徳川吉宗


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徳川吉宗(とくがわよしむね)  

江戸幕府第8代将軍
松平頼久、頼方、徳川吉宗
新之助
従四位下右近衛権少将兼主税頭、
従三位左近衛権中将
参議、権中納言、征夷大将軍、
正二位内大臣兼右近衛大将、右大臣

  • 徳川幕府中興の祖、江戸時代を代表する名君の一人。
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生涯  

  • 貞享元年(1684年)徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。母は浄円院(由利、紋)。
  • 幼年は家老の元で育てられ、次兄の次郎吉が病死した後は名を新之助と改めて江戸の紀州藩邸に移り住む。
  • 元禄10年(1697年)、14歳で5代将軍徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を(松平)頼久(よりひさ)から頼方(よりまさ)と改めた。
    この時、父光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し、頼方(吉宗)は次の間に控えていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったという。

5代紀伊藩主  

  • 宝永2年(1705年)、まず長兄綱教(紀州藩3代藩主)が5月18日に死去、三兄の頼職(4代藩主)が跡を継ぐ。しかし、同年のうちに8月8日に父光貞(2代藩主)、やがて頼職が9月8日と、半年のうちに病死してしまう。
  • これにより、吉宗は22歳で紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任する。藩主に就任する際、将軍・綱吉から偏諱を賜り、(徳川)吉宗と改名する。
  • 宝永7年(1710年)4月に紀州入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先していた。
  • 2人の兄と父の葬儀費用や、幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた宝永地震(1707年)の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。
  • 紀州藩主としての治世は10年6か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国3回、紀州在国の通算は2年4か月であった。

8代将軍  

  • 享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が僅か8歳で早世し、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の男系男子)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代将軍に就任する。
    館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武がいたが、館林藩領内は重税のため一揆が頻発していた上、本人もひとたび他家に養子に出た身であった上に高齢で男子がいなかったため、選考対象から外れていた。
    また御三家の中では格上であった尾張家の当主四代藩主徳川吉通とその子五代藩主徳川五郎太が相次いで若くして急逝した。吉通の異母弟徳川継友が六代藩主となっていたが、吉宗は天英院や家継生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部詮房・反新井白石の幕臣達の支持も得て、八代将軍に就任する。
  • 吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させている。
    5代将軍徳川綱吉の館林藩、6代将軍徳川家宣の甲府徳川家はそれぞれ当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩にされたという経緯があった。しかし御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。
  • 将軍就任にあたり吉宗は、紀州藩士のうちから加納久通、有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、彼らを側役として従えただけで江戸城に入城した。

享保の改革  

  • 水野忠之を老中に任命して財政再建を開始。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革を行う。そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。
  • 大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁といった改革も行いこれらはのちの蘭学興隆の一因となる。
  • またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。 一方で年貢を五公五民にする増税政策によって、農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。

大御所  

  • 延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲る。将軍在位期間は享保元年(1716年)8月13日~延享2年(1745年)9月25日。
  • なお家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。
  • 二男・宗武や四男・宗尹を養子には出さず部屋住みのような形で江戸城内に留めたまま別家に取り立て、田安家、一橋家(両卿)が創設された。吉宗の死後に清水家が創設され、御三卿となった。
  • 将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去。享年68(満66歳没)。


刀剣  

  • 様々な業績・逸話に事欠かない吉宗だが、刀剣界においても大きな業績を残した。

享保名物帳  

  • 享保4年(1719年)11月、吉宗は本阿弥家十三代当主の光忠に命じ、全国に散在する名物といわれる刀剣情報を収集させ、提出させた。

    享保四年己亥十一月三日
    将軍吉宗公命有久世大和守於宅諸家へ被仰書付
              覚
    一、領分之内に居候打物仕候鍛冶何人ほと有之候哉人別に名書付可被差出候内誰々は別て打物仕候と有之儀附札に成共可被書付事
    一、右鍛冶共の内当時打物細工ははやり用不申候得共此内誰々者家筋にて古来より作之筋目にて今以打物仕家業致相続有之候と申儀是又附札成共書付可被差出事 以上

    久世大和守は重之。下総関宿藩の2代藩主。享保5年(1720年)6月27日没。

  • これが後年「名物帳」、「享保名物帳」と呼ばれるようになる。享保名物帳は、刀剣の世界での名刀評価を定着させ、広く膾炙する効果があった。現在「名物」と呼ばれる刀剣の評価を決めたのは享保名物帳である。

新刀鍛冶の発掘  

  • なお享保名物帳には新刀が載っていない。そこで吉宗は、万石以上の諸大名に領内鍛冶の報告を行わせ、その中からとくに優れた刀工277名を報告させた。うち四名を江戸に招き、古刀の写しを行わせるなど日本刀再興への足がかりを作った。

    享保亥年三月廿五日於同人宅被仰渡御書付
              覚
    一、領内有之鍛冶の儀被相達候に付書付被差出候右書付の内にて鍛冶打候刀脇差の内一腰可被差出候
    一、右書付の内難差出仕鍛冶両人有之候は一腰、両腰可被差出候同じ一人一作一腰差出候様に可被心得候
    一、右者当時打物仕居申候鍛冶打置候道具の事に候鍛冶の手前に不合候は打置候を才覚可差出候新規打立候には不及候 以上

    されども世人專ら古刀を貴ぶの弊ありて。新製は利刀にても。好む人少きに至れり。享保四年万石より上の人々。領知の内に住ぬる刀工の事を御尋あり。
    その中に殊に精功なるをえらびて奉るべしと仰下され。鍋島加賀守直英より播磨忠國。小笠原右近將監忠雄よりは高田政平。戸澤上總介正庸より羽州長恒。松平紀伊守信峯より利重。松平長門守利興より越中清光。木下右衞門佐俊量より槌景行。相馬彈正少弼尊胤より伏見廣近。丹羽左京大夫秀延より法心重道。内藤備後守政樹より鈴木貞則。米倉主計忠仰より小笠原長宗。水野日向守勝政より島田助宗。井伊掃部頭直惟より下總兼正。藤堂和泉守高敏より陸奧歳長。溝口信濃守直治より小林正永。松平越後守宣富より濃州兼景。關備前守長治より播磨重高。松平大炊頭繼政より上野祐定。阿部伊勢守正福より島田義助。松平中務大輔宗昌より伊勢國次。戸田山城守忠眞より法成寺吉次。酒井雅樂頭親愛より關吉門。毛利讃岐守匡廣より玉井清盈。松平隱岐守定直より和泉國輝。松平右近將監清武より下坂繼正。石川主殿頭總慶より水田國重。仙石信濃守政房より關兼光。立花飛騨守鑑任より下坂親信。土井大炊頭利實より高田本行。津輕出羽守信壽より橘森宗。松平甲斐守吉里より後藤盛長。本多唐之助忠時より大和國武。戸田釆女正氏定より志津兼氏。松平市正親純より高田正行。松平肥後守正容より若狹道辰。細川越中守宣紀より大和忠行。尾張家より伯耆信高并壽命。酒井修理大夫忠音より若狹冬廣。松平丹後守吉茂より播磨忠國。紀伊家より直茂。直勝。松平加賀守綱紀より近藤金行等の新刀を奉る。其他の刀工も聞えあるかぎり。二百七十七人の姓名を注して奉る。
    其中にも松平薩摩守吉貴(薩摩藩島津家)が封内の刀工玉置小市安平。宮原正清をめされ。濱の御庭にて新刀をうたしめられ。小市は主馬首。正清は主水正に受領せしめらる。松平筑前守繼高(福岡藩黒田家)が領地の刀工信國。重包も府にめされ。御刀三口。差添二口を鍛ひて奉る。御差添は不動國行の刀を摸されしとなり。
    此外奉行所よりも隷下の刀工にうたせて進覽し。京よりは助宗。久道。河内國よりは輝邦。當國多摩郡よりは康重。利長。國重。宗重。その子藤五康重等の刀を奉る。同處の工安國父子は。このさきにも命ありて。うちて奉りしなり。
    (有徳院殿御實記附録巻十二)

    • 濱の御庭:浜御殿、現浜離宮庭園。

関連項目