波平行安
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
波平行安(なみのひらゆきやす)
平安時代後期薩摩国波平に住した刀工一派の相伝名
行安の名は明治に至るまで波平派の嫡流によって襲名され続けた。
Table of Contents |
|
概要
- 行安あるいはその始祖の正国が大和から出たとする。大和国から移住してきた正国の子と伝えられるが正国の作刀は現存せず、行安が波平派の事実上の祖とされる。
- またそうではなく始祖の正国が波平行安を名乗り初代となったとの説もある。
- 「波平行安」という名の由来は、薩摩定住を決めた正国が大和から家族を呼び寄せる際、船が嵐に遭遇したという。正国が船に乗る前に試し打ちした刀を海の神に捧げ祈ると、嵐は静まったという。これより後、正国は「波は平らかに行くは安し」という意味で「波平行安」を名乗ったと言う。
代表的な刀
- 笹貫
- ささぬき。太刀 銘「波平行安」。初期の行安による作刀。重要文化財。京都国立博物館所蔵。
- 鬼神大王波平行安
- 「鬼神大王波平行安」。鬼が打ったという伝説の刀。
- 兵庫鎖太刀
- 銘「行安」二尺四寸四分。大正8年4月12日旧国宝指定。愛知県猿投神社所蔵
系譜
橋口正国
- 始祖
- 大和の刀鍛冶で、良質の鉄を求めて諸国を放浪し、薩摩波平にて理想の土を見つけそこに落ち着いた。
- 名前を波平行安と改名し、以降薩摩の地で刀を打ち続けることになったという。代々「波平行安」を名乗り、明治まで続いた。
- 三条小鍛冶宗近が「橘宗近」と名乗っていた頃に、この橋口正国に師事したという伝承がある。
行安
- 橋口正国の子。
- 寛治ごろ
行安
- 二代。
安行
- 行安の子。正和ごろ。兼安ともいう。
波平家安(なみのひらいえやす)
- 鎌倉ごろの作刀が重文指定を受けている。
- 太刀
- 銘「波平家安」長67.5cm、反り1.4cm。鎬造、庵棟、反浅く中鋒、鎬高く重ねやや厚め。鋩子は直ぐに小丸、先僅かに掃きかけごころがある。なかご生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔2個。正和30年2月2日重要文化財指定。個人蔵
安張
- 橘石見守入道壽庵
- 文禄・慶長年中、太守(島津)義弘公に随し朝鮮国へ渡り、鍛刀したという。
大和守安行(やまとのかみやすゆき)
- 江戸時代前期・薩摩国の刀工。波平安行。本名は橋口三郎兵衛。
- 元和6年(1620年) - 元禄8年(1695年)
- 平安期より薩摩国谿山郡で続く刀工波平派の57代。新刀波平の祖とされる56代安張の孫。
- 安張に学んだ後、伊豆守正房の門下となる。
- 波平派は代々大和伝での作刀を続けてきたが、安行は時の薩摩藩主島津家久に命ぜられ伊豆守正房の門下となり相州伝を学んだ。寛文5年(1665年)大和大掾、のち大和守を受領。
- 文化2年(1805年)に山田浅右衛門により発表された懐宝剣尺の刀剣の業物一覧において大業物・良業物・業物混合60工のうちに挙げられている。
- 安行には4人の息子がおり、四男安国が本家を継いだ。長男安休は祖父安張の跡を継ぎ坂ノ上で作刀し坂ノ上波平(嫡家)の祖となり、次男安正は分家して谷山・堀に住み堀の波平と呼ばれた。
- 門人に一平安代の父・一平安貞がいる。
安正
- 安行次男。
- 橋口兵右衛門。元禄ごろ
- はじめ安吉と打つ。
安国
- 安行次男。
- はじめ橋口四郎兵衛、のち三郎兵衛と称す。
- 波平大和守安国と打つ。享保ごろ
波平安常(なみのひらやすつね)
- 初銘は「安和」、のち「波平安常」
- 息子は波平60代行安。
安行
- 安常の子
- 橋口勘之丞と称す
- はじめ安州、また安氏と打つ
- 享和2年から「薩州波平安行」と打つ。
一平安貞
- 山城守安貞
- 本姓中村。
- 慶安4年、薩摩国喜入(給黎)の刀工中村家、中村清貞の三男として生まれる。
- のち57代の大和守安行に師事し、一字を拝領し安貞を名乗る。
- 肝付氏の命により、玉置家を継いだ。
- 宝永庚寅7年上京し山城守受領。
- 「一平」は安貞の通称という。
- 子に一平安代。
一平安代(いっぺいやすよ)
- 同じ薩摩の刀工である主水正正清(宮原正清、御紋正清)とともに、享保6年(1721年)、八代将軍徳川吉宗の命により江戸にて作刀、その出来のよさから茎に葵一葉紋を切ることを許される。その後主馬首を受領。
- 著名作については「一平安代」の項参照
波平宣安
- 脇差
- 銘「波平宣安/文正二八月日」刃長一尺六寸一分、反り四分。
波平安次
- 刀
- 銘「波平安次作」刃長二尺三寸七分、反り六分五厘。目釘孔2個、うち上を埋める。
波平家次
関連項目
Amazon Music Unlimited 30日間無料体験