春日権現験記絵


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 春日権現験記(かすがごんげん げんき)

絹本著色
巻子装
全20巻(目録1巻)
国宝
所有者 国(宮内庁三の丸尚蔵館保管)

Table of Contents
  • 藤原氏の氏神である春日神(春日権現)について、承平7年(937年)の託宣から嘉元2年(1304年)の神火に至る霊験潭を描いた絵巻物。

    篇目に於ては、上は承平の神託より、下は嘉元の奇瑞迄、或ひは笠置上人の旧記に於て、或ひは都鄙諸家の甄録を尋ねて、類聚せらる所なり

  • 大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の代表作であると共に、制作時期・制作者が判明していること、全巻が揃い当時の風俗が細かく描かれていることなどから、日本の中世を知る貴重な歴史的資料とされる。
  • 「春日権現験記絵巻」、「春日権現霊験記絵巻」などとも。
  • 模本が多数制作されているこの三の丸尚蔵館所蔵本(原本)は、特に「御物本」とも呼ばれる。
  • 令和3年(2021年)9月30日、国宝に指定された。
  • 法量
    • 縦40.0~41.5cm、長767.3~1306.6cm

 制作

  • 西園寺公衡の発願により、絵は絵所預であった右近大夫将監・高階隆兼、詞書は公衡の同母弟である興福寺別当覚円法印が起草し、大乗院の慈信と三蔵院の範憲による確認を経た後、清書は前関白鷹司基忠、その子の冬平(後の関白)、冬基、良信ら四人による。
  • 制作時期は、徳治2年(1307年)頃とされる。
    西園寺公衡(さいおんじきんひら)
     鎌倉時代後期の公家。西園寺家は清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門。太政大臣西園寺実兼の嫡子で、母は内大臣中院通成の娘顕子。建治2年(1276年)に従三位、延慶2年(1309年)従一位左大臣。同年中に辞し、応長元年(1311年)8月に出家し、法名は静勝。竹林院入道左大臣(竹林院左府)と称された。正和4年(1315年)薨去。
     関東申次であった父・実兼を助け、正安元年(1299年)6月に父が出家すると、幕府の要請を受けて嘉元2年(1304年)夏に関東申次となった。公衡自身は持明院統に近く、さらに妹・瑛子(昭訓門院)が生んだ亀山法皇の皇子・恒明(常盤井宮恒明親王)を扶持したため、大覚寺統の後宇多上皇と折り合い悪く嘉元3年(1305年)には勅勘を蒙って失脚している。日記は「公衡日記」、「竹林院左府記」、あるいは西園寺家歴代の管見記の一部として「管見公衡記」とも呼ばれる。
    【北家・閑院流】
    藤原公実─┬実行【三条家】
         │                           【今出川家(菊亭家)】
         │【西園寺家】                    ┌今出川兼季
         ├通季─公通─実宗─公経─┬実氏───公相───実兼─┴公衡
         │            ├一条実有【清水谷家】
         └実能【徳大寺家】    ├山階実雄【洞院家】
                      └室町実藤【室町家(四辻家)】
    
    
    
    【西園寺家系図】
          ┌嬉子(亀山天皇中宮、今出川院)
    西園寺公相─┴西園寺実兼─┬西園寺公衡
                 ├鏱子(伏見天皇中宮)
                 ├瑛子(亀山院後宮)──常盤井宮恒明親王
                 ├今出川公顕
                 ├今出川兼季
                 ├覚円(興福寺別当)
                 ├性守(天台座主)
                 ├道意(仁和寺)
                 └禧子(後醍醐天皇皇后)
    
    【鷹司家系図】
    
    近衛家実─┬近衛兼経──基平──家基─┬経平──基嗣──道嗣──兼嗣──忠嗣─→
         ├長子(後堀河中宮)    └家平──経忠
         │
         │【鷹司家】
         └鷹司兼平──鷹司基忠─┬鷹司冬平
                     ├鷹司冬基
                     ├鷹司冬教
                     └良信(大覚寺20代門跡)
    
    • ※以下、近衛家、鷹司家、田安家(徳川家)、紀州徳川家の系図が重複して出るが、関係者に繋がりのある場合が多いため注意。その時々の関係者を黄色で示す。

 目録奥書

絵 右近大夫将監高階隆兼絵所預
詞 前関白父子四人、敬神之志懇切之余、爲
  結縁、不可交他筆之由、所被約諾也。於篇目著、
  覚円法印注出之。且、相談兩前大僧正慈信、範憲訖。
予、稟藤門之末葉、専仰当社之擁護、不耐
敬神之懇志。爲増諸人之仰信、大概類集之、
遂猶切磋、重可書加者也。凡企比懇志之後、
家門触事有吉祥。爰知相叶祖神之冥
處歟。後輩弥可抽敬信之精誠而已。
   延慶ニ年三月 日 左大臣藤原朝臣(花押)

 来歴

 西園寺公衡→春日社

  • 制作後も西園寺公衡が自ら所持していたが、正和4年(1315年)公衡の薨去後に覚円法印が相続し、春日社に奉納された。
  • 宝庫に納められた本絵巻は、摂関、氏の長者、興福寺の一条院・大乗院の門主が春日社神主をして厳重に管理せしめ、江戸時代中期までわずかしか春日社を出ていない。
  1. 足利義満による絵合 ※応永年間

    先年鹿苑院殿絵合之時、自社頭被出了、共時拝見了、

  2. 延徳2年(1490年)7月:後土御門天皇への進覧
  3. 享禄2年(1529年)2月29日:後奈良天皇への進覧 ※翌30日には公卿が拝見しており、山科言継、三条西実隆らの日記にも残る

    春日權現驗記を叡覽あらせらる、尋で、廷臣を召して、之を一覧せしめらる、

    なお三条西実隆は、文亀元年(1501年)10月4日に土佐光信が「北野縁起絵巻」の相談で訪れてきた際に、この春日権現験記絵の下絵(の技法)について話している。
  4. 元禄14年(1701年)4月:東山天皇への進覧
  5. 享保10年(1725年):将軍吉宗の上覧
【南北朝~室町期 天皇家系図】
後嵯峨───┬宗尊親王
      │
      │ 【持明院統】
      ├後深草───┬伏見───┬後伏見──┬光厳──┬崇光──栄仁親王(伏見宮)→
      │      └久明親王 │     └光明  ├後光厳
      │            └花園────────┴直仁親王(萩原宮)
      │
      │ 【大覚寺統】
      └亀山─────後宇多──┬後二条
                   └後醍醐───後村上─┬長慶
                              ├後亀山───小倉宮恒敦
                              └惟成親王


【伏見宮家】
─栄仁親王──貞成親王───後花園───後土御門───後柏原──後奈良──正親町→



─正親町──誠仁親王─┬後陽成──────┬後水尾──────┬明正
           ├良恕法親王    ├近衛信尋     ├後光明
           └智仁親王【八条宮】├高松宮宮好仁親王 ├後西
                     └一条昭良     └霊元───東山─┬中御門
                                        └閑院宮直仁親王	

【持明院統 伏見・後伏見・光厳・光明】

       伏見天皇  ┌道凞法親王
        ├────┴寛胤法親王
正親町実明─┬正親町守子
      │ ├────┬承胤法親王(天台座主)
      │ │    ├長助法親王(英彦山座主)
      │ │    ├亮性法親王(天台座主)
      │ │    └璜子内親王(章徳門院)
      │後伏見天皇
      │ ├────┬珣子内親王(新室町院、後醍醐天皇中宮)
      │ │    ├量仁親王(光厳天皇)──┬崇光──栄仁親王(伏見宮)
      │ │    └豊仁親王(光明天皇)  ├後光厳
西園寺公衡─│西園寺寧子              └直仁親王(萩原宮)
      │
      │
      │      ┌儀子内親王
      │      ├直仁親王(※系図上)
      │花園天皇  ├源性入道親王
      │ ├────┴寿子内親王(徽安門院)
      ├正親町実子
      │ ├─────直仁親王(萩原宮)
      │光厳天皇
      │ ├────┬興仁親王(崇光天皇)
      │ │    └弥仁親王(後光厳天皇)
      │三条秀子(陽禄門院)
      │
      │
      └正親町公蔭
        ├────┬正親町忠季
 赤橋久時─┬赤橋種子  ├正親町実文
      ├赤橋守時  └一条局(光厳後宮)──義仁親王(正親町宮)
      ├洞院公守室
      └赤橋登子
        ├────┬足利義詮
       足利尊氏  ├足利基氏
             └鶴王
  • 享保10年(1725年)の将軍・吉宗の上覧後、5ヶ月ほど江戸に留め置かれた。
  • この後、田安宗武が後に「春日本」と呼ばれる模本制作を行っており、原本を借り受けている。

 下京商人→勧修寺経逸→鷹司政煕

  • その後、京都の市中に流出していた「春日権現験記」を勧修寺経逸が発見し収集、鷹司政煕が懇望して譲り受けている。
  • 「春日本」の制作は明和8年(1771年)の宗武の死により中断するが、子の松平定信により再開される。この時には市中に散逸していた後と見られ、勧修寺家より模本を借り受けての模本制作となっている。※この経緯は、「紀州本」の絵詞目録に詳しく書かれている。

    かく長き年ごろ、彼処の神庫に有りけるを、いつばかりか散ぼひ失けん。近き年ごろ、下京わたりの商人の倉より出たりとて、ある人の持たりけるを、勧修寺殿の経逸卿聞つけたまひて、此画のさてあるまじき事を不審みつゝ、春日にいひやりて、糺されけるに、神庫にはみながら無しと答申たるにおどろきて、人をわかちて、その行方たづねさせ玉ひけるとぞ、然するほどに、そここゝより出きたりて、全部もとのごとくにとゝのひたり、そのかみ、鷹司殿の楽山故准后殿下にておほしけるが、かくときゝ給ひて、其は遠祖たちのあつき志にて物せられたるを、然はふらせたらんは、口おしき事なりとおぼして、経逸卿にこひて、終にかの殿の文庫の宝といつき持給ひき。かくてこの画をさらに模写させて、複本は殿に残しとゞめ、古きをば神庫にかへし納めてんとの厚志にて、原在明にあつらへて、筆たてさせたまひぬ。されどたやすくかき終べき画様にあらず、いとま入るわざなりとて、この年間いまだはたさずてぞありける
    (東博所蔵紀州本 絵詞目録)

  • この間の所在が不明のため、18世紀以降の経緯を整理すると次のようになる。
    1. 【元禄14年(1701年)4月】:東山天皇への進覧
    2. 【享保10年(1725年)】:将軍・吉宗の上覧
    3. 【享保11年(1726年)2月11日】:霊元法皇への進覧
    4. 【享保15年(1730年)11月24日】:吉宗、春日験記を宗武に贈る
    5. 【享保20年(1735年)8月23日】:近衞家凞による陽明文庫本完成
    6. 【宝暦8年(1758年)】:※勧修寺経逸叙爵。収集はこの後か
    7. 【明和8年(1771年)】:宗武死去。これまでに原本を借り受け一度完成するも焼失。再度原本を借り受けて9巻と目録及び別巻まで完成
    8. 【天明4年(1784年)】:「春日本」の模本である国立国会図書館本完成
    9. 【文化2年(1805年)】:※勧修寺経逸死去
    10. 【文化4年(1807年)7月】:宗武を引き継いだ定信による「春日本」完成
    11. 【天保14年(1843年)5月1日】:「紀州本」制作のため鷹司家より「験記」を借り受ける
    12. 【弘化2年(1845年)5月24日】:徳川治宝による「紀州本」完成
    13. 【嘉永4年(1851年)頃】:「新宮本」完成
    14. 【明治8年(1875年)/明治11年(1878年)】:皇室に献上

※確認中であり、誤りを含む可能性があるため注意※
仮にこれが正しいとすれば、1.陽明文庫本と春日本(桑名本)の制作が同じ頃、2.その後、制作途中の春日本を元に国立国会図書館本が制作、3.勧修寺経逸による原本収集、4.勧修寺家本を元に「春日本」の残り完成、5.鷹司家本を元に「紀州本」制作、6.「新宮本」完成という順序になる。

 鷹司家→天皇家

  • その後、「春日権現験記」原本は鷹司家に伝来し、明治に入ってから明治8年(1875年)3月30日に14巻、明治11年(1878年)9月に2巻の二度に渡って皇室に献上され、天皇御物となる。
    数が合わないが、最初に14巻のみ、後に見つかった2巻を追加で献納している。

 宮内庁(国宝指定)

  • この原本については、痛みが激しかったため平成16年(2004年)~平成31年(2019年)にかけて本格的な修復作業が行われ、平成30年(2018年)に15巻が「春日権現験記絵-甦った鎌倉絵巻の名品-」(修理完成記念)において展示公開された。
  • 2021年7月文化審議会は、三の丸尚蔵館に収蔵する「春日権現験記」を含む絵画4点書跡1点を国宝指定するよう文部科学大臣に答申した。三の丸尚蔵館収蔵品が指定されるのはこれが初めてとなる。
  • 令和3年(2021年)9月30日、官報号外第221号にて告示され、国宝に指定された。
    国宝指定は、「絹本著色春日権現験記絵」、「紙本著色蒙古襲来絵詞」、「紙本金地著色唐獅子図」、「絹本著色動植綵絵」、「屏風土代保延六年十月廿二日藤原定信奥書」の5件が同時。




  • その他の拝見・贈答等記録 ※一部模本を含む。確認中
    1. 延徳2年(1490年)8月1日:後土御門天皇への進覧後に大乗院で拝見している。

      一、祐松物語、當社験記繪二十巻、自禁裏被仰出之間進上之、御拝見後則返給之、只今東北院ニ在之云々、仍自寺務内々御拝見所望之由、被仰遣東北院之處、明日ハ良家衆可拝見之由、明夕可進上之、明後日ハ可奉納于社頭云々、社頭外ハ東北院ニ出申、其外ハ先例雖不覺悟、自寺務仰聞可進上云々、

    2. 天正12年(1584年)10月3日:大乗院尋憲が拝見
      大乗院尋憲は二条尹房の子。法相宗。大和興福寺大乗院門跡、興福寺別当。大僧正。
    3. 享保11年(1726年)2月11日:霊元法皇への進覧

      甲戌、法皇、□□□□所蔵の春日験記を観る、

      【後水尾天皇中心系図】
      
                     ┌貞子内親王(二条康道室)
                     ├一条昭良(一条内基養子)
                     ├高松宮好仁親王【高松宮創始】
                     ├近衛信尋(近衛信尹養子)  ┌女五宮( 二条光平室)
                     ├清子内親王(鷹司信尚室)  ├高仁親王
                     │              ├女二宮(近衛尚嗣室)
                     │徳川和子(東福門院)────┴興子内親王(明正天皇)
                     │ │            ┌賀茂宮
                     │ │  四辻与津子─────┴文智女王
            後陽成天皇    │ │   │
              ├──────┴政仁親王(後水尾天皇)
      近衛前久─┬近衛前子       │   │   │
           └近衛信尹━━近衛信尋 │   │  園光子────紹仁親王(後光明天皇)
                       │  園国子───────┬常子内親王(近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母)
                       │            └識仁親王(霊元天皇)───┬朝仁親王(東山天皇)
                     ┌櫛笥隆子──────────┬良仁親王(後西天皇)   ├有栖川宮職仁親王
                 櫛笥隆致┼貝姫(伊達忠宗側室)──綱宗└穏仁親王(第3代八条宮) └吉子内親王   
                     └山内忠義継室       
      
      
      ※つまり、元禄14年(1701年)4月の東山天皇への進覧の25年後に父の霊元法皇が拝観していることになる。また霊元法皇のきょうだい常子内親王は近衛基熙に嫁ぎ、近衛家熙および近衛熙子(天英院、徳川家宣正室)を産んでいる。
    4. 享保15年(1730年)11月24日:吉宗、春日験記を宗武に贈る

      己丑、将軍吉宗、春日験記を宗武に賜ふ、
      けふ右衛門督宗武卿童形あらためらるゝをもて御座所にて御對面あり。前髪をば御みづからはさみ給ひしとぞ聞えし。太刀。金馬代。綿廿把ささげ謝し奉られ御盃を下さる。(略)宗武卿には松平左近将監乗邑して巻物十。二種一荷つかはさる。

 模本

 勧修寺家本

  • 勧修寺家にあったとされる模本。
  • 勧修寺経逸は、ある時下京の商人の倉から出たという春日権現験記を発見し、春日社に問い合わせた所確かに紛失していると聞き、市中に散らばっていた春日権現験記を収集した。
  • その後、勧修寺家で模本を制作していたのか、松平定信による「春日本」制作の時に原本を借り出せず、この勧修寺家にあった模本を借り受けた上で模本制作を行っている。
  • 制作は陽明文庫本より早いとされるが、上記年代順整理を考慮すると矛盾がある。
    勧修寺経逸(1748-1805)。宝暦8年(1758年)叙爵、翌年元服。安永8年(1779年)5月4日、参議。安永9年(1780年)、従三位。寛政元年(1789年)権大納言、正二位となる。娘・婧子は光格天皇典侍となり寛政12年(1800年)に後の仁孝天皇を産んだため、経逸は天皇の外戚となった。また多くの有力公卿と縁組みし、本座の宣下を受けた。
                 ┌芝山国豊
    池田仲庸───池田数計子 ├冷泉為起
    勧修寺顕道    ├────婧子(光格天皇典侍)───仁孝天皇
      ├────勧修寺経逸─┬勧修寺経睦
    稲葉恒通娘    │   ├正親町三条公則室
             │   ├坊城俊明室
             │   ├万里小路建房室
             │   ├日野資愛の室
             │   ├徳子(仁孝天皇典侍)
             │   ├中納言高倉永雅室
             │   ├権大納言平松時門室
             │   ├安藤直則(紀伊家付家老)室
             │   └堀河康親室(岩倉具視実母)
             ├────勧修寺良顕
           飛鳥井雅重娘
    

 陽明文庫本

陽明文庫所蔵

春日權現驗記寫 二箱

  • 元禄14年(1701年)の東山天皇への進覧に先立って、近衛基凞が拝観しており、その際に子の家凞、孫の家久も拝観している。※近衛家は、宝蓮院を通じて「春日本」を模写した徳川宗武、松平定信にも繋がる。
    【近衛家系図】
    
    ─近衞基熈──近衞家熈─┬近衞家久─┬近衞内前──近衛経熙─┬近衛基前──近衛忠熙
                ├鷹司房熙 └宝蓮院        └広大院(家斉室)
                └鷹司尚輔   ├───┬誠姫
                        │   ├仲姫(池田重寛正室)
                        │   ├徳川治察(田安徳川家2代)
                 本徳院    │   └節姫(毛利治親正室)
                   ├───徳川宗武─┬松平定国【伊予松山藩】
                 徳川吉宗       ├松平定信【陸奥白河藩】
                   ├───徳川家重 └種姫(徳川治宝室)
                 深徳院
    
  • のち近衞家凞は渡辺始興に模本の制作を命じている。渡辺始興は3年を費やし、享保20年(1735年)8月23日に完成。
  • 詞書:近衛家凞筆
    近衛基凞(1648-1722)
    近衞家凞(1667-1736)法名豫樂院、豫樂院家凞。
    近衛家久(1687-1737)

    渡辺始興(わたなべ しこう)は江戸中期の絵師。通称求馬。多様な様式で描いたが、一般に琳派に分類される。宝永5年(1708年)頃から東宮御所や近衛家に仕え、二条家など上流貴族の屋敷に出入しており、「春日権現霊験記絵巻」「賀茂祭絵巻」「八幡太郎絵詞」などの優れた模本を残す。また重要文化財では大覚寺障壁画、近衛予楽院(家煕)像などを残す。宝暦5年(1755年)没。近衛家熙の庇護を受けており、菩提寺は近衛家の墓所でもある京都西王寺にある。

 鷹司家

  • 勧修寺経逸が京都市中から回収した原本を譲り受けた鷹司政煕が、原在明(春日絵所)に模写させていたもの。
    鷹司政煕(1761-1841)

    原在明(はらざいめい)は、原在中(ざいちゅう)の次男。名は近義。字は子徳、在明、写照と号す。原在明以後、代々春日絵所となった。
    【鷹司家系図】
    
    近衛家実─┬近衛兼経──基平──家基─┬経平──基嗣──道嗣──兼嗣──忠嗣─→
         ├長子(後堀河中宮)    └家平──経忠
         │
         │【鷹司家】
         └鷹司兼平──鷹司基忠──鷹司冬平→
    
    
    
    鷹司兼平──基忠─┬冬平──師平──冬通──冬家──房平──政平──兼輔──忠冬━━信房→
             └冬教
    
    
    二条晴良──鷹司信房─┬信尚──教平─┬鷹司房輔─┬鷹司兼熙━━房熙━━尚輔━━基輝━━輔平──政煕──政通
               │       ├九条兼晴 └一条兼香─┬一条道香
               │       ├房子(霊元天皇中宮) ├鷹司基輝
               │       └信子         └恭礼門院富子(桃園天皇女御・後桃園天皇生母)
               │         │
               ├孝子     ┌徳川綱吉
               │ │     ├徳川綱重──徳川家宣
               │徳川家光───┴徳川家綱
               │
               └松平信平【鷹司松平家】
    
                                       ┌任子(第十三代将軍徳川家定室)
                                       ├并子(徳島藩主蜂須賀斉昌室)
                                       ├定子(尾張藩主徳川斉温室)
                   ┌公啓入道親王(天台座主)       ├繋子(仁孝天皇女御・贈皇后)
    櫛笥賀子           ├典仁親王(第二代閑院宮)──光格天皇 ├吉子(閑院宮孝仁親王妃)
      ├──┬中御門天皇    ├倫子女王(徳川家治室)        ├隆子(加賀藩主前田斉広室)
    東山天皇 └閑院宮直仁親王──┴鷹司輔平──┬鷹司政煕────────┴鷹司政通
            ├──始宮治子女王     ├徳大寺実堅
    近衛基熙─┬近衛脩子  ┌近衛家久     ├達子(伏見宮邦頼親王妃)
         ├近衛家熙──┼鷹司房熙     ├富子(有栖川宮織仁親王妃)
         └近衛熙子  └鷹司尚輔     ├隆範(興福寺別当 大乗院門主)
            ├────豊姫       ├高演(醍醐寺三宝院門主 東寺長者 准三宮)
          徳川家宣───徳川家継     └覚尊(東大寺別当 勧修寺門主)
    
    

 春日本

22巻
春日大社所蔵

  • 「桑名本」、「松平定信本」とも
    松平定信は陸奥白河藩3代藩主。その子・松平定永の代の文政6年(1823年)3月24日に、定永を桑名に、桑名の松平忠堯を武蔵国忍に、忍の阿部銕丸を白河へ移す三方領知替えが命じられ、以後、定綱系久松松平家は桑名藩主となっている。これは、隠居したものの実験を握っていた父・定信の運動によるものとされている。「桑名本」の名はこれによる。定信は文政12年(1829年)5月に死去、享年72。
  • 吉宗の子・田安宗武が模写本の制作を命ずるも、初めに制作したものは火災により烏有に帰し、さらに借り受けて模写を続けたものの宗武の死により10巻あまりの未完で終わってしまい、さらにその子である松平定信が完成させている。
    【近衛家系図】
    
    近衛家実─┬近衛兼経──基平──家基─┬経平──基嗣──道嗣──兼嗣──忠嗣─→
         ├長子(後堀河中宮)    └家平──経忠
         │
         │【鷹司家】
         └鷹司兼平──鷹司基忠──鷹司冬平……鷹司政煕
    
    
                                 水戸光圀
                                  │
                                ┌泰姫
    ─近衛房嗣──政家──尚通──稙家──前久─┬信尹───┴尚嗣──基熙─→
                          └中和門院 ┌後水尾天皇
                            ├───┴近衛信尋(二宮)
                           後陽成天皇
    
    
    ─近衞基熈──近衞家熈─┬近衞家久─┬近衞内前──近衛経熙─┬近衛基前──近衛忠熙
                ├鷹司房熙 └宝蓮院        └広大院(家斉室)
                └鷹司尚輔   ├───┬誠姫
                        │   ├仲姫(池田重寛正室)
                        │   ├徳川治察(田安徳川家2代)
                 本徳院    │   └節姫(毛利治親正室)
                   ├───徳川宗武─┬松平定国【伊予松山藩】
                 徳川吉宗       ├松平定信【陸奥白河藩】
                   ├───徳川家重 └種姫(徳川治宝室)
                 深徳院
    
  • なお宗武が模写に用いたのは原本であり、定信が用いたものは勧修寺家にあった模写本であるとされる。
  • 9巻と目録および別巻は明和8年(1771年)以前に、また10巻以降は文化4年(1807年)7月に完成。
  • 目録と別巻が付属しており、別巻には原本1巻の春日社草創由来に、田安宗武の論評が続く。
    田安宗武(1716-1771)、松平定信(1759-1829)
  • 奥書

    春日権現験記廿巻故ありて勧修寺家より朝に奏して、一切神庫を出す事をゆるさず、もとより模写の本、勧修寺家の外一切無之事也、それらの事定ざる前、田安御屋形にて近衛家へ懇願し給ひて、不残模写出来候処、祝融の為に烏有となる、其後再びその御企ありて又々近衛家へ懇願し、上十巻余り模写出来せしに、黄門君(宗武)かくれ給ひてより、終に中絶、その後に至り神庫不出之規定出来して、企及びがたき事に成たるを、松山少将君(松平定国か)と予(定信)とさまゞにはかり、森可林とて田安より予に付来るものあり、かれは勧修寺家の親族なり、それによりて模写して、黄門君の志をつがまほしきことを深く懇願に及ぶ、許容成がたき所、誠実の情を被察、勧修寺より鷹司関白殿へうつたへ、それより御気色をもうかゞはれて、終に両家の外へは出すべからざるのよしにて、模写の免許を得、年月をつみて廿巻成就、実に難得珍宝、難求の奇宝也、後世能々秘蔵すべきものなり
      文化四卯年七月廿四日
         左近衛少将兼越中守源朝臣定信識

 紀州本

東京国立博物館所蔵

  • 紀州藩所蔵本、長澤伴雄識語本
  • 紀州藩10代藩主である徳川治宝が、林康足、原在明、浮田一蕙、冷泉為恭、岩瀬広隆らに模写を命じたもの。長澤伴雄による別冊「春日権現験記絵詞目録」が付随する。

    かくてこの画うつさせたる人、こは、従四位下河内守林康足、従六位下内匠大允原在明、従五位下伊勢守其同が子の三郎為恭、浮田内蔵介可為、小野広隆と五人、詞書は鴨の社司従四位上讃岐守林康満に模写させぬ、また目録も同じ手なり、さて表鋪のさまも、みな元巻のさまにうつさせたるになんありける、あはれ、わが一位の殿(治宝)の故実の学に、かくあつき御志のおはせざらましかば、いかでかゝるめづらしき古画詞を見る事を得ましと、うれしくかたじけなくよろこばしさに、筆辞の拙をもわすれて、そのゆゑよしを記し置く物なり
                       長沢衛門源伴雄謹誌(花押)
       弘化二年三月

    徳川治宝(とくがわ はるとみ)
     紀伊国紀州藩8代藩主である徳川重倫の次男。紀州藩10代藩主。正室は種姫(徳川家治養女、徳川宗武の娘)。寛政元年(1789年)12月、家督相続し従三位・参議。寛政3年(1791年)権中納言に転任。文化13年(1816年)従二位に昇叙し、権大納言に転任。文政7年(1824年)6月6日隠居。天保3年(1832年)3月5日正二位に昇叙し、権大納言如元。天保8年(1837年)8月28日従一位に昇叙し、権大納言如元。御三家当主で生前に従一位に叙せられたのは治宝のみである。
     学問好きで知られ、藩士子弟の教育を義務化し、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどしている。治宝の祖母・清信院は賀茂真淵の門人であり、治宝は宣長を召し出し、松坂城下に住まわせている。「古事記伝」の題字も治宝が行なっており、治宝は「数寄の殿様」と呼ばれる。絵画にも親しみ、「春日権現験記」の模本制作を行わせた他、自ら絵筆を取り、菩提寺である長保寺には作品が残る。
     治宝の治世である文政6年(1823年)に紀の川流域で「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が勃発し、翌年治宝は清水家からの養子・斉順(将軍・徳川家斉の七男、紀州藩11代藩主)に家督を譲っている。弘化3年(1846年)に斉順が死ぬと、治宝は伊予西条藩から松平頼学を新藩主に迎えようとしたが、御附家老・水野忠央の工作により頓挫する。水野忠央は将軍家慶が忠央の妹の側室・お琴との間にもうけた田鶴若を擁立しようとするが、紀州藩士から幕府に対して懸念の声が上がったため、かつて斉順が当主になっていた清水家から斉彊を新藩主に迎えることになった。こうして隠居後の治宝は、11代・斉順、12代・斉彊、13代・慶福の3代にわたって藩権力を保持し続けるこことなる。嘉永5年(1852年)12月7日逝去。享年82。
    徳川重倫───徳川治宝
    香詮院     │
      ├───┬種姫
      │   ├松平定国【伊予松山藩】
      │   └松平定信
    徳川宗武──┬徳川治察【田安家2代】
          └節姫(毛利治親正室)
    
  1. 天保13年(1842年)2月16日:「験記」調書差し上げ、書写の命が下る
  2. 天保14年(1843年)5月1日:鷹司家より「験記」を借り受け、書写を開始
  3. 弘化2年(1845年)5月15日:「験記」模写完成、21日和歌山着。
  4. 弘化2年(1845年)5月24日:治宝に「験記」模本を献上
  • 絵詞目録の「此画巻物に添る辞」(上に引用)より、勧修寺経逸より譲り受けた鷹司政煕の模写途中の時期であることがわかる。
    徳川治宝(1771-1853)

 国立国会図書館本

彩色絵巻
春日権現験記繪
国立国会図書館所蔵
 
天明四甲辰年九月廿四日より十二月五日迄日数七十一日ニ而出来

  • 「春日権現験記繪」
  • 春日本の模本であり、天明4年(1784年)の制作。
    • ※第6軸に安政5年七艸菴亀岳の所蔵識語あり

 徳川美術館

  • 阿波蜂須賀家伝来
  • 19世紀の制作

 新宮本

個人蔵

  • 山名行雅筆、嘉永4年(1851年)頃。
  • 紀州新宮の丹鶴文庫伝来
    丹鶴とは新宮城の別名。丹鶴文庫は紀州藩附家老である紀州新宮藩の9代藩主である水野忠央の収集した文庫。

    水野忠央(みずの ただなか)
     紀伊新宮藩第8代藩主・水野忠啓の長男で、のち9代藩主を継いだ。天保6年(1835年)父の隠居に伴い家督を相続し、江戸定府の附家老として紀州藩主を補佐し、徳川斉順、斉彊、慶福、茂承の歴代藩主に仕えた。本藩に対して影響力を拡大し、陪臣として扱われていた附家老の地位向上運動を行ったほか、妹・お琴を大奥に入れ将軍・家慶の晩年の側室として寵愛を受けて4子を儲けることに成功した。さらに13代将軍家定に対しても姉の睦(ちか)を側室に送り込み、更に妹の遐(はる、のち新見正興に嫁ぐ)も大奥に入れて彦根藩主・井伊直弼と通じた。家定後継を巡って一橋派と南紀派が対立するが、井伊直弼と通じることでこれを制し、後継者を慶福(後の家茂)とすることに成功している。
     他方で文化人としても優れ、歴史・文学・医学などの古典籍を集めた「丹鶴叢書」を編纂・刊行しており、これは水戸藩の「大日本史」や塙保己一の「群書類従」と並び称されている。

 帝室博物館本

東京国立博物館所蔵

  • 「前田本」
  • 永井幾麻、前田氏実が大正14年(1925年)から昭和12年(1937年)にかけて模写したもの。

 田中有美模写

大正十年三月廿五日印刷
大正十年三月三十日發行
 
發行者 東京府豊多摩郡澁谷町中澁谷 田中有美

 絵巻研究会刊

  • 大正8年(1919年)絵巻研究会出版による木版印刷。
  • 1巻~3巻のみ。

 国文研所蔵本

  • 標語

    本云/寶徳二年庚午三月下旬此於社頭書寫畢則以正本校合畢/権預祐識判

    宝徳2年(1450年)

 東大附属図書館所蔵本


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