太閤左文字


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 太閤左文字(たいこうさもんじ)

短刀
銘 左/築州住
号 じゅらく(太閤左文字)
7寸8分(23.6cm)
国宝
福山市所蔵(小松安弘興産寄贈、ふくやま美術館保管)

  • 南北朝時代筑前の刀工左安吉(左衛門三郎)の作。左文字の短刀において最高傑作とされる。
  • 平造、三つ棟、身幅、刃長とも尋常で、僅かに反りつく、ふくら枯れる。鋩子は突上げて長く返り、刃縁締まる。
  • 中心は生ぶ、先き刃上り栗尻、鑢目は大筋違、目釘孔二個。
  • 表銘「左」、裏に「築州住」と入る。
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 由来

  • 数ある秀吉所蔵左文字の中から、なぜ本刀に対して「太閤左文字」と呼んだのかという理由は不明。少なくとも秀吉当時にはなかったようであり、享保名物帳でも書かれていない。恐らく小松コレクションあたりで呼び始めたのではないかと思われるが、記述が見当たらない。
    本来「太閤」は摂政または関白を子弟に譲った人物を指す一般名詞である。近世以降は特に豊臣秀吉を指して用いられる。「豊太閤(ほうたいこう)」。
    さらに後、豊臣秀吉が足軽から位人臣を極めたことから、低い身分から立身出世して権力を握った人物を「今太閤」と呼ぶようになった。

 来歴

 秀次

  • これ以前の来歴は不明ながら、豊臣秀次が所持したという。

    脇差一腰左文字、是は古秀次随一道具也

 秀吉

  • 移動時期が秀次生前か死後なのかは不明ながら、その後秀吉が所持した。
  • 本阿弥光徳の「光徳刀絵図」に所載。

    左文字しゆ藥ゟ 慶長十六年三月廿八日大御所様え被進之 聚楽より
    (御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ゟ有之分之帳)

  • 「聚楽より」は、秀次(秀吉の後、聚楽第に住した)よりの進上、あるいはその死後に秀吉所蔵となったことを意味すると思われる。
    聚楽第は、秀吉が京都における政庁として天正14年(1586年)に着工、翌年に完成して入城している。天正19年(1591年)に鶴松が早世すると、同年11月に秀次は後継者として権大納言・正二位に叙任され、12月には内大臣へと進んだ。この頃、秀次に聚楽第を譲っている。本刀は、恐らくこれ以降に秀吉へと移ったものと思われる。秀次が高野山に追放され切腹に追い込まれるのは文禄4年(1595年)7月。同年8月に聚楽第は徹底的に破却された。

 秀頼→家康

  • 秀吉の死後、慶長16年(1611年)3月28日に二条城会見において秀頼から徳川家康に贈られ、のち秀忠へと伝わった。

    (慶長16年3月)廿八日(略)又京にては秀頼公二條城にまうのぼらる。(略)秀頼公は唐門外にて下乗あり。 大御所玄関前莚道まで出むかへまたひ。御主座は北に設らる。(略) 大御所まづ御盃を遣はさる。其時左文字の御刀(大左文字)。鍋藤四郎の御脇差をひかせ給ひ。此外大鷹三聯。馬十疋をくらせらる。其御盃返し進らせらるゝとて。一文字の刀(南泉)。左文字の脇差(太閤左文字)を捧げらる。此外秀頼公よりは眞盛の太刀。黒毛馬一疋。金三百枚。猩々緋三枚。緞子廿卷進らせらる。此間高臺院の方こなたにおはし御對面ありて。同く御杯まいる。秀頼公又義直卿へ光忠太刀。頼宣卿へ守家の太刀。各金百枚づゝそへて進らせられ。(略)清正は饗席につかず。はじめより秀頼公の側をはなれず。御三獻はてし時。大坂の母君も待わび給ふべし。はや御暇をと申せば。大御所げにもとて歸路をうながし給ふ。かくて二三の間まで送らせ給へば。秀頼公蹲踞ありて。これまで出御恐懼にたへざる旨のべらる。有樂いかにも右府申さるゝ如しと取合せらる。 大御所いかで御送り申さではあるべきとて。また玄關の筵道まで出まし。互に座につき給ひ。慇懃に一拜して秀頼公はまからる。

  • 「駿府御分物」、「上々御脇指」の左文字か。

    左文字 秀頼
    駿府御分物刀剣元帳 上々御脇指)

    これが本刀だとすると、紀州徳川家への伝来は家康薨去後、秀忠からということになる。

 紀州徳川家

  • のち紀州徳川家に伝来した。

 浜松藩井上家

  • 何時頃かは不明だが、江戸時代初期、かなり早い段階で遠江浜松藩主家の井上家に入ったと見える。
    井上家の伝来通り秀忠より拝領となると、遠江国横須賀藩初代藩主であった井上正就の時かと思われる。母が徳川秀忠の乳母であったため早くより秀忠に近侍し、小姓組番頭からのち幕府老中職となっている。なお井上正就は、嫡子正利の縁談のもつれにより恨みを買い、寛永5年(1628年)8月10日に江戸城中で幕府目付・豊島信満に刺されて死亡している。将軍秀忠は寛永9年(1632年)薨去。

 長尾よね

  • 昭和7年(1932年)の井上子爵家の売立に同物とみられる7寸8分の左文字在銘短刀が出品され、2680円でわかもと製薬の長尾よねが購入している。

    刀剣研究家の本間順治は、昭和四年に行はれた井上渓松子爵家の入札の下見を見たよねから、左文字の短刀といふものを買ひたいと思ふのだが、と相談を受けた。本間が、あれは南北朝時代の最上級の一点ですと答へると、三千円かそれより少し上の値で落札した。

    長尾よねの伝記では昭和4年(1929年)となっているが、記録によれば昭和7年(1932年)4月の売立であると思われる。また価格も三千円を下回っている。

  • 葵唐草紋の金襴包み鞘の合口拵が附き、秀忠より拝領という。

    秀忠公拝領 左文字短刀
    在銘 赤胴葵紋壺笠目貫
    金銅葵紋鞘 長サ 七寸八分

  • 昭和9年(1934年)1月30日に旧国宝指定。

    刀劔
    短刀 銘左筑州住 一口
    東京府東京市世田谷區深澤町四丁目 長尾欽彌

  • 昭和27年(1952年)11月22日、新国宝指定。

 青山氏

  • 長尾家の没落に伴い放出され、昭和20年代の終わり頃、500万円で青山孝吉氏所蔵となる。
    青山孝吉氏は戦前の実業家。「太閤左文字」、「会津新藤五」、「明智近景」などの著名刀を始めとして、多数の刀剣を所持した。
  • 「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編(1966年至文堂)や、昭和44年(1969年)の「武将とその名刀展」でも青山孝吉氏所持。

    豊臣秀吉の筑前左文字
    国宝 短刀 銘 筑州住左 一口
    長 二三・六糎
    東京 青山孝吉氏蔵
    (武将とその名刀展)

    この時点でも”豊臣秀吉の筑前左文字”とだけ書かれており、号は書かれていない。ただし、同氏所蔵で享保名物の「会津新藤五」も、”蒲生氏郷名物新藤五国光”とのみ書かれている。なお、「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編(1966年至文堂)では、それぞれ「短刀 銘左 筑州住」、「短刀 銘国光 名物会津新藤五」となっており統一感はない。

 小松コレクション

  • のち小松コレクションとなっている。
    この青山氏から小松氏への流れは「会津新藤五」と同じ。
  • 2018年11月22日、小松安弘興産より広島県福山市に寄贈された。

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