京極正宗
京極正宗(きょうごくまさむね)
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由来
- 京極家所持にちなむ。
来歴
秀吉→京極高次
- 明暦の大火で将軍家所蔵の刀が焼けたため、諸侯の名刀を召し上げる事となる。京極家ではそれを避けるため、本刀を無いことにした。
- 享保17年(1732年)に、にっかり青江を吉宗の台覧に供した時にも、この短刀は見せていない。
- 京極高徳子爵は、松平頼平子爵の強い勧めを受け大正8年(1919年)4月27日華族会館においてようやく本刀を公開した。
正宗短刀 長さ七寸五分强
豐臣秀吉より京極高次拝領
ニツカリ青江大脇差 長さ一尺九寸九分
豐臣秀頼より京極高次拝領
吉光短刀 長さ七寸八分
徳川家康より京極高次拝領
當日午前十時頃華族會館に趣きしに、日本座敷上段の床に刀劍を飾り、京極高徳、松平頼平兩子主人側として端然室隅に控え、前刻來觀の犬養毅、淺田徳則兩翁は、今や已に一覧し終りて其感想談を交換し居る最中なれば、余(※高橋義雄)は先づ主客に一禮して、刀劍を飾り置かれたる床の前に進み、恭しく之を拝見するに、其品目は左の如し。
正宗短刀 長さ七寸五分强
豊臣秀吉より京極高次拝領
ニツカリ靑江大脇差 長さ一尺九寸九分
豊臣秀頼より京極高次拝領
吉光短刀 長さ七寸八分
徳川家康より京極高次拝領
先づ第一番目の正宗短刀を拝見せしに、昔より屡々砥ぎたる者と覺しく其身は稍細く磨り減り、鍔元に少しく詰め上げあり、小身の中程なる目貫孔に掛けて溫和なる字體にて正宗の二字を刻めり、試みに兩刄を打返して諦視すれば、螭龍の雲に舞ふが如く白絲の風に翻るが如く、光線に映じてチラ々々と變化する焼刄の亂れの美事なる言語に絶し、如何なる門外漢なるとも、之を見ては其の非凡の名刀なるに氣附かざる者なかるべし。
在銘正宗短刀の次に飾られたるニツカリ靑江定次大脇差は、京極子爵の祖先参議高次が、豊臣秀頼より拝領したる者にて、古刀に似合ず肉合も餘り窶れず、一條の秋水、触るゝ者悉く斬れざるなしと思はるゝ程なるが、
(略)
扨て又第三番目の吉光短刀は其作行の非凡なるに加へて歴史上最も面白き由緒あり、關ヶ原戰爭前京極高次は江州大津城に在り東西兩勢力の間に夾まりて最も重要なる位置を占めたれば、關東關西何れも京極を味方にせんと苦心し次第なるが、是より先き徳川家康は親から高次を大津に訪ひ、他日東軍に味方すべく頻りに懇請する所ありしが、家康が彼の吉光短刀を高次に贈りたるは即ち此訪問の際にして、東西兩軍の勝敗に大關係ある談判の折柄、家康、高次の間に授受されたる者なれば、此一刀は最も歴史的興味を含有する者と謂ふべし、
皇室御物
- 昭和3年(1928年)、京極高修が亡父京極高徳の遺志により献上。
- 以後皇室御物であったが、昭和天皇崩御後に国庫移管された。
逸話
樋口正宗(ひのくちまさむね)
- 日本刀大百科事典では、同じく秀吉から贈られた「樋口正宗(ひのくちまさむね)」と同一とする。
- もとは堺の樋口屋という商人所持。
なお「樋口藤四郎」についても同様に、樋口屋から石田三成を経て京極家に伝わる。
- こちらも秀吉の所持を経て京極家に伝わる。
- 以降は、上記「京極正宗」の来歴を参照のこと。
アゼン正宗
- 明治30年(1897年)頃、いわゆる「正宗封殺論」が起こったころ、この京極正宗はまだ世に知られていなかった。
- その後本刀が出てきたことから松平頼平氏が「この短刀をみたならば、敵も味方も唖然たらん」と記した。そのことから陰で「名物アゼン正宗」などと呼ばれたという。
- 犬養木堂(犬養毅)も、正宗の有銘刀でありもし本刀が世に出ていたならば正宗論争はなかっただろうと言っている。
拙者は多年多數の刀劔を見たが、今日拝見するが如き在銘正宗を見た事がない。先年刀劔鑑定家今村長賀、別役正義(※別役成義)等が、正宗は自づから刀劔を打ちたるに非ず、彼は刀工の總元締で、多くの職人を支配したるまでになり、其證豫には、正確なる正宗在銘の刀劔がないではないかと主張した。(略)今日此短刀を發見して居たらば、無論議論などあるべき筈がなかつたのに、是れが今日まで世に知られなかつたのは、必ず相當の理由があらう。(略)今日此短刀が世に知られた以上は、正宗論は最早確定したものと云つても宜からう。
ここで犬養は、幕府が諸大名より正宗を徴発しようとしたという話もしている。
別の伝来
将軍家
- 元和8年(1622年)9月に京極高知が死んだ際に、子の高広から将軍家に遺物として献上される。
十二日丹後國宮津城主京極丹後守高知卒しければ。その子采女正高廣に遺領七萬八千二百石襲しめ。二子六丸高三に三萬五千石。三子主膳正高通に一萬石分たしめらる。高通實は朽木兵部少輔宣綱が二子にて。高知が養子となり。小姓をつとめ三千石給ひしかば。これより一萬三千石になる。高廣父が遺物正宗の刀を獻じ。大納言殿にしつ(志津)の脇差。御臺所へ茶壼。忠長卿へ行光の刀をさゝぐ。
ただし「刀」であり、また京極家から献上された正宗に過ぎない。
紀州徳川家
- 寛永元年(1624年)正月廿三日、大御所秀忠が紀州頼宣邸に御成になった際に、吉平の太刀、松前貞宗の刀とともに秀忠より拝領する。
大御所けふ紀伊中納言頼宣卿の邸に臨駕あり。前日より雪ふかくして。ならせ給ふほどいさゝかやみたり。早朝にかしこにわたらせたまへば。中納言頼宣卿拝謁せらる。吉平の御太刀。松前貞宗の御刀。京極正宗の御脇指。(略)給ふ。(略)御成書院にて七五三の御祝二獻の時に。鳥飼国次の脇差。郷義弘の刀。国次の脇差獻ぜられ。
- ※どうもここで書かれている「京極正宗の御脇指」とは、樋口藤四郎(樋口吉光)のことであると思われる。寛政重脩諸家譜の段階で太閤遺物が「京極正宗」であるとしてしまっており、それを参照でもしたものか、なぜか本阿弥光心の朱銘もあるものを誤伝あるいは誤記している。樋口藤四郎は明暦の大火で焼けたが、「享保名物帳」にもヤケとして載る。※京極正宗(=樋口正宗)は正宗在銘であり、本来間違えるはずはないがヤケてしまったために確認できなかったのか?
- ※元々樋口屋の所持していた藤四郎と正宗は、その後秀吉所持へとなり、のち京極家に入ったが、京極家で混同したのか、将軍家に献上されたものが樋口正宗(京極正宗)であったと認識されていたようだ。享保時点ではすでに樋口藤四郎は焼け物になってしまっていたが、その後、大正になって京極正宗が世に出たことにより、矛盾が起こってしまった(矛盾が判明した)ことになるのではないかと思われる。
- 詳細は「樋口藤四郎」の項を参照
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