・侍従に叙任(7月に従四位下)
    ・7月7日:毛利輝元、小早川隆景・吉川広家と安芸吉田出発、23日聚楽第で秀吉に面会、25日参内(従四位下、参議に叙任)、26日浅野長政邸で能、27日宗及茶会、28日聚楽第茶会、30日宗及茶会(輝元公上洛日記)
    ・7月28日:刀狩令
    ・7月30日豊臣秀長邸御成。能。秀吉、信雄、家康、秀長、秀次、宇喜多秀家、景勝、輝元、蜂屋頼隆、細川忠興小早川隆景、島津義久、吉川広家、龍造寺政家、立花宗茂
    ・8月1日聚楽第諸大名出仕
    ・8月2日豊臣秀次邸御成。能。3日清水詣、4日聖護院門跡招待、5日浅野長政茶会、7日利休茶会、12日前野長慶、津田宗及茶会。14日豊臣秀次茶会、15日豊臣秀長茶会、20日津田宗及茶会(輝元公上洛日記)
    ・8月22日:聚楽第にて北条氏規と対面関白、(公家衆)、尾張内大臣(信雄)、駿河大納言(家康)、大和大納言(秀長)、備前宰相(秀家)、越後宰相(景勝)、安芸宰相(輝元)、津少将織田上野介(信包)、丹後侍従(忠興)、南寸野侍従(長谷川秀一)、岩倉侍従(毛利秀頼)、伊賀侍従筒井(定次)、豊後侍従大友(吉統)、筑前侍従小早川(隆景)、新庄侍従吉川(広家)、北条美濃守(氏規)
    ・8月23日秀長邸(輝元公上洛日記)
    ・9月8日:秀吉大坂城
    ・9月10日:宇喜多秀家邸御成関白、公方様(足利昌山)、金吾、安芸宰相、大和中納言、備前宰相、薩摩侍従、筑前侍従、新庄侍従
    ・9月11日:島津義久大坂発、薩摩へ帰国
    ・12月3日:「太閤御物刀絵図」石田本
  8. 【天正17年(1589年)】
    ・正月21日:浅野長政邸御成
    ・5月:淀城にて鶴松誕生
    ・5月20日:諸将に金2000枚、銀2万5千枚を分配
    ・8月:島津義弘、義久と交代で帰国。義久上洛。
    ・11月24日:小田原に宣戦布告、諸大名に出陣命令
  9. 【天正18年(1590年)】
    ・正月14日:妹朝日姫死去。
    ・2月~:小田原征伐
    ・2月:毛利輝元上洛(留守預)~翌年2月
    ・3月1日:秀吉出陣
    ・5月29日:小田原にて茶会。六角義治、真木島昭光、宗凡
    ・7月5日:北条氏降伏
    ・7月8日:聚楽第茶会。輝元、春世、道与、宗凡
    ・7月9日:聚楽第茶会。桑山重晴邸、輝元、宗凡
    ・7月11日:聚楽第茶会。藤堂高虎邸、輝元、宗凡
    ・7月13日:家康を江戸に移す
    ・8月:母大政所の墓所として総見院の横に金鳳山天瑞寺を創建し落慶。
    ・8月9日:会津黒川城に入り、奥州仕置
    ・9月1日:帰洛
    ・9月18日:毛利邸御成、「一期一振」献上
    ・9月23日:聚楽第で茶会。黒田如水、宗和、宗凡
    ・10月4日:秀吉茶会。利休、小早川隆景など
    ・洛中に御土居構築
    ・11月7日:朝鮮通信使引見
    ・12月20日:名護屋出陣に向け、立花らに準備を命ずる
  10. 【天正19年(1591年)】
    ・1月22日:豊臣秀長没
    ・2月13日:千利休を堺へ追放
    ・2月28日:千利休切腹
    ・8月:来春の唐入りを布告、那古屋城築造開始
    ・8月5日:鶴松没
    ・8月7日:清水寺で3日間籠もる、のち有馬の湯
    ・8月18日大坂帰着
    ・8月23日:小西行長に名護屋を検分するよう命ず
    ・9月16日:諸大名に朝鮮出兵の準備を命ず
    ・10月10日:名護屋城の築城開始
    ・12月:関白辞職、太政大臣如元
    ・12月27日:秀次、関白左大臣に叙任
  11. 【文禄元年(1592年)】
    ・1月5日:朝鮮出陣の発令
    ・3月26日:秀吉出陣
    ・4月13日:小西行長ら第一陣釜山上陸(文禄の役)
    ・4月17日:加藤清正ら第二陣釜山上陸
    ・4月18日:黒田長政、大友義統ら第三陣、毛利吉成ら第四陣慶尚道に上陸
    ・4月19日:小早川隆景(第五陣)、毛利輝元(第六陣)釜山上陸
    ・4月25日:秀吉、名護屋城着陣
    ・5月2日:小西、加藤ら漢城入城
    ・5月16日:漢城陥落
    ・5月28日:名護屋で秀吉茶会。宗湛
    ・5月29日:名護屋で秀吉茶会。宗湛、友阿弥(茶頭)
    ・6月16日:小西、宗、黒田ら平壌入城
    ・7月22日:秀吉、大政所重病の報せを受け、海路大坂へ向かう
    ・7月22日:大政所薨去
    ・10月1日:秀吉、再び名護屋へ出陣
    ・10月30日:宗湛、博多に秀吉を招き茶会
    ・11月8日:名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。宗湛、御伽衆
    ・11月14日:名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。宗湛
    ・11月15日:名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。宗湛
    ・11月16日:名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。宗湛
    ・11月17日:名護屋城山里曲輪の秀吉茶会。宗湛、堀監物、ほか三名
    ・12月8日:文禄改元
  12. 【文禄2年(1593年)】
    ・1月5日:正親町上皇崩御
    ・1月6日:明軍、平壌を包囲、10日小西・宗ら平壌脱出
    ・2月29日:加藤、鍋島ら漢城入り
    ・4月9日:名護屋城本丸にて能楽
    ・4月18日:漢城の日本軍、明使を伴い漢城を出る
    ・5月15日:石田、小西ら明使を伴い名護屋城へ
    ・6月28日:和議七か条を提示
    ・6月29日:明使名護屋城を発ち、朝鮮へ
    ・8月3日:秀頼(捨)誕生
    ・8月13日:名護屋城で四座の能楽
    ・8月15日:秀吉、海路大坂へ
    ・10月1日:拾と秀次の娘の婚約を決める
  13. 【文禄3年(1594年)】
    ・正月:指月伏見城築造開始
    ・春:吉野山大花見
    ・6月14日:「太閤御物刀絵図」毛利本
    ・8月:指月伏見城落成
    ・10月28日:聚楽第近くの上杉邸に御成(庖丁藤四郎三本寺吉光
  14. 【文禄4年(1595年)】
    ・5月12日:「太閤御物刀絵図」大友本
    ・6月:秀次謀反の疑い、8日秀次の官職を奪う、7月15日秀次切腹、8月2日三条河原で秀次側室・侍女ら処刑
  15. 【慶長元年(1596年)】
    ・5月8日:家康正二位・内大臣、利家権大納言
    ・閏7月13日:慶長伏見地震
    ・9月2日:明使大坂城入り。再び朝鮮出兵を命ず
    ・10月:サン=フェリペ号事件
    ・10月27日:慶長改元
    ・12月8日:再び禁教令公布
    ・12月17日:拾、元服して秀頼と称す
  16. 【慶長2年(1597年)】
    ・正月:木幡伏見城築造開始
    ・2月:イエスズ会関係者処刑
    ・5月木幡伏見城天守落成
    ・6月:慶長の役
  17. 【慶長3年(1598年)】
    ・3月15日:醍醐の花見
    ・8月18日:秀吉薨去
    ・伏見にて形見分け「秀吉公御遺物
    ・9月7日:阿弥陀ヶ峰に八幡大菩薩堂築造開始
  18. 【慶長4年(1599年)】
    ・正月:秀頼、大坂城へ移る
    ・4月13日:阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
    ・4月16日:「豊国大明神」の神号
    ・4月19日:正一位の神階
  19. 【慶長5年(1600年)】:関が原の戦い
    ・2月22日:「太閤御物刀絵図」中村本
  20. 【慶長6年(1601年)】
    ・秀頼、「義元左文字」を家康に贈る

所蔵品  

太閤御物刀絵図  

  • これら所蔵刀の目録がいくつか作られている。
    • 文禄三年(1594)六月十四日:毛利輝元の求めに応じたもの
    • 文禄四年(1595)五月十二日:宛名なし
    • 元和元年十二月(埋忠寿斎写)
  • 詳細は「太閤御物刀絵図」参照

形見分け  

  • 慶長三年(1598)8月の歿後、所蔵刀や名物茶器について、諸大名への形見分けが行われた。百六十余振(166口)が贈られたという。

    秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚如帳面写之


豊臣家御腰物帳(太閤家之御腰物之控)  

名物茶器  

  • 秀吉が名物茶器を手にしたのは、天正4年(1576年)7月の安土普請の功により牧谿の「洞庭秋月」の絵を拝領したのが始まりとされる。12月には但馬・播磨攻めを賞して「乙御前釜」を拝領する。茶会を許され、この2つの茶器ではじめて茶会を開いたのが天正6年(1578年)10月である。
  • その後、天正9年(1581年)には鳥取攻略の功により但馬の金山とともに8種類の茶器を与えられたという。この時の感動を、のち天正10年(1582年)10月に「今生後生に有難く忘れ難く存じ候」と書き送っている。
  • 本能寺の変ののち、天正13年(1585年)ごろまでに信長名物(安土名物とも)を集め、これは後に太閤御物と呼ばれるコレクションの4割を占めたという。天正11年(1583年)9月には大坂城でこの自慢の茶器の披露を行っている。
  • 天正13年(1585年)3月には大徳寺で茶会を開き、このときには堺や京の茶人150人あまりを招いて名物茶器を披露したという。
  • 天正15年(1587年)には秋月種実から「楢柴肩衝」を献上させたことにより、「初花肩衝」「新田肩衝」とともに、かつて東山御物であった「天下三肩衝」を一手に納めた。
  • 信長が、当時すでに「侘び」が取り入れられ始めていた茶堂の流れに逆らう形で唐物名物を蒐集するのに腐心したのに対して、一方で金ずくめのド派手で豪華絢爛な趣味を持ちながらも、千利休の影響を受けこの茶堂の流行である「侘び」の追求をも行った点が注目されている。これは大坂城内の山里曲輪などにも現れている。
  • 信長が唐物名物を中心に集めたのに対して、秀吉は東山名物、信長名物に加え、ルソン壺を愛好して蒐集させたほか、備前焼、瀬戸焼などの和物なども蒐集している。こうして秀吉が蒐集した名物茶器は、327点に上った。









直系子孫  

  • 秀吉が妻との間にもうけた子供とその系統
    南殿──石松丸秀勝(夭折)
    
    淀殿─┬棄丸(鶴松、夭折)
       │
       │  和期の方
       │   ├──国松(六条河原で斬首)
       └秀頼(拾丸)
           ├──天秀尼(千姫養女)
          小石の方

南殿  

  • 詳細は不明だが、長浜城主時代に南殿と呼ばれる女性との間に子を成したとされる。

羽柴秀勝  

石松丸(いしまつまる)
石松丸秀勝
6歳で夭折

※秀吉は、この初めての子につけた「秀勝」という名前を他に2名の人物に与えている。ひとりは織田信長の四男(於次丸、於次秀勝)で、もう一人は三好吉房の次男(小吉、小吉秀勝)である。
このうち、於次秀勝は内藤元種の娘(毛利輝元の養女)と婚約するが子を残さずに病没。小吉秀勝は浅井長政娘(お江)との間に完子を残し、この系統がのちのちまで続いている。

淀殿(茶々)  

  • 諸説あるが、淀殿(浅野長政子、母は信長妹お市の方)との間に「鶴松」、「秀頼」の2人の子を設けた。

鶴松  

棄丸(すてまる)
生来病弱で、数え年3つで死去

秀頼  

拾丸(おひろい)

  • 子供
  1. 国松:母は和期の方(名は伊茶。渡辺五兵衛娘)。大坂城落城後に六条河原で斬首。
  2. 天秀尼:俗名は不明だが、千代姫または奈阿姫ともされる。母は小石の方(おいわのかた。成田助直娘)。大坂城落城後に千姫の養女。後に鎌倉東慶寺に入れられ天秀尼と称す。

母系子孫  

  • 秀吉の兄妹の子供とその系統
    とも─┬─秀次─┬仙千代丸(三条河原で処刑)
       │    ├百丸
       │    ├十丸
       │    ├土丸
       │    ├露月院誓槿大童女
       │    ├お菊 (大坂夏の陣後、紀伊南の河原で処刑)
       │    ├不明 (梅小路家に嫁ぐ)
       │    └隆清院(真田信繁の側室)
       │
       │
       │ 徳川秀忠
       │  ├─┬千姫(秀頼室)、珠姫(前田利常室)、勝姫(松平忠直室)、初姫(京極忠高室)
       │  │ └徳川家光、徳川忠長、徳川和子(後水尾天皇中宮)
       │  │
       │  │  九条幸家  ┌二条康道(二条家第16代当主)
       │ お江   ├────├九条道房(九条家第19代当主)
       │  ├──豊臣完子  ├序君  (東本願寺宣如光従室)
       ├─秀勝        ├通君  (西本願寺良如光円室)
       │           ├松殿道基(松殿家第12代当主)
       │           ├栄厳  (東大寺別当、随心院住持、大僧正)
       │           └日怡  (瑞龍寺2世)
       └─秀保(享年17)
          │
    豊臣秀長─おきく

日秀(とも)  

日秀尼
父は木下弥右衛門、母は大政所。秀吉姉。
弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、1568年(永禄11年)に秀次、1569年(永禄12年)に秀勝、1579年(天正7年)に秀保を産む。

秀次  

父は三好吉房、母は日秀尼
秀吉養子、殺生関白。
幼名治兵衛(じへえ)、通称孫七郎(まごしちろう)。
秀吉の命により阿波の三好康長に養子入りして三好信吉(みよし のぶよし)と名乗るが、後に羽柴秀次と名乗り天正19年には関白、豊臣氏の氏長者。
文禄2年(1593年)に秀頼が生まれたことにより秀吉から疎まれ、文禄4年(1595年)7月に高野山に追放、青巌寺にて切腹。

  • 子供
  1. 仙千代丸:仙千代丸(せんちよまる)。母は尾張衆日比野下野守娘 於和子。他の秀次の一族とともに三条河原で処刑
  2. 百丸:母は山口少雲娘 お辰の方
  3. 十丸:母は北野松梅院娘 阿左古の方
  4. 土丸:竹中重定(貞右衛門)娘 お長の方
  5. 露月院誓槿大童女:母は毫摂寺善助娘 お亀の方(中納言局)
  6. お菊:淡輪隆重娘(淡輪重政の姪) 小督局。祖父の弟の子供である後藤興義に預けられた。成人した菊は、元和元年(1615年)4月20日に紀伊国の代官である山口安弘/山口安弘喜内の嫡男、山口朝安/山口朝安兵内の元に嫁いだ。大坂夏の陣、樫井川の合戦において夫の朝安が討ち死にし、お菊も紀伊南の河原で処刑。
  7. 隆清院:真田信繁の側室


秀勝  

父は三好吉房、母は日秀尼
幼名小吉
隻眼であったとされる
秀吉養子
羽柴秀勝(織田信長四男、秀吉養子)死後、丹波国亀山城主となり「丹波少将」と呼ばれる。
文禄元年(1592年)、従四位下参議に任じられ、「岐阜宰相」。
文禄の役に九番隊の大将として外征するが、朝鮮国の巨済島にて病死。
正室のお江(浅野長政娘、母はお市の方。小吉秀勝死後に徳川秀忠に嫁す)との間に完子を残す。

  • 豊臣完子

    父は豊臣秀勝(小吉秀勝)、母お江
    豊臣完子(とよとみさだこ)
    文禄4年(1595年)に母の江が徳川秀忠と再々婚したため、淀殿に引き取られ養われる。
    慶長9年(1604年)九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。
    慶長13年(1608年)に忠栄が関白に任官し、完子は北政所となる。
    九条忠栄との間に7人の子を残している。
    母のお江が徳川秀忠に嫁したため異父弟妹に千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、徳川忠長、徳川和子がいる。

  1. 長男・二条康道:慶長12年(1607年) - 寛文6年(1666年)。二条家第16代当主
  2. 次男・九条道房:慶長14年(1609年) - 正保4年(1647年)。九条家第19代当主
  3. 長女・序君(生没年不詳):東本願寺宣如光従室。琢如らの母
  4. 次女・通君:慶長18年(1613年) - 寛永9年(1632年)。西本願寺良如光円室
  5. 三男・松殿道基:慶長20年(1615年) - 正保3年(1646年)。松殿家第12代当主
  6. 四男・栄厳:元和8年(1622年) - 寛文4年(1664年)。東大寺別当、随心院住持、大僧正
  7. 三女・日怡:寛永2年(1625年) - 寛文4年(1664年)。瑞龍寺2世


ねね(高台院)経由の系図  

                         ┌─木下勝俊(長嘯子)
  杉原家利──┬─杉原家次───┬─杉原長房  ├─木下利房(足守藩2代藩主)
        │        └─おあこ   ├─木下延俊(豊後日出藩初代藩主)
        ├─朝日殿こひ     ├────┴─小早川秀秋(秀俊)
        │  ├─────┬─木下家定(足守藩初代藩主)
        │ 杉原定利   ├─────────やや
        └─七曲殿ふく  └─ねね(北政所)  ├───┬浅野幸長(初代和歌山藩主)
           ┝━━━━━━━━│━━━━━━浅野長政 ├浅野長晟(2代和歌山藩主)
         ┌浅野長勝      │           ├浅野長重(笠間藩主)
         └姉──浅野長政   │           ├豊姫(杉原長房室)
木下弥右衛門              │           └智相院(松平定綱室)
 ├────┬───────────豊臣秀吉
なか    └─日秀        ┌─豊臣秀次(関白)
 │       ├────────┼─豊臣秀勝
 │      三好吉房      │  ├───豊臣完子(九条幸家室)
 │                │ お江(のち徳川秀忠室)
 │                └─豊臣秀保(豊臣秀長養子)
 ├────────────────豊臣秀長
竹阿弥




エピソード  

豊臣氏と羽柴氏  

木下氏(苗字)  

  • 秀吉ははじめ「木下」を名乗っていた。
  • もっともこれは、妻ねねの兄杉原家定が母方の名字「木下」に改称したのを借りたものであるともいわれる。永禄8年(1565年)11月2日付文書で、「木下藤吉郎秀吉」の署名があるのが初出とされる。
  • 木下氏を最後に使った時期については諸説あったが、近年(2015年7月)に元亀4年(1573年)5月24日付文書が見つかっている。

羽柴氏(苗字)  

  • 羽柴氏を使ったのは、これ以降7月20日の間とされる。
  • 元亀4年(1573年)7月20日付文書で「羽柴藤吉郎秀吉」と署名している。

    其比信長の心に叶ひのゝしる柴田修理亮勝家。丹羽越前守長秀とかやいひしかば。其人の名字を一字づつたまはらんとて。丹羽の羽に柴田の柴をそへ。羽柴筑前守と改給しとなり。

  • 親族以外に羽柴氏を与え始めたのは天正10年(1582年)頃からとなっている。

平氏(本姓)  

  • この頃は本姓として「平氏」を名乗っていた。
  • これは主君である織田信長(平氏)の本姓を倣ったものとされる。その期間は、天正11年(1583年)の項に「参議従四位下」としてはじめて記載されてから、関白になる直前の天正13年(1585年)に「内大臣正二位」に叙任されるまで、となっている。

藤原氏(本姓)  

  • 天正13年(1585年)7月11日、関白に就任するにあたり、前関白近衛前久の猶子となり、本姓を平氏から藤原氏に改めている。

豊臣氏(本姓)  

  • 「押小路家文書」では、「豊臣氏」を朝廷より下賜され名乗ったのは天正13年(1585年)9月9日付(宣旨)。
    ただし「公卿補任」では天正14年の項に月日不詳として書かれている。公卿補任で「豊秀吉」となるのは天正15年(1587年)からである。実際に改姓したのは太政大臣就任時ともされている。
  • 続いて後陽成天皇の即位に合わせ、天正14年(1586年)12月には太政大臣に昇進する。
  • 天正19年(1591年)に鶴松が病死すると、甥の秀次(内大臣)を養子として関白の地位を譲り、自分は太政大臣在任のまま太閤殿下として実権を保持し続けた。
  • 秀吉の死後も秀頼没時まで豊臣姓の使用は続いている。大名においても、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が「豊臣朝臣輝政」として右近衛権少将に任じられている。また土佐守に任官された山内一豊も「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。さらに加藤清正が主計頭から肥後守へ改めているがこの時は「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。
  • その後も、池田利隆(輝政の長男輝直)、加藤忠正(清正の次男清孝)、福島忠勝(正則の次男忠清)なども豊臣氏として任官を受けている。
  • 大坂の役で秀頼滅亡後、福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。
  • 秀吉の正妻高台院の兄弟たち及びその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。木下利次(ねねの実兄木下家定の次男)は、高台院の養子となり豊臣の社稷を相続することが許されている。

赤影  

  • この豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃に、琵琶湖の南に金目教という宗教が流行っており、飛騨の里から赤影、白影、青影の三人の忍者を呼び寄せる。
  • これが往年の特撮TV番組「仮面の忍者 赤影」である。