埋忠寿斎
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埋忠重長(寿斎)
江戸初期の刀工、金工
- 金工師埋忠家の埋忠寿斎。
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概要
- 通称彦右衛門。
- 刀銘重長
- 慶長2年(1597年)脇差五腰を打ったが、病身のため刀の磨上や拵えの金具作りに転向した。
- 埋忠家に来た刀の絵図を取り、その絵図は後に「埋忠銘鑑」として世に出た。
- 多数書写されており、「埋忠押形集」「埋忠刀譜」「埋忠日記刀剣模図」「古人所持剣図」などと呼ばれる。数々の刀剣の金具を仕上げており「寿斎金具仕候」と記されている。この金具とは鎺・縁を差している。
- 大正6年(1917年)に中央刀剣会より「埋忠銘鑑」の名で出版され、これが世に広まった。埋忠銘鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- さらに昭和7年(1932年)には訂再版が刊行されている。埋忠銘鑑 訂再版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- また昭和43年(1968年)には本阿弥光博氏の解説が加えられたものが雄山閣出版より刊行されている。埋忠銘鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 江戸幕府の扶持を受けていたが、将軍家光の時病身につき返上している。
- 寛永20年(1643年)以降に死去。
関係刀剣
※「無」は無銘、「短」は短刀を示していると思われる(現代ではないので、銃刀法区分の太刀と打刀の区別はほぼしていない)。本(阿弥)三郎兵衛、光老、徳老などと出てくるのはすべて本阿弥光徳のこと。人物名は、例えば井伊掃部頭であれば井掃部などと略されていることがある。また銘以外の年月は「天正10年(1582年)」の様な形式にしている。「※」以降は推定される名物刀剣名
- 郷義弘刀、光徳磨上、本多上野介所持。寿斎象嵌入申し候。 ※「上野江?」
- 慶長10年(1605年)正月、無銘、長谷川式部少輔殿、寿斎金具仕候。 ※「長谷川江?」
- 城いつみ殿(城和泉守)、たえま、松平下総(松平忠明)殿に有之。代金百枚、寿斎金具仕候。 ※「上部当麻(城和泉当麻)」
- 正宗、福島太夫殿、寿斎金具仕候、徳老(光徳)うり申候わきさし。
- 正宗、寿斎金具仕候
- 正宗、本阿弥(光徳)、本多中務所持、慶長11年(1606年)寿斎入申候、中心は其儘 ※「中務正宗」
- 正宗、本三郎兵衛殿(光徳)、慶長11年(1606年)2月金具寿斎仕候
- 正宗(短刀)、加藤肥後殿、光老(光徳)より参り寿斎金具仕候
- 正宗、南無八幡(短刀)信長より将軍様へ進上被成候、相国様へ上る ※「八幡正宗?」。
- 正宗(短刀)寿斎金具慶長16年(1611年)6月に仕候
- 正宗(短刀)、播州三左様(池田輝政)、寿斎金具仕候
- 無銘短刀 新藤五によくに申し候、やきなおしかと存候
- 正宗作、もか見(最上)殿、寿斎慶長13年(1608年)8月かなぐ拵共仕候 ※「最上正宗(短刀)」
- 正宗、ひろしま(福島正則)、かなぐ仕候
堀尾山城殿へ金百三十枚売、福島太夫殿より、慶長17年(1612年) ※「堀尾正宗」 - 相州住正宗 嘉暦三年八月日、長さ八寸三分、大阪にてやけ申し候、秀頼様、寿斎金具、慶長17年(1612年)正月仕候 ※「大阪長銘正宗」
- 義弘 本阿(光徳花押)、本多美濃守所持、すり上かなぐざうがん共に寿斎仕候 ※「桑名江??」
- はちやがう ニ尺二寸、慶長16年(1611年)正月にかなぐ寿斎仕候、すり上は明寿秀頼様より ※「蜂屋江」
- 正宗(短刀)竹中伊豆殿、九鬼長門殿、寿斎金具仕候 ※「九鬼正宗か?」竹中伊豆(竹中伊豆守重利)を経たとする来歴は不明。
- 池田貞宗 加州中納言殿(前田利常)金百枚に御めし、長さ一尺ニ分有、慶長14年(1609年)極月拵仕候寿斎 ※「池田貞宗」
- 正宗 片市正殿(片桐且元)、慶長13年(1608年)2月かなぐ仕候寿斎 ※「片桐正宗」
- 来国次 大さかにて寿斎金具
- 来国次 寿斎金具
- 来国次 寿斎金具
- 来国次、加州肥前殿(前田利常)に有之、水谷伊勢守殿(水谷伊勢守勝隆)へ参候 ※「源来国次?」
- 藤原秀裕、正◯元年十一月五日、寿斎金具、長サ九寸七分、金百七十枚折紙、寛文千貫
- 来国次、寿斎ひをかき申し候
- 備前国住長光、嘉元元年(1303年)二月日、長サ七寸八分、寿斎ほり出し寿斎かひ申し候、若君様へ上る、稲美濃殿(稲葉美濃守)より金五枚に究る
原文では若君=秀頼ではないか?としている。しかし「稲葉美濃守」とは稲葉正則ではないかと思われ、そうすると若君は江戸の将軍世継ぎ(家綱か)となる。
仮に「若君」を家綱とすると、家綱は寛永18年(1641年)生まれ。生誕後の1641年以降の話であるとして、当時稲葉美濃こと稲葉正勝は18歳(家督相続は11歳時)。埋忠寿斎は1643年まで生存が確認されている。
いっぽう「若君」を秀頼だとすると秀頼が死んだのは慶長20年(1615年)。稲葉正則が従五位下・美濃守に叙任されたのは寛永11年(1634年)。もっともこうした書物で、人物の官位を後に有名になったものが遡って記載されることはよくあるので、矛盾するとまでは言えない。 - 正宗、池三左殿 輝政 寿斎金具仕候
- 無銘 大御所様 寿斎かなぐ仕候
- 吉光、びぜんむさし殿 利隆朝臣(池田利隆)、寿斎金具仕候
- 国時刀 明寿御取出し刀
- 無銘がう 明寿寿斎すり上申し候
- 大和尻懸住則長作、暦応三六月日、六十九
- 無正宗刀 三人して取出し申し候、明寿ほり出し光寿とあいやつて金十三枚にうれ申し候
- 御所様の正宗 無銘、御所様のしやうふなり 光徳様より、寿斎かなく仕候、明寿寿斎すり上申し候
- 備州長船住長義、応安ニ年九月日、寿斎取出し候
- 吉光、めいけし来国俊に成申し候、是は後に来国俊に成申し候寿斎金具仕候
- 吉光 包丁藤四郎 将軍様 江戸より、慶長16年(1611年)2月かなく寿斎仕候 ※「庖丁藤四郎」
- 国光短 寿斎金具、浅野紀州殿 ※浅野紀伊守は浅野幸長
- 光包 もり(毛利)宰相様、寿斎金具 ※毛利宰相は毛利秀元。以下毛利甲斐守も同じ
- 国光 浅野紀伊守殿、寿斎金具仕候
- 信国短 寿斎取出し候
- 了戒短 もり(毛利)甲斐様 寿斎金具仕候
- 国行短 小出忠三殿脇差 寿斎金具仕候
- 行光刀 来国俊の様に出来申し候
- 行光短 寿斎取出し申し候金五枚に売申し候
- 貞宗刀 松平右京殿に有之、高木
- 行光 彦太ほり出し
- 吉家 長サニ尺四寸五分、稲葉美濃守象嵌に有うらに昔は梶山城殿刀也一本掘とあり、大刀に拵申し候、正保5年(1648年)正月28日
- 吉光 毛甲州殿(毛利秀元)に有之、あつ藤四郎長さ七寸ニ分 ※「厚藤四郎」
- 吉光 長さ八寸三分、寿斎金具仕候、井伊掃部殿へ金九十枚に売申し候但はわり也
- 行平短 後藤清兵衛殿ほり出し、正保2年(1645年)9月24日江戸にて拵也
- 吉光 長さ八寸七分、いけだむさし殿(池田利隆)、寿斎金具仕候
- 名物・観世正宗 酒讃岐殿(小浜初代藩主・酒井忠勝)に有之無利にすり上、寿斎金具仕候 ※「観世正宗」
- 夫馬正宗 かなぐ寿斎仕候、甚三郎殿
- 来国次刀 秀頼様、かなく寿斎仕候、慶長13年(1608年)2月拵仕候
- 右衛門正宗無 秀頼様、慶長16年(1611年)2月かなく仕候寿斎、これは大阪にてやけ申し候
- 正宗無 蒲生ひた殿、寿斎かなく仕候 ※「会津正宗」
- 正宗磨上 本阿(光徳花押)、池田備中殿慶長12年(1607年)12月に寿斎ぞうがん入申し候 ※「池田正宗」
- 正宗無 こにしつのかみとの(小西摂津守)
- 名物・貞宗たいこがね 上様より拝領伊達政宗殿に有之(今も伊達家にあり明治十七年拝見今村長賀) ※「太鼓鐘貞宗」
- 来国光短 はりまにて寿斎取出し金一枚に後に五枚にうり申し候
- 兼信短 毛利輝元家老宍戸備前後にもりかひ守(毛利甲斐)殿へ参る、寿斎かなく仕候
輝元家老宍戸は、宍戸備前守元続。 - 和泉守兼定(之)長さニ尺三寸五分、堀尾山城守殿差用
- 相模国鎌倉住人正宗 正和三年十一月日 蒲生ひだ殿、寿斎金具仕候 ※「江戸長銘正宗」
- 無銘短刀 寺澤志摩守殿貞宗 長さ九寸七分、上様にあがり申し候、金八百枚 ※「寺沢貞宗」
- 埋忠重長(寿斎) 慶長ニ年八月日短 寿斎作五こし打申候
- 正宗短 加藤肥後殿、光老より参る、寿斎金具仕候
- 城州埋忠作、文禄五年、明欽様御作
- 宗吉、天正十六年五月日
- 埋忠宗吉、明寿作
- 城和泉守所持、正宗磨上、本阿(光徳花押)、慶長14年(1609年)6月にぞうがん寿斎仕候 ※「城和泉正宗」
- 藤原友重短 明甫脇さし
- 国光短 与三兵衛よりかい申し候、一枚五両、寿斎ほり出し四枚に売り申し候
- 筑州住左刀ひたち左もし、二尺六寸有之、大阪秀頼様御さし用、寿斎金具仕候 ※大坂御物名物刀剣押形の「常陸左文字」か
- 守家造 あつもりきり 寿斎金具仕候
- 筑州住左、寿斎ほり出し
- 安吉、稲美濃殿に有之もりかい守(毛利甲斐)殿、寿斎金具仕候
- 正宗、おたわら正宗、関白様 明寿寿斎両人にてすり上申し候
- 正宗、寿斎金具
- 正宗、金森法印様、慶長13年(1608年)かなく仕候寿斎 ※「金森正宗」
- 夫馬甚三郎殿正宗 寿斎金具仕候 ※「夫馬正宗」
- 貞宗、たけへたくみ殿貞宗、寿斎金具仕候 ※「建部貞宗?」
- 山崎甲斐殿来国俊 無銘長さ八寸七分 金具慶安元年(1648年)3月晦日江戸にて明甫金二十五枚代付也
- 浪游ぎ刀 彫物竜などあり 高野山に秀次公兼光をぬき御覧の事太閤記に有、関白様御差料是にて介錯仕候、作兼光、なみ游ぎ下に剣あり ※「波泳ぎ兼光」
- 無銘 大坂のかう 寿斎金具仕候
- 正宗、浅野紀伊守殿正宗 岡本道意ほり出し寿斎金具仕候 ※道意正宗と思われるが浅野紀伊守の来歴は不明
- 重国、寿斎金具仕候
- 刀、堀遠江守殿寿斎より上申し候、左もし成申し候
- 平安城信国 貞治二二年二月日 長さ八寸三分 寿斎ほり出し
- わかさ正宗 池田むさし殿正宗の御刀、金具仕候寿斎、慶長20年(1615年)8月25日 ※「若狭正宗」
- 岡本正宗 岡本道意正宗 慶長18年(1613年)極月21日、金具明寿仕候、(岡本正宗と織出したる金襴の時代袋に入れ有之、名物・岡本正宗は今は大黒田にあり、明治17年(1884年)拝見今村長賀) ※「岡本正宗」
- 江 松平筑前様江の刀、象嵌慶長20年(1615年)正月28日寿斎仕候
- 江 北野江象がん光悦筆にて
- 備前長船兼光、延文三年二月日、松平宮内(池田忠雄)様御脇差、元和元年(1615年)8月に金具寿斎仕候
- 大国綱 御所様御太刀 大国綱一らんに出申候慶長二十年
- 正宗 磨上光徳花押、長さ二尺三寸二分、有馬中務少輔所持、慶長17年(1612年)にスリ上金具共に寿斎仕候元和8年(1622年)8月3日明真ざうがん入申し候 ※「石野正宗か」
- 来国光 長さ一尺八分半有、松平武蔵様御脇指、元和元年(1615年)9月14日寿斎金具仕候
- 兼光磨上、光徳花押、元和元年(1615年)9月14日そうがん入申し候寿斎
- 長光、磨上光徳花押、本多阿波守所持本多阿波守加州老臣、元和元年(1615年)9月17日入申し候寿斎
- 貞宗 磨上本阿光室花押、松平下総様御刀、元和元年(1615年)10月2日にさうがん寿斎入申し候
- 正宗、長さ九寸四分、依爲末世之物切、浅丹州様御ほり出し正宗、元和2年(1616年)7月28日寿斎ひをかき申し候 ※「和歌山正宗?」
- 備州長船左衛尉藤原則光生年七十二、文明九年十一月二十六日、長さ一尺七寸六分半、松平右近殿江戸にて造之、正保2年(1645年)6月12日
- 正宗、長さ九寸四分、磨上本阿花押、小出信濃殿御刀、象嵌寿斎仕候、元和2年(1616年)9月17日
出石から和泉岸和田藩主小出吉政か。信濃守、播磨守、大和守。 - 正宗、磨上本阿花押、光室老、本多美濃守、長さ二尺三寸五分、さうがん明真
- 来国次 長さ八寸三分、松平宮内様(池田忠雄)御わきざし、元和3年(1617年)9月16日金具彦市作 ※彦市=明甫とされるが不明
- 国時、上様へ上る、松平出羽殿より金具仕候、長さ二尺三寸七分、寿斎磨上也、正保二卯二十五日江戸にて明甫
- 吉光 わかさ守殿、元和2年(1616年)霜月11日寿斎金具仕候
京極高次?京極侍従、京極若狭守。 - 名物・につかり青江 丸亀京極家にあり(今村)、羽柴五郎左衛門尉長重、元和2年(1616年)霜月11日金具遣はし寿斎 ※「にっかり青江」
- 正宗 磨上本阿(光室花押)、二尺二寸七分、元和2年(1616年)霜月11日金(具)遣はし寿斎
- 助包 長さ二尺五寸六分有、松平宮内少(輔)様御腰物、元和3年(1617年)9月19日彦市金具仕候
- 備中国次直作 年十一月(此処くち申し候)奥村摂州様御刀、長さ三尺七寸有、二尺八寸に磨上彦市仕候、元和4年(1618年)2月23日但おりかえし仕候
「奥村摂州」は不明だが、加賀前田家家臣、奥村摂津守栄頼かもしれない。加賀八家奥村河内守家の祖・奥村永福の三男。 - 正宗、長さ八寸、紀伊大納言様、ひたち様御脇指金具明真、此刀二ツ胴落故号翁 花押、堀尾山城守忠(欠)所持、元和5年(1619年)5月3日寿斎御さし刀にさうかん入
※「翁」か。ただし所持者は「紀伊大納言」ではなく水戸頼房ではないかと思われる。なお紀伊頼宣でも水戸頼房でも、元和5年(1619年)時点では子はなしてないようなので、「ひたち様」は不明。常陸水戸はもともと頼宣(当時'常陸介')が20(後に25)万石を領していたが、のち慶長14年に駿府50万石へと移され、元和5年7月には紀州55万石となった。常陸水戸へは慶長14年に頼房が25万石で入った。つまり象嵌を入れた元和5年(1619年)5月時点では、頼宣は駿府50万石、頼房は常陸水戸25万石である。 - 則重 磨上之本阿(光室花押)加藤肥後殿光さ(光瑳)より、元和5年(1619年)5月4日さうかん寿斎入申し候
- 正宗 井掃部殿、元和8年(1622年)6月25日光栄に寿斎かすり上
- 吉光 長さ七寸五分、元和5年(1619年)8月28日九鬼長州わき指寿斎金具仕候
- 正宗 磨上之本阿(光室花押)加藤肥後様、元和5年(1619年)9月朔日さうかん入申し候寿斎
- 守家、元和5年(1619年)5月28日ほり出し寿斎
- 来太郎磨上之本阿(光徳花押)松平宮内様(池田忠雄)御腰物、長さ二尺三寸五分有、磨上さうがんは寿斎仕候、元和7年(1621年)11月28日金具与三左衛門仕候 ※この与三左衛門も明甫とされる
- 来国次 長さ九寸有 松平宮内様(池田忠雄)御脇指、金具与三左衛門仕候、元和7年(1621年)11月28日、寛永19年(1642年)ニ江戸にて又極之
- 元重 本阿(光室花押)長さニ尺三寸、肥前殿、本次郎左殿より寛永12年(1635年)5ノ25日本阿三郎兵衛殿御事
- 高市住人左衛門尉藤原貞吉作、年十一月守原元比、松原宮内様、元和8年(1622年)2月に与三左衛門金具仕候 ※松平宮内の誤りか
- 来国光 御拝領堀尾山城様御わき指、前は光さ(光瑳)金二十枚にうれ申し候
- 備州長船兼光 延文元年五月日、長さ一尺一寸六分、松平宮内様元和8年(1622年)11月金具与三左衛門尉仕候、三分磨上申し候、貞宗の様出来申し候
- 来国行 本阿(光室花押)長さ二尺三寸五分、中心すり直し金三十枚、西丸若宮様へ上る、来国行右刀掃部殿へ拝領にて正保4年(1647年)3月11日に又金具仕候、鍋島殿金具象嵌江戸にて寛永18年(1641年)8月6日明甫
「西丸若宮様」は家光か家綱か?掃部頭は彦根藩3代藩主井伊直孝(1615-1659)か?寛永の鍋島氏は鍋島勝茂(在職:1607-1657)か。 - 兼氏 長さ二尺一寸三分、本次郎左殿より参る
- 紀州ゆるか 堀伊豆殿(一本に松平伊豆とあり今村)
- 行光 長さ一尺二分、本次みより来る、本六良左殿より寛永20年(1643年)卯18日江戸にて仕候
- 友成作、毛利様の重代、寛永元年(1624年)かいの守(毛利甲斐)より参り御太刀に拵申し候、刃にしみ多し
- 吉光 長さ八寸三分、因州家老荒尾志摩殿金具与三左、寛永3年(1626年)8月3日なまりにて埋
元和3年(1617年)から寛永9年(1632年)までは、後の備前岡山藩・池田光政が幼少を理由に因幡鳥取藩に移されていた時代だが、これは因幡鳥取藩(忠雄の長男・光仲)の家老・荒尾志摩家(倉吉荒尾家初代)、荒尾志摩守嵩就の所持だと思われる。伯耆倉吉1万2000石。実父・荒尾成房の姉・善応院が池田恒興の正室となり、元助、輝政、長吉、長政の4子を儲けた。なお志摩守嵩就の実兄・荒尾成利も荒尾但馬家の祖となり伯耆米子1万5000石、鳥取藩家老・米子城代を勤めた。 - 相州住秋広 安三十一、長さ一尺四寸三分、城州様御わき指、寛永3年(1626年)8月十三日に金具与三左
- 貞宗 長さ一尺八分、加藤式部少輔殿(加藤明成)本阿一郎兵衛殿より、寛永19年(1642年)11月15日江戸にて金具仕候明甫
- 行光 本阿(光室花押)長さ一尺一寸、本阿十郎兵衛殿より金具明甫、かか爪(旗本・加々爪甲斐守直澄)殿にうれ申し候、光室代に百枚の代付也、加藤式部少殿(加藤明成)寛永19年(1642年)極月23日江戸にて ※「大島行光」か
- 吉光 長さ七寸八分、三ツムネ刀樋あり、本市郎殿より参候、寛永5年(1628年)2月7日金二十枚に極申し候
- 当麻 長さ八寸三分当麻、尾州大納言様、光益老(光徳の次男)より参候、寛永6年(1629年)3月10日金具仕候
- 長光 本阿(光温花押)長さ一尺六寸二分、三ツムネ、大久保加賀殿指用、慶安3年(1650年)霜月晦日、金十三枚の折紙有之之江戸にて仕候明甫
- 一文字 長さ二尺三寸九分、寛永20年(1643年)8月23日江戸にて井掃部殿寿斎磨上也
関連項目
- にっかり青江
- 一期一振
- 三斎来国次
- 上部当麻
- 上野江
- 中務正宗
- 九鬼正宗
- 了戒
- 井伊家伝来の刀
- 京極高次
- 今村長賀
- 伊達政宗
- 会津正宗
- 信国
- 元重
- 八幡正宗
- 兼光
- 兼定
- 凌正宗
- 刀工
- 切刃貞宗
- 則重
- 前田利常
- 加賀八家
- 助包
- 北野江
- 厚藤四郎
- 友成
- 吉光
- 名物
- 和歌山正宗
- 国俊
- 埋忠
- 埋忠明寿
- 城和泉正宗
- 堀尾正宗
- 大三原
- 大国綱
- 大坂御物名物刀剣押形
- 大島行光
- 太刀
- 太閤左文字
- 太閤御物刀絵図
- 太鼓鐘貞宗
- 夫馬正宗
- 宗易正宗
- 寺沢貞宗
- 岡本正宗
- 庖丁藤四郎
- 建部光重
- 折紙
- 日向正宗
- 書物
- 最上正宗
- 朝霜次直
- 本阿弥
- 本阿弥光徳
- 来国光
- 来国次
- 来国行
- 桑名江
- 正宗
- 毛利秀元
- 池田利隆
- 池田忠雄
- 池田正宗
- 池田貞宗
- 池田輝政
- 波泳ぎ兼光
- 源来国次
- 片桐正宗
- 石野正宗
- 翁
- 若江正宗
- 若狭正宗
- 蜂屋江
- 行光
- 行平
- 観世正宗
- 豊後正宗
- 豊臣秀吉
- 貞宗
- 道意正宗
- 郷義弘
- 酒井忠勝
- 金森正宗
- 長光
- 長義
- 長谷川江
- 長銘正宗
- 青江
- 骨喰藤四郎
- 鯰尾藤四郎
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