疱瘡正宗
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疱瘡正宗(ほうそうまさむね)
- 長二尺二寸五分
- 鎬造り、庵棟。中反り。鋩子は掃きかける。彫り物は表裏に棒樋を掻き流す。
- なかご大磨上、目釘孔2個。
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由来
- 4度も将軍世継の疱瘡全快祝いとして贈られたために名付けられたという。
- 8代将軍吉宗
- 享保13年(1728年)4月4日、世子家重の疱瘡全快を祝して贈る
- 9代将軍家重
- 宝暦3年(1753年)2月11日、世子家治の疱瘡全快を祝して贈る
- 11代将軍家斉
- 文政3年(1820年)11月15日、世子家慶の疱瘡全快を祝して贈る
- 12代将軍家慶
- 天保11年(1840年)11月6日、世子家定の疱瘡全快を祝して贈る
来歴
藤堂家
- 元は伊勢津藩主藤堂家の所蔵。
5代将軍綱吉
- 元禄16年(1703年)6月28日、4代藩主藤堂高睦が襲封の御礼として、3代高久の遺物である正宗を綱吉に献上。
藤堂高睦は藤堂高虎の孫。異母兄である高久に嗣子がなく、養嗣子となる。元禄16年(1703年)6月10日、養父(兄)高久の死去により跡を継いだ。同年12月21日、従四位下・侍従に叙任されている。藤堂大覺頭高睦襲封を謝して。備前長光の太刀。金五十枚。綿五百把をさゝげ。亡父和泉守高久が遺物とて。正宗の刀。大島肩衝の茶入を獻じ。一位尼公に後圓融院宸翰の新千載集。御臺所に後光嚴院宸翰の千載集を奉る。
(徳川実紀)
紀伊徳川家徳川吉宗
- 宝永2年(1705年)9月8日、紀州徳川家第4代藩主の徳川頼職が早世したため、将軍綱吉は頼職の弟である頼方(後の8代将軍吉宗)に偏諱を与えて「吉宗」と改名させ、宝永2年(1705年)12月朔日にこの正宗を贈っている。
主税頭頼方朝臣(後の8代将軍吉宗)從三位左近衞權中將に叙任せられ。御一字賜はり吉宗卿と改めらる。よて青江次吉の太刀。銀五百枚。時服三十獻せられ。大納言殿にも備前雲生の太刀。時服二十。銀三百枚。後閤の御方方へも捧物あり。御盃下され。正宗の御刀引出物とし給ふ。
(徳川実紀)
将軍家
- 享保元年(1716年)に7代将軍家継が8歳で早世すると、吉宗は天英院や家継生母・月光院等の大奥からも支持され、8代将軍に就任。本刀も将軍家御物となる。
- その後、上述したように将軍から将軍世継へと四度贈られ将軍家に伝来した。
- 鞘書きに、12代家慶から世子家定に贈った際のことが書かれている。
天保十一子年十一月六日 御疱瘡御快癒御祝儀之時 従公方様(12代家慶)右大将様(13代家定)江進 代三千貫二十六番
- 昭和36年(1961年)2月17日重要文化財指定。
佐野隆一
- 佐野美術館の創立者佐野隆一が買い求める。
佐野隆一は実業家。明治22年(1889年)8月1日三島の和菓子屋佐野米吉の子として生まれる。大正14年(1925年)3月鉄興社創立、同社は昭和50年(1975年)東洋曹達工業と合併、現東ソー。その他、日本石英硝子社、プラス・テク社、日本カーボン社、東邦アセチレン社などの設立に関わり、特に化学製品分野で活躍する。後年、出身地である三島への多額の寄付を行う。骨董蒐集で知られ、昭和41年(1966年)2月11日財団法人佐野美術館設立、11月10日開館。昭和52年(1977年)5月29日87歳で没。
- 現在は佐野美術館所蔵。
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