菊一文字


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 菊一文字(きくいちもんじ)

  • 後鳥羽院が、備前一文字派の祖である則宗および助宗に打たせた一連の刀のことを指し、「菊一文字則宗」などと呼ばれる。広義には、一文字派(風)の刀工が菊紋を入れている刀を指す。

菊御作

  • いっぽう似た言葉の「菊御作」は、刀工に刀を作らせて後鳥羽院が焼入れだけを行ったものとされている。
    ※要するに後鳥羽院が一部であっても自ら直接的に作業を行い作刀の過程に関与されたか否かが、菊一文字と菊御作の異なる点となる。菊御作は古くは「御所焼き」、「御所作り」とも呼ばれていた。また御作であるとして、どこまで関与されたかについてはまったく不明である。そもそも、いつ・どこで作刀されたのかについても伝わっていない。

 御番鍛冶と菊紋

  • 伝説によれば、後鳥羽院は鎌倉幕府打倒を目指し諸国の名刀工を招いて鍛えさせ、親しく焼刃をされたという。
  • 特に正月番の備前一文字派の則宗に対しては、皇位の紋である十六弁の菊紋を銘に入れることを許した。そのことから「十六弁の菊紋」に「一」が銘に入っているものを「菊一文字」と呼ぶことになる。※江戸初期の越前康継や享保期の主水正正清らが葵紋を許されたのと同じ。

    菊一文字といふのは一文字風の刀に、菊御紋があるものの意味ではあるが實際は菊御作になつた一文字更に具體的に言へば、則宗、助宗の作つた刀に後鳥羽天皇が焼刄をなされて菊御作になる。即ち則宗、助宗の作刀が直ぐ菊御作になるのである。 イヤ菊御作則宗、助宗が作るのであると斯様に思ひ斯様に傳へた爲に則宗、助宗の刀が即菊御作だとなり、菊御作即菊一文字となつたのである。

    なおこの「菊一文字」と「菊御作」との混同は、遥か昔の「秘談抄」の時代から既に行われている。

    一般に「菊の御紋」と呼ばれる皇室の紋「十六葉の菊紋」は、後鳥羽上皇に始まる。詳しくは「後鳥羽院」を参照

 菊一文字則宗

  • しかし則宗作刀のもので菊紋の入ったものは現存しない。このため「菊一文字則宗」というのは、「菊御作」と混同した後世の誤伝のひとつであるとされる。
    則宗の作刀では、名物二つ銘則宗」のほか、日枝神社所蔵、忌宮神社所蔵、三井記念美術館所蔵、岡山県立博物館所蔵、岡山県立博物館所蔵のものなどが伝わるが、これらは「則宗」の二字銘である。刀に「一」銘を切るのは、古一文字と呼ばれる則宗や助宗らより"後"の一文字派である。例えば鎌倉中期の福岡一文字派重要美術品で、銘「一」、表鎺下に菊を彫る太刀(長二尺四寸八分二厘、反り一寸一分)がある。

 菊紋に一銘のある刀

  • 則宗"以外"の菊一文字。
御物
菊紋に古一文字。
松帆神社蔵
菊紋、銘 一。同社では則宗と伝えるが、刀姿から古一文字ではなく鎌倉中期の福岡一文字とされている。昭和10年(1935年)5月20日、文部省告示第201號にて重要美術品認定。10月第1週日曜の例祭日にのみ公開。

 沖田総司の愛刀について

  • 幕末の新選組一番隊組長沖田総司の愛刀として「菊一文字則宗」が登場するのは子母澤寛の伝記とされる。
  • そしてその後、その影響を色濃く受けた司馬遼太郎の人気作「燃えよ剣」(1964年)、「新撰組血風録」(1964年)で一気に人口に膾炙した。
    一般に司馬遼太郎の創作などとされているが、源流をたどれば子母澤寛である。司馬は、まだ作家ですらなかった20歳頃に子母澤の「新選組始末記」を読んで夢中になり、どうしてもこれは超えられないと子母澤に教えを請いに行ったという。子母澤はのち、後進作家である司馬や池波に自分が集めた資料を送ってもいる。
     なおネットでよく議論される「史実か否か」については、その子母澤自身が「聞き取りをした古老の話の中には疑わしいものもあったが、私は歴史というのではなく現実的な話そのものの面白さをなるべく聞き漏らすまいと心がけた」「歴史を書くつもりなどはない。ただ新選組に就ての巷説漫談或は史実を、極くこだわらない気持で纏めたに過ぎない」と語っている。司馬はウソ、子母澤が史実などという簡単な話ではなく、両者とも「作家」であって「歴史研究者」ではないということである。そもそも史実云々を語る人間が司馬の名前を出しながら子母澤の名前を出さない、あるいは出せないこと自体が問題ではないだろうか。※なお司馬が影響を受けた、あるいは参考にしたと思われる著作は子母澤以外にも多数存在する。
     ただし史実以外が混じっているから読む価値すらないなどとする最近の風潮はいかがなものかとは思う。万人が最初から教科書や参考書、歴史論文のみで歴史が学べるかといえば決してそんなことはなく、その第一歩は小説やマンガである。子母澤や司馬は、多くの人々に歴史上の人物の生き様をいきいきと語りかけ、歴史への興味を抱かせてくれた偉大な作家であることは間違いない。
  • しかし実際には上記の通りで、則宗の作刀で「菊紋と一文字」を銘に入れたものは存在しない
  • また則宗は、古くは室町期からすでに良き贈答品とされており、江戸時代には「大名差し」とされ大名間で稀に贈答される他はほとんど流通しておらず、多少金回りは良かったとはいえとても新選組隊士が入手できるような代物ではなかった。
    実際徳川実紀を読むと、重要な儀式での贈答品も代を経るごとに品が下がり、幕末頃には正宗吉光・郷などはおろか、一文字でも則宗など一級品とされる物はまずお目にかかれなくなる。これは享保7年(1722年)の吉宗による禁令の影響で、特別重要な儀式以外での真の太刀の贈答を禁止したことによる。基本的には”作り太刀”と呼ばれる木製の飾り太刀で代用され、それすら献残屋(けんざんや)と呼ばれる市中の今で言うリサイクルショップで調達・処分していた。古刀一級品については、大名間ですら秘蔵され贈答に用いられなくなっている。
  • それをさらに、踏み込みの実戦で用いるなどということは考えられないことから、小説上の演出であるとされる。沖田が実際に用いたのは「加州清光(非人清光)」あるいは「大和守安定」であるとされている。※しかし大和守安定将軍吉宗が佩刀にしていたほどの物であり、豪勢な話であることには違いない。
    池田屋事件の後、近藤勇が養父宛てに送った手紙では「永倉(新八)の刀は折れ、沖田(総司)の刀は帽子折れ、藤堂(平助)の刃は刃切(はさき)さゝらの如く、枠周平は槍を斬り折られ、下拙刀は虎徹故に候哉、無事に御座候」と書かれている。それほどの戦いに則宗を持ち込むなどありえない。
     「新選組血風録」の中でも、菊一文字則宗を贈られた沖田はそれを使うのを躊躇い実戦でも使用することはなかったが、斬るのを躊躇った陸援隊の剣術師範戸沢鷲郎により新選組一番隊士が斬られたことで、一度だけ菊一文字を奮うという筋書きになっている。
  • しかし、近藤や土方を超える恐るべき戦闘力を発揮しながらも労咳(結核)により若くして倒れた悲劇の剣士には、一文字の細身で優美な姿がとてもよく似合う。一説によると沖田は、斬首された近藤や土方の動向を知らぬまま寂しい最期を迎えたという。
  • 史実はどうあれ、沖田に「菊一文字」を持たせたのは子母澤寛の優しさであると思いたい。

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