桑名江


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 桑名江(くわなごう)


金象嵌銘 義弘本阿(花押)/本多美濃守所持
名物桑名江
2尺2寸9分(69.4cm)
重要文化財
京都国立博物館所蔵

  • 享保名物帳所載

    桑名郷 象嵌銘長二尺二寸九分 代金三百枚 本多中務殿
    桑名より出る。(はばき)より七寸程にこぼれあり、中(なかご)佩表に本多美濃守所持、裏に義弘、本阿弥彌三郎象嵌入、光徳なり

  • 詳註刀剣名物帳

    此刀寛文五年二月三日更に金三百枚の極めになる本多家に今以て有之と今村長賀君言われたり。
    本多美濃守は平八郎忠勝の嫡子父の家を継ぎ勢州桑名十五万石を領す。

  • 2尺2寸9分、大磨上無銘。本阿弥光徳による金象嵌が入る。

 由来

  • 本多忠政(伊勢桑名藩2代藩主)所持にちなむ。
    金象嵌の「本多美濃守所持」は忠政が所持銘として入れさせたもの。

 来歴

  • 伊勢桑名15万石を領していた本多忠政が、鷹狩りの際にある農家で神棚に祀っていたこの刀と出会ったという。
    父平八郎忠勝の隠居により、忠政が家督を継いだのが慶長14年(1609年)、姫路藩に転封されたのが元和3年(1617年)なのでその間ということになる。
  • 本阿弥光徳に鑑定を依頼し、埋忠寿斎に象嵌を入れさせている。拵えの金具も寿斎。

    義弘 本阿(花押)/本多美濃守所持

  • 以後、三河岡崎藩本多家に伝来。
  • 昭和9年(1934年)7月31日に重要美術品指定。本多忠昭子爵所持。

    太刀 金象嵌銘 義弘本阿花押(光徳)本多美濃守所持(名物桑名江) 子爵本多忠昭
    (文部省告示第232號)

  • 昭和12年(1937年)5月25日旧国宝指定。
  • 昭和15年(1940年)遊就館名刀展覧会出品時も本多忠昭子爵所持。

    四九 刀 金象嵌銘 義弘本阿(花押) 本多美濃守所持 (國寶・名物桑名郷)  東京 子爵 本多忠昭
                        長さ二尺二寸九分(大磨上) 反り八分 元幅九分六厘
     鎬造、庵棟、身幅、切先倶に尋常、鍛は小板目柾ごころ交り、地景入り、地沸厚く、刄文は小湾れに互の目交り、足よく入り、匂小沸如何にも深く、所々に金筋かゝあり、帽子は焼幅殊に廣く殆ど一枚の如くになり、丸く少しく打ちひとめたるがごとし、掃掛ゝり、大磨上の莖に、表記の本阿彌光徳の金象嵌銘がある。
     作者義弘は越中國松倉郷に在住せしを以て、世に郷、又は義弘郷と稱し相州正宗の門下と傳へてゐる。この刀を桑名郷と號する所以は彼の本多平八郎忠勝の子美濃守忠政が嘗て放鷹の途次、一農家にたちより、此の一刀を得たと傳へ、忠政は當時勢州桑名の城主であつたからである。

  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では宮崎富次郎氏所持。
  • 昭和50年(1975年)国でお買い上げ。旧所有者は長野県の江原正一郎氏。


 本多忠政

本多忠勝長男
伊勢桑名藩第2代藩主。後に播磨姫路藩初代藩主。
正室は家康の孫の熊姫。

  • 小田原征伐で初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てている。
  • 慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称す。
  • 関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第2次上田合戦にも従軍。慶長14年(1609年)6月に父が隠居したため、家督を相続して桑名藩の第2代藩主となる。
  • 大坂冬の陣では慶長19年(1614年)10月11日に徳川軍の先鋒を命じられ、大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っている。
  • 大坂夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して5月7日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと交戦する。薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。この合戦で忠政は292の敵首をとった。
  • 戦後それらの功績を賞され、西国の押さえとして元和3年(1617年)7月14日に姫路城主となり15万石を領す(初代姫路藩主)。寛永3年(1626年)8月に従四位下に叙せられ侍従に任命された。
    姫路藩は関ヶ原の戦いの後に池田輝政が播磨一国52万石を与えられるが、のち池田家は岡山藩と鳥取藩に分かれる。
     そのあとに本多忠政が15万石で入り、さらに忠政の甥本多政勝が龍野藩5万石、忠政の嫡男で将軍徳川秀忠の娘千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚した本多忠刻が、父とは別に播磨国内で10万石を領して、要衝播磨は譜代の名門本多家の総計30万石によって固められた。加えて娘婿である小笠原忠真も信濃松本から播磨明石10万石に移されたため、忠政は実質40万石の大名に相当する位置づけが与えられたとされる。
     しかし政勝の代になると大和郡山へと転封される。松平頼元の次男忠国が養子に入ると再度姫路藩主に返り咲くが、これも子の忠孝は越後村上藩へと転封され、二度と姫路に戻ることはなかった。
  • 嫡男の忠刻が寛永3年(1626年)に早世していたため、家督は次男の政朝が継いでいる。
  • この後、本多平八郎家は分家・転封を繰り返しながら忠勝系本多家宗家11代の本多忠粛のときに三河岡崎藩主となり、岡崎藩6代藩主本多忠直の時に明治を迎えた。
【本多平八郎家】

忠勝〔伊勢桑名〕─┬忠政〔桑名→姫路〕─┬忠刻〔姫路〕
         │          ├政朝〔大多喜→龍野→姫路〕─┬政長〔大和郡山〕━忠国〔大和郡山→福島→姫路〕
         │          └忠義〔龍野〕        └政信〔大和郡山新田〕
         │
         └忠朝〔大多喜〕─政勝〔姫路新田→姫路→大和郡山〕┬勝行〔姫路〕
                                  ├政利〔郡山新田→明石→陸奥大久保〕
                                  └忠英〔郡山新田→播磨山崎〕┬忠良〔村上→刈谷→古河〕
                                                ├忠方〔播磨山崎〕
                                                └忠辰〔播磨山崎〕─忠堯


忠国〔姫路〕─忠孝〔姫路→越後村上〕━忠良〔刈谷〕─忠敞〔古河〕─┰忠粛〔三河岡崎〕
                                 ┗忠盈─忠典━忠顕─忠考─┰忠胤─忠敬
                                              ┗忠民━忠直━忠敬〔子爵〕


【忠勝系本多家宗家】
初代忠勝─2代忠政─3代政朝─4代政勝─5代政長─6代忠国─7代忠孝─8代忠良─9代忠敞─10代忠盈
─11代忠粛─12代忠典─13代忠顕─14代忠考─15代忠民─16代忠直─17代忠敬
  • 養嗣子の本多忠敬が家督をついで子爵となり、その死後長男の本多忠昭が子爵を継いだ。昭和初期に重要美術品認定を受けた際には、この本多忠昭子爵所持となっている。
  • 本多忠昭子爵は明治26年(1893年)生まれ、大正9年(1920年)に襲爵、昭和20年(1945年)に死去。家督は養嗣子の本多光孝が継ぐが、昭和21年(1946年)に戦死。もう一人の養嗣子である本多玄忠が跡を継いだ。

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