京極正宗


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 京極正宗(きょうごくまさむね)

短刀
正宗(号 京極正宗)
7寸6分(23cm)
旧皇室御物
三の丸尚蔵館所蔵

Table of Contents

 由来

  • 京極家所持にちなむ。

 来歴

 秀吉→京極高次

  • 京極高次が、秀吉から贈られたものとされる。

    (慶長)三年八月、太閤他界のゝち、遺物として、樋口正宗の小脇指をあたへらる、

    大津宰相(京極高次吉光脇指 金子三十枚
    秀吉公御遺物

    これは本来藤四郎(樋口藤四郎)が正解であると思われるが、となると樋口正宗を拝領した時期が不明となる。
  • 明暦の大火で将軍家所蔵の刀が焼けたため、諸侯の名刀を召し上げる事となる。京極家ではそれを避けるため、本刀を無いことにした。
  • 享保17年(1732年)に、にっかり青江を吉宗の台覧に供した時にも、この短刀は見せていない。
  • 京極高徳子爵は、松平頼平子爵の強い勧めを受け大正8年(1919年)4月27日華族会館においてようやく本刀を公開した。

    正宗短刀   長さ七寸五分强
      豐臣秀吉より京極高次拝領
    ニツカリ青江大脇差  長さ一尺九寸九分
      豐臣秀頼より京極高次拝領
    吉光短刀   長さ七寸八分
      徳川家康より京極高次拝領

    この時、にっかり青江吉光短刀(家康より拝領)も同時に出展している。

 皇室御物

  • 昭和3年(1928年)、京極高修が亡父京極高徳の遺志により献上。
  • 以後皇室御物であったが、昭和天皇崩御後に国庫移管された。



 逸話

 樋口正宗(ひのくちまさむね)

  • 日本刀大百科事典では、同じく秀吉から贈られた「樋口正宗(ひのくちまさむね)」と同一とする。
  • もとは堺の樋口屋という商人所持。
    なお「樋口藤四郎」についても同様に、樋口屋から石田三成を経て京極家に伝わる。
  • こちらも秀吉の所持を経て京極家に伝わる。
  • 以降は、上記「京極正宗」の来歴を参照のこと。

 アゼン正宗

  • 明治30年(1897年)頃、いわゆる「正宗封殺論」が起こったころ、この京極正宗はまだ世に知られていなかった。
  • その後本刀が出てきたことから松平頼平氏が「この短刀をみたならば、敵も味方も唖然たらん」と記した。そのことから陰で「名物アゼン正宗」などと呼ばれたという。
  • 犬養木堂(犬養毅)も、正宗の有銘刀でありもし本刀が世に出ていたならば正宗論争はなかっただろうと言っている。

    拙者は多年多數の刀劔を見たが、今日拝見するが如き在銘正宗を見た事がない。先年刀劔鑑定家今村長賀、別役正義(別役成義)等が、正宗は自づから刀劔を打ちたるに非ず、彼は刀工の總元締で、多くの職人を支配したるまでになり、其證豫には、正確なる正宗在銘の刀劔がないではないかと主張した。(略)今日此短刀を發見して居たらば、無論議論などあるべき筈がなかつたのに、是れが今日まで世に知られなかつたのは、必ず相當の理由があらう。(略)今日此短刀が世に知られた以上は、正宗論は最早確定したものと云つても宜からう。

    ここで犬養は、幕府が諸大名より正宗を徴発しようとしたという話もしている。

 別の伝来

 将軍家

  • 元和8年(1622年)9月に京極高知が死んだ際に、子の高広から将軍家に遺物として献上される。

    十二日丹後國宮津城主京極丹後守高知卒しければ。その子采女正高廣に遺領七萬八千二百石襲しめ。二子六丸高三に三萬五千石。三子主膳正高通に一萬石分たしめらる。高通實は朽木兵部少輔宣綱が二子にて。高知が養子となり。小姓をつとめ三千石給ひしかば。これより一萬三千石になる。高廣父が遺物正宗の刀を獻じ。大納言殿にしつ(志津)の脇差。御臺所へ茶壼。忠長卿へ行光の刀をさゝぐ。

    ただし「刀」であり、また京極家から献上された正宗に過ぎない。

 紀州徳川家

  • 寛永元年(1624年)正月廿三日、大御所秀忠が紀州頼宣邸に御成になった際に、吉平の太刀、松前貞宗の刀とともに秀忠より拝領する。

    大御所けふ紀伊中納言頼宣卿の邸に臨駕あり。前日より雪ふかくして。ならせ給ふほどいさゝかやみたり。早朝にかしこにわたらせたまへば。中納言頼宣卿拝謁せらる。吉平の御太刀。松前貞宗の御刀。京極正宗の御脇指。(略)給ふ。(略)御成書院にて七五三の御祝二獻の時に。鳥飼国次の脇差。郷義弘の刀。国次の脇差獻ぜられ。

  • ※どうもここで書かれている「京極正宗の御脇指」とは、樋口藤四郎(樋口吉光)のことであると思われる。寛政重脩諸家譜の段階で太閤遺物が「京極正宗」であるとしてしまっており、それを参照でもしたものか、なぜか本阿弥光心の朱銘もあるものを誤伝あるいは誤記している。樋口藤四郎明暦の大火で焼けたが、「享保名物帳」にもヤケとして載る。※京極正宗(=樋口正宗)は正宗在銘であり、本来間違えるはずはないがヤケてしまったために確認できなかったのか?
  • ※元々樋口屋の所持していた藤四郎と正宗は、その後秀吉所持へとなり、のち京極家に入ったが、京極家で混同したのか、将軍家に献上されたものが樋口正宗(京極正宗)であったと認識されていたようだ。享保時点ではすでに樋口藤四郎は焼け物になってしまっていたが、その後、大正になって京極正宗が世に出たことにより、矛盾が起こってしまった(矛盾が判明した)ことになるのではないかと思われる。
  • 詳細は「樋口藤四郎」の項を参照

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