大島行光


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 大島行光(おおしまゆきみつ)

脇差
朱銘 行光/本阿(花押)
一尺一寸五厘
第23回特別重要刀剣(刀剣博物館)

  • 享保名物帳所載

    大島行光 長一尺一寸分半 代金百枚 加藤和泉守殿
    昔大島茂兵衛殿所持、表峰裏二筋樋梵字、朱銘判光室(一本に大島武兵衛とあり)

  • 銘は、表「行光」、裏に光室の花押が入る「本阿(花押)」。
  • 宝永元年、本阿弥光忠の折り紙が付く。

 由来

  • 大島茂兵衛光政所持。
    埋忠銘鑑では「昔大嶋武兵衛所持申傳候」とする。

 来歴

 大島茂兵衛光政

  • 大島光政は大島雲八光義の次男で、はじめ美濃斎藤利治に仕え、戦功を挙げる。本能寺の変で利治が主君の織田信忠とともに討ち死にすると、斎藤利堯に仕えた。
    斎藤利治は通称新五郎、斎藤道三の末子で母は小見の方という。斎藤利堯も道三の子で、母は稲葉一鉄の姉(深芳野)とする。斎藤利堯は本能寺の変当時は岐阜城留守居役で、岐阜城を掌握するも羽柴方・明智方いずれに付くか旗色を明確にせず、清須会議の後織田信孝が美濃を与えられるとその老臣となる。のち叔父である稲葉一鉄の勧めで信孝の元を離れ、それ以降は不詳。
     本刀の持ち主である大島光政は、本能寺の変間もない天正10年(1582年)の加治田・兼山合戦後に斎藤利堯の元を離れ、丹羽長秀に仕え、賤ヶ岳の戦いから功を上げている。
  • 大島光政は丹羽長秀を経て、馬廻りとして秀吉に仕え、美濃池田郡で千石を与えられる。
  • 関ヶ原では弟光俊とともに西軍に属し伏見城攻めに加わる。しかし父大島光義と兄光成が徳川方についていたため、その勲功と引き換えに罪を赦してもらう。慶長9年(1604年)に父が死ぬと、その遺領を兄弟4人で分知し、それぞれ1万石以下の旗本と為った。

 加々爪氏

  • 行光」はその不遇の時代に手放したと見え、一万石の旗本、加々爪甲斐守直澄の所持となる。
    加賀爪直澄は、江戸時代の旗本。加賀爪直澄の子で、母は安藤直次の娘。水野十郎左衛門らと徒党を組み、乱暴旗本の旗本奴として名を馳せた。江戸の町で「夜更けに通るは何者か、加賀爪甲斐か泥棒か」と恐れられたという。家光の下で小姓を務めたのち2000石が与えられ、書院番頭・大番頭などの要職を歴任する。寛永18年(1641年)に父忠澄が死去すると、その旧領9500石を合わせ武蔵国高坂藩1万1500石の初代藩主となった。
  • 本阿弥光由を介して金具の調製を依頼し、これが寛永19年(1642年)8月26日に完成している。

 加藤氏(会津→水口藩)

  • その後陸奥会津藩主の加藤明成から懇望されたのか、同年極月23日に金二百枚で売っている。
  • かつて本阿弥光由の父本阿弥光室が百枚と代付けしていたので、それから倍になっている。
  • 会津騒動を経て、寛永20年(1643年)4月に加藤明成は「病で藩政を執る状態になく、また大藩を治める任に堪えられない」という理由で所領返納を申し出、翌月翌年に四十万石を召し上げられた。幕府はそれまでの忠勤を考慮し1万石を新たに与えて家名再興を許すが明成は受けなかった。
  • 加藤明成の長男明友は、はじめ家臣に養われていたが取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って石見吉永藩1万石を与えられ加藤家を継いだ。
  • 天和2年(1682年)には近江国水口藩2万石に加増転封され、加藤家は幕末まで存続した。
  • 享保のころは、明成曾孫の加藤嘉矩(近江水口藩主、従五位下和泉守)が所持。
  • 「大島行光」は同家に伝来するが、現在は行方不明となっている。

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