若狭正宗


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 若狭正宗(わかさまさむね)


無銘 正宗名物若狭正宗)
旧皇室御物
宮内庁三の丸尚蔵館

  • 相州正宗
  • 享保名物帳所載

    若狭正宗 磨上長二尺二寸六分 代金千枚 御物
    木下肥後守殿嫡子若狭少将勝俊入道長嘯老所持、関ヶ原にて家康公へ上る、池田三左衛門殿拝領、長男武蔵守殿へ伝ふ、御子息新太郎殿寛文十二年六月九日隠居の刻家綱公へ上る。小切先棟焼多し

    木下肥後守殿:木下家定、若狭少将勝俊入道長嘯老:木下勝俊、池田三左衛門殿:池田輝政、長男武蔵守殿:池田利隆、御子息新太郎殿:池田光政

  • 詳註刀剣名物帳

    此若狭正宗は正宗中の傑作と稱す、代金千枚の御刀御物中に是のみなりと本阿彌の記にあり。
    木下勝俊が関ヶ原にて家康公へ上ると云は如何、この人は秀吉の北政所の兄木下肥後守家定の子なり、幼より秀吉に仕へ、若狭小浜八萬五千石を領す、伏見の城へ籠り、鳥居彦左衛門と共に守り途中城を脱して卑胠の名をとり関ヶ原の時家臣等東軍に敵したる為め領地を没収せらる、東山に閑居して長嘯子と號す歌人也。関ヶ原へ出陣せば家領悉く召放さるべき筈なし、故に此記誤りなるべし、
    池田三左衛門輝政は勝入斎が末子也、家康の女北條氏氏直へ嫁し氏直死後輝政へ再嫁し生たる子は、忠継、忠雄の二人なり、輝政が前妻中川瀬兵衛清秀の女が産たる子が武蔵守利隆也、忠継は家康公の孫たるを以て初め備前を領す、早く卒して弟忠雄之をつぐ、利隆の子新太郎光政と云のちには忠雄の子光仲を因幡に移し利隆の子光政備前を領す、池田の本末を論ずれば岡山の池田を正統とす、因幡も血統は輝政より出たれども次男の家なり。

    最初の一文以外はあまり内容がない。残りの前半は「関ヶ原にて家康公へ上る」に対して伏見城で行われた前哨戦の前に城を出て"関ヶ原"では戦っていないのでおかしいと述べており、後半は池田家(岡山・鳥取)の系統について述べているのみである。
     池田家は、輝政の子である利隆が播磨姫路52万石、次男忠継が備前岡山28万石、三男忠雄が淡路洲本6万石、弟長吉が因州鳥取6万石と一族合わせると92万石の領地を得ていたが、その後、利隆の系統(利隆→新太郎光政)が池田宗家・外様大名として備前岡山32万石、家康の次女督姫の系統(忠継→忠雄)が準親藩として鳥取藩32万石をそれぞれ領することとなった(光政のときに幼少を理由に鳥取へ移るが、のち忠雄の子の光仲が幼少であったために再度光政と入れ替えを行っている)。本刀「若狭正宗」は、新太郎の系統に伝わったことになる。

  • 本阿弥家の目利きで「若狭正宗」は金1千枚(一万両)との評価が付けられている。
  • 行の棟、表裏に棒樋、物打ちに刃こぼれがあったが今は見当たらない。中心は大磨上無銘。目釘孔2個
Table of Contents

 由来

  • 「若狭少将」と称された木下勝俊所持にちなむ。
    木下勝俊は、ねね(北政所)の実兄である木下家定の子。のち小早川家の養子となった小早川秀秋の実兄にあたる。若狭小浜城主となり、従四位下・式部太夫、左近衛権少将であったために「若狭少将」と称された。長嘯子と号す。

 来歴

 森家代々

  • 元は森家代々で、森可政から伝わったという話が、「士談会稿続編」に載っている。

    おむめといふ長嘯木下勝俊の息女一人有、萩原殿に被嫁候、森三左衛門より、少将勝俊に、婚禮之時聟引出、森惣兵衛可政、先祖より代々持傳し無銘の刀也、後家康様御物ニ成、若狭正宗ト號す、慶長十七年九月三日、池田三左衛門輝政拝領、同武藏守利隆、新太郎光政相傳、延寶元年丑閏六月十九日、光政隠居之時、右之刀、藥師院の茶入獻上之

  • これによれば、「うめ(おむめ)」という勝俊の娘が豊国大明神社家である萩原図書頭に嫁いだ時、森家より木下勝俊に婿引出として贈られた無銘の刀で、その後家康の所有となり「若狭正宗」と号した。慶長17年(1612年)9月3日に池田輝政が拝領し、池田利隆、池田光政へと伝わり、光政隠居の延宝元年(1673年)閏6月19日に薬師院の茶入とともに献上されたという。
    • 萩原兼従(図書頭)は吉田神道の吉田兼治の息子で、天正17年(1589年)生まれ。慶長13年(1608年)11月10日に従五位下に叙される。祖父吉田兼見の画策により兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国大明神の社務職に就任し萩原を名乗る。万治3年(1660年)8月13日死去、72歳。
      萩原兼従の母の伊也(幽斎娘)はかつて一色義定(義有)に嫁いでいた。細川忠興は一色義定を宮津城に誘い出し「浮股」で殺害するが、その後面会した伊也は、忠興に懐剣で斬りつける。その時の鼻の傷はのちのちまで残ったという。のち天正11年(1583年)3月28日に吉田兼治へと嫁ぎ、12年4月に女子御満(みつ)、16年に萩原兼従を産んだ。
  • 森惣兵衛可政は、三左衛門可成の弟。木下勝俊の正室うめ(宝泉院)は、森可成の娘であり、同名の娘うめ(おむめ)は、孫娘にあたる。その縁で婿引出として森惣兵衛可政に伝わっていた本刀を贈ったという。
  • 整理すると、森家代々→森惣兵衛可政→木下勝俊→家康→池田輝政という伝来となる。
             〔吉田神道宗家〕
      ┬吉田兼右──吉田兼見──吉田兼治
      └智慶院          ├──萩原兼従(図書頭)
        ├────細川幽斎──伊也    ├───〔堂上家(半家)〕吉田家
       三淵晴員              │
                 木下勝俊    │
                   ├──うめ(おむめ)
    森可行─┬森三左衛門可成─┬宝泉院うめ
        │        ├森長可
        └森惣兵衛可政  ├森蘭丸成利
                 └森忠政
    

 木下勝俊

  • 木下勝俊は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の際、伏見城の城代を命じられるが城を脱出し京都に退いてしまう。

    伏見の城をまもりしが。大坂の奉行等石田が計策にくみし。伏見の城へ打手をむけし時。勝俊は當家の御家人等のみを殘し。其身は都にのぼり政所のかたを守護しければ。關原の戰終りて後所領沒入せられたり。

    父の木下家定は従三位中納言に叙され、文禄4年(1595年)には姫路城2万5千石を与えられるが、関ヶ原では西軍・東軍いずれにも与せず中立を守る。家定は大坂城を出て、大炊御門近くの京都新城で妹の高台院(北政所)の警護を務めていた。この中立姿勢が評価され減封は行われず、慶長6年(1601年)に備中国足守2万5千石へと転封している。慶長9年(1604年)二位法印に叙されるが、慶長13年(1608年)8月に薨去。

    家定の守護した京都新城とは、秀吉が聚楽第を破却した後に皇室に仕える豊臣関白家の正式な邸宅として御所南東に構えた城郭風邸宅のこと。「太閤御屋敷」、「太閤御所」。秀吉の死後は北政所(ねね)が住まいとし、さらに後、寛永4年(1627年)に後水尾天皇が譲位の意向を示すと仙洞御所の敷地に選ばれた。現在は、京都御苑内の京都御所南東に位置し、隣接する大宮御所(皇太后の御所)と一体の庭園となっている。

 家康

  • 戦後勝俊は、伏見城を出たことを責められ領地を没収されるが、この時に家康に「若狭正宗」を献上したとされる。
    勝俊は、のち父木下家定が死去した際に、叔母高台院(北政所)の周旋により父家定の遺領である備中足守2万5,000石を安堵されるが、この遺領をめぐって弟の利房と争うこととなり、結果的には領地召し上げとなってしまう。のち、勝俊は京都東山に隠棲し、高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号した。

    また勝俊の娘婿であった萩原兼従は、慶長20年(1615年)の大坂の陣ののち豊国神社が破却されたため豊後の領地に下るが、のち伯父にあたる細川忠興のとりなしにより徳川幕府から特別に赦される。その後は本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた(吉川神道)。

 池田輝政

  • 慶長17年(1612年)9月2日家康より池田輝政に下賜される。

    松平宰相輝政を駿城に召て御茶を賜ふ。山名入道禪高。藤堂和泉守高虎相伴たり。御茶事はてゝ。御床にかけられたる虛堂墨跡の掛幅。幷に若狭正宗の御刀。鷹馬を賜ひ。また攝州にて放鷹の地を賜ふ。
    (徳川実紀)

    十七年八月十三日、輝政駿河に来て、大御所に見参し廿三日関東に下り、将軍家に参らる。年来の病気たいらぎし故なり、将軍家御家號(松平)ゆるさせ玉ひ、参議の事、御推挙あるべきよし仰下され、物多く賜て、蜂屋郷の御刀、乙御前の釜、御馬二匹等なり、御暇を給ひ、二十七日関東を立て、九月二日又駿河に参り、大御所又物を賜ふ事多く、虚堂の筆蹟の掛物、若狭正宗の御刀
    (藩翰譜)

    元々本刀を相伝していた森家と池田家は関係が深く、森長可の正室が池田恒興の娘安養院、森忠政の娘於松と宮が池田長幸(輝政の弟長吉の長男)に、また菊は池田忠継(輝政と家康次女督姫の子)と婚約している。

  • 池田輝政はこの後10月17日には参議に任じられたお礼に入朝している。22日には内侍所で臨時神楽が催されている。
  • しかしこの頃すでに体調が思わしくなく、翌慶長18年(1613年)1月姫路で急死した。

 池田利隆

  • 本刀は、輝政の子池田利隆が相続している。

    諸道具割符帳
     武蔵守に相渡分、
    一、若狭正宗ノ刀  御所様(家康)より拝領、

  • 池田利隆は慶長20年(1615年)に埋忠寿斎に金具製作を命じている。目貫と笄は後藤祐乗、小柄は後藤程乗の作。図柄は金の這い竜。百五十両の折紙付き。この時に採った押形が「埋忠銘鑑」に載る。
  • 本阿弥光柴も押形を採っており、「光徳金ニテ」と注記があり、当時は本阿弥光徳のいれた金銘があったとされるが現在は見当たらない。

 将軍家

  • 寛文12年(1672年)閏6月9日、池田光政が長男の綱政に藩主を譲り隠居した際に、子の綱政が徳川将軍家綱に献上している。

    九日松平伊豫守綱政襲封を謝し。行平太刀。金五十枚。時服五十獻じ。父新太郎光政致仕の得物とて。若狭正宗の刀。茶入(藥師院肩衝)を獻じ。
    (徳川実紀)

    得物若狭正宗の刀、藥師院肩衝の茶入れを献じ、御臺所に世尊寺行尹の古今集をまいらす。天和二年五月二十二日岡山にをいて卒す。年七十四。
    (寛政重修諸家譜 池田光政)

    一、将軍家へ烈公(光政)より。御太刀、御馬代黄金拾兩。猩々緋、壹端
    若狭正宗御刀金這龍目貫笄祐乗作 金小柄 程乗作小刀美守政道 下袋蜀江錦上袋茶地巻竜金襴箱黑塗銘金粉
    藥師院御茶入蓋象牙裏張金紙 古田織部作 古袋新門切 御物袋紫縮緬、丸家鐵截木銘八分字金粉

    同時に献上されている「薬師院肩衝」の茶入は、天正19年(1591年)に秀吉が輝政邸に御成の際に、豊臣秀次より拝領したもの。

  • 享保2年(1717年)、近江守継平が吉宗の許しを得て押形をとっている。
  • 享保6年(1721年)、信国重包が浜御殿で鍛刀を行った際、この「若狭正宗」を模した刀も作るように命じられている。
  • 元文2年(1737年)、後の徳川家治が誕生した際に、父である家重(従二位権大納言)が8代将軍吉宗より与えられている。

    大納言殿には若狹正宗の御刀を進らせられ。竹干代君には青江御刀。國次御さしぞへを進らせらる。

    • 大納言殿:9代将軍家重、竹干代君:10代将軍家治
  • しかし実際には吉宗の手元にあったようで、元文4年(1739年)に近江守源久道が8代将軍吉宗に江戸へ招かれた際に、「児手柏」、「若狭正宗」の写しを作刀し、吉宗は大いに満足したと伝える。
  • その後も徳川将軍家に伝来する。

 明治天皇

  • 明治20年(1887年)10月31日、明治天皇が徳川邸に御成の際に、徳川宗家16代の徳川家達より明治天皇へ献上された。

    三十一日 公爵徳川家達の千駄ヶ谷第に行幸あらせらる、午後一時假皇居御出門、(略)家達、家傳の若狭正宗太刀一振・藤原信實筆繪師之草紙等を獻じ、

  • 金千枚の折紙がついており、「不知代」や「無代」など値がつかないことの多い正宗折紙では最高となる。

    此若狭正宗は正宗中の傑作と稱す、代金千枚の御刀御物中に是のみなりと本阿彌の記にあり。

  • 皇室御物であったが、昭和天皇崩御後に国庫移管された。
  • 現在は宮内庁所管で三の丸尚蔵館所蔵


 写し

  • 近江守源久道(二代久道の次男)が御浜御殿において名物児手柏」および名物「若狭正宗」の写しを作刀したという。
  • また信国重包も「若狭正宗」と「不動国行」の写しを作刀し「葵一葉」を賜っている。
    信国重包(のぶくに しげかね)は筑前信国派の刀工。十四代信国助左衛門吉包(信国吉包)の子。

 関係系図

            伊達忠宗
             ├────伊達綱宗
           ┌貝姫          
           └櫛笥隆子
             │
┌近衛信尹━━━━━━┯━│━近衛信尋─近衛尚嗣─近衛基熙
└近衛前子(秀吉猶子)│ ├────後西天皇    ├─近衛熙子
  ├────────┴後水尾天皇───────常子内親王 │
 後陽成天皇       ├───┬明正天皇 ┌徳川家綱  │
           ┌徳川和子 │     ├徳川綱吉  │
      徳川秀忠 ├徳川家光─│─────┴徳川綱重─徳川家宣
 浅井長政  ├───┴徳川忠長 └──賀子内親王     │
   ├──お江               ├─────隆崇院
 お市の方  ├───豊臣完子        │
 ┌とも──豊臣秀勝  ├───┬二条康道─二条光平(二条家17代)
 │         九条幸家 ├九条道房(九条家19代当主)
 └秀吉            ├序君  (東本願寺宣如光従室)
  │             ├通君  (西本願寺良如光円室)
 ┌高台院(ねね)       ├松殿道基(松殿家12代当主)
 └木下家定─┬木下勝俊    ├栄厳  (東大寺別当、随心院住持、大僧正)
       ├木下利房    └日怡  (瑞龍寺2世)
       └小早川秀秋
  • 後水尾天皇の追号は遺諡によるもので、「水尾」とは第56代清和天皇の異称。
    清和天皇は、貞観8年(866年)応天門の変で信頼していた大納言伴善男が失脚すると、外祖父の藤原良房に押される形で摂政に任命(人臣初の摂政)。貞観18年(876年)には貞明親王(陽成天皇)に譲位すると、2年後に出家。その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾(現、京都市右京区嵯峨水尾清和。愛宕山の南麓)の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。円覚寺に近い粟田山で火葬され、遺骨は生前の希望により水尾の地に埋葬された。「伴大納言絵詞」の項を参照。
  • いっぽう父帝である後陽成天皇の加後号は第57代陽成天皇からとられており、父子逆転した加後号となっている。
    第56代清和天皇(水尾)──第57代陽成天皇
    
    第107代後陽成天皇────第108代後水尾天皇
  • 瑞龍寺:日秀尼(三好智子、とも)が開基となって村雲の地に開いた日蓮宗唯一の門跡寺院。後陽成天皇より、村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えられた。

    ひてつく(秀次)の御ふくろ、寺かう(寺号)申さるゝにつきて、すいりう寺(瑞龍寺)になされ候よし申との事にて候、このよしつたへられ候へく候、かしく
      御かつしきの御中 申給候

  • 日秀尼の曾孫にあたる九条幸家の娘日怡尼が瑞龍寺2世を、さらに日怡尼の兄二条康道の娘日通尼が3世を継いだ。その後も摂家や宮家からの入寺が続いたために「村雲御所」とも称された。この瑞龍寺から後に出たのが名物村雲当麻」である。

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