折紙
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折紙(おりがみ)
刀剣の鑑定書
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「折紙」
- もともとの「折紙」とは、一枚の紙の片面に文字を記しそれを二つ折りにしたもののこと。
- 室町期に贈答とそのための刀剣鑑定が活発になると、折紙様式で出されることが多くなり、刀剣業界で折紙といえば鑑定書のことを指すようになった。
形式
- 名物刀剣における「折紙」とは、奉書紙を二つ折りにし、そこに刀の銘、正真であることを示す文字、寸法、あれば彫り物など特徴、代付、年月日と鑑定者(本阿弥家)の花押を押したものである。
- つまり代付けと同時に、本阿弥家による本物というお墨付きが重要視された。
- 最も古いものは赤松下野入道政秀のものとされる。
長サ弐尺六寸七分
菊一文字有銘刀 乱のやき
反り 八分半
正真と存候 いよゝ御家宝尤ニ候
文明二年卯月四日 下野(花押)
蔵 人 殿- ※本来は縦書き。
折紙小話
「折り紙付き」
- 慣用句の「折り紙付き」は、この刀剣鑑定書が語源。
刀剣鑑定所の始まり
- 折紙形式となったのは本阿弥家が刀剣極め所となってからのことで、時期については、本阿弥光刹、本阿弥光徳、本阿弥光室、本阿弥光悦など諸説ある。なお本阿弥光刹の折紙は存在しない。
- 本阿弥光徳説には2説あり、慶長初年に秀吉から池田輝政を通じて折紙発行を認められ、折紙の裏に押す「本」という角印を授けられたという。また、慶長2年(1597年)2月に光徳の願いにより秀吉が許可したともいう。元和2年(1616年)家康に召し出され刀剣極め所を命じられたのが初めとする異説もあるが、慶長17年(1612年)に発行された折紙があるため、開始は秀吉による。
折紙の日付
- 初期に例外もあるが、ほとんどのものが「三日」付となっている。これは光徳が極め所になった日であり、本阿弥家では毎月3日に分家も含めて本家に集まり、合同で審議した。これを「内寄合い」と呼びその結論に従って折紙を発行した。
- 鑑定の難しい物はさらに研ぎ直して2月、7月、11月の3日「惣極め」の日に再審査することになっていた。
奉書紙
- 折紙の紙は奉書紙で、本阿弥光室・本阿弥光温のものは薄いが、本阿弥光常の元禄元年ごろから厚手で高品質な紙になっていく。
- これは幕府に願い出て加賀産の奉書紙を年三百枚ずつ賜わることになったためである。紙型もそれまでは不定であったが、以降はほぼ一定になっている。
古折紙
- 本阿弥家でも宗家十三代本阿弥光忠以前のものを古折紙と呼び、珍重する。鑑定が厳格で信用が置けるためという。
- これ以降は折紙が乱発される。折紙料は金百枚につき銀十枚の割合であった。高い代付け料をだせばそれだけ収入も増える仕組みであったため、依頼者の乞いにまかせて代付けは上昇し、折紙の信用は失われていく。
- とくに田沼時代に乱発が行われ、俗に田沼折紙と呼ばれる。そのころは駄刀に高額な折紙料を払って法外な代付けが行われた場合、受け取った側が本阿弥家に折紙を持参すると折紙料の半分の返還を受けることができる仕組みまで用意されていたという。
代付け(しろつけ)
- 金極めと銭極めの2種類がある。
- 金極めは、「代金」「代金子」何枚と記す。一枚は大判一枚のことで、光徳・光室の代には拵えを含めての代付けであった。それ以降は拵えを除いている。
- 光温までは「四枚」の折紙も出していたが、以後は五枚以上でしか発行しなかった。”四”が”死”に通じるためである。
- 銭極めは貫積もりとも呼ぶ。「代何貫」と記すもので、代付けの低かった初期にはよく用いられた。これは”五枚”と書くより”百貫”と書くほうが高価に見えたためである。光常以降は代付けが多くなり金極めが用いられるようになった。
「不知代」「無代」
鎌倉末
室町期
- 右衛門三郎が代付けしたものを文明10年(1478年)2月に右衛門尉常氏が写した写本。粟田口吉光は短刀で百貫、三条宗近・粟田口久国・相州正宗・粟田口国綱・豊後行平などは太刀で百貫となっている。
- 長享年間(1487)の写本では、古備前友成に五千疋、奥州舞草が万疋という注記。
- 永正(1504)ごろ、濃州蜂屋正光の脇差が京都では二百疋だが、美濃では五百疋。
- 天文(1532)ごろ、三条宗近は万疋、河内有成は千五百疋、相州行光は五十貫、古備前友成は六・七十貫。
桃山期
- 天正(1573)ごろ、竹屋家では三条宗近、粟田口吉光、粟田口国綱、豊後行平などを百貫、相州正宗を五十貫、来国行、相州貞宗、郷義弘、一文字則宗、長船光忠などを三十貫と極めている。このころには、代付けを上々、上、中、下上、下などと位付けしはじめた。
- 本阿弥家では、貫や疋の代わりに大判枚数で折紙を出すようになった。
江戸期
- 元禄15年(1702年)の刊本では、吉光・正宗・義弘の三作は無代として、最高は相州貞宗の五十枚、あとは和州当麻と長船長光の三十五枚、ついで粟田口国綱、来国俊、手掻包永、鎌倉一文字助真、備前三郎国宗、相州行光、越中則重、志津兼氏、備前則宗、守家などが二十五枚となっている。
興販行濫(こうはんこうらん)
- 興販は安く買って高く売ること。行濫とは売買で濫り(みだり)なことをすること。
- 銘を入れることを定めた大宝令で、刀や槍に銘を入れるよう定めたのは、当時既に興販行濫が行われており、柔鉄で作ったものを鋼鉄製に装うカギや、高く売りつける商人がいたためであり、犯したものには杖六十という罰則が与えられた。
- 江戸時代でもその実例がある。
- 浅井武右衛門の長船祐定は傑作の出来で、それを見た豊田甚兵衛という目利きが銘を消せば上作の折紙がつくだろうと助言する。その通りにして本阿弥にだしたところ、駿州島田の廣金義助で五枚の折紙が付いた。もう一度磨り直してだしたところ、今度は相州正宗五十枚の値がついた。武右衛門はそれを売って大儲けしたという(仙台間語)。
- また奥州会津藩士粕谷伝八が初代信国の脇差を本阿弥にだしたところ、「銘を磨り消せば相州貞宗の折紙を付ける」といわれたという話もある(刀剣根間草)。
- 本阿弥家では金十枚の折紙を出すときに銀十枚の手数料をとっており、謝礼欲しさに値を釣り上げることがあり、寛正年間の本阿弥光蘇は、新刀を研ぎ減らして郷義弘の折紙をつけて尾張藩に売りつけようとしたのが露見し、幕府から御役御免となっている。さらに本阿弥宗家16代の光久は分家十一軒の合議を経ずに”内証折紙”として勝手に折紙を発行し、明和安永のころから折紙に押す銅印を分家の光勢と光蹊が預かった経緯まであったという。
- 明和4年には佐竹藩に行った時には、1400振余の刀に対して1900振余の折紙を発行したこともあり、1振りの刀に対して折紙と小札を二重に発行して稼ぎまくったという。
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