松浦静山


 松浦静山(まつらせいざん)

肥前平戸藩、第9代藩主
従五位下壱岐守
号 静山

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 概要

  • 松浦静山こと松浦清は、宝暦10年(1760年)、平戸藩世嗣であった松浦政信(第8代藩主・松浦誠信の三男)の長男として生まれる。母は政信の側室・友子(母袋氏)。※父松浦政信の正室は、信濃松代藩の第5代藩主真田信安の娘。
  • 幼名は英三郎、諱は(きよし)(松浦清)。
    静山の諱は「清」の一文字となっている。これは有職故実を重んじる清が、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかって再び一字に戻したもの。清以後は一字名を通している。
  • 父・政信は本来ならば祖父・誠信の跡を継ぐはずであったが、明和8年(1771年)8月に37歳で早世した。※父・政信の兄で嫡子の邦も宝暦7年(1757年)に26歳で早世している。
  • 父・政信の長男ではあるが側室出生であった清(静山)は、それまで松浦姓を名乗れず松山姓を称していた。父の急死後、同年10月27日に祖父である8代藩主松浦誠信の養嗣子となり松浦姓に復帰、以降は祖父母に養育される。

 藩主

  • 安永3年(1774年)4月18日将軍徳川家治に御目見。

    (四月十八日)松浦肥前守誡信が孫英三郎清はじめて見え奉る。

  • 同年12月18日従五位下壱岐守に叙任される。

    (十二月十八日)けふ從五位下に叙するもの廿一人。(略)松浦肥前守誠信が嫡孫英三郎清は壹岐守。

  • 安永4年(1775年)2月16日祖父の隠居により、16歳で家督を相続し平戸藩第9代藩主となる。

    十六日肥前國平戸の城主松浦肥前守誠信致仕し。その孫壹岐守清に。原封六萬千七百石を襲しむ。これ誠信が子壹岐守政先だちてうせしかば。政が子清をもて家つがせしなり。此誠信は。實は故の肥前守篤信が子にて。兄壹岐守有信が世つぎとなり。享保十二年二月朔日初見し。十三年十一月七日家つぎ。十二月廿一日叙爵し肥前守と稱し。けふ致仕して八年四月廿九日卒す。とし六十九。

  • 同年3月15日、初めて藩主として帰国する許可を得る。

    松浦壹岐守清。大村信濃守純鎭初て就封の暇下さる。

  • 平戸藩はかつては貿易で栄えた土地柄であったが、幕府により貿易窓口が長崎に統一されたため、藩財政は窮乏を極めていた。このためまずは藩政改革に取り組んでいる。
  • 安永8年(1779年)藩校・維新館を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。なお藩校の名称に関して幕府より「維新とはどういうことだ」と問責を受けたが、校名は変更していない。この校名の「維新」は『詩経』の一節に由来すると言われている。

 閨閥

  • 幼少時は病弱であったとされるが、正室の他側室も多数置き、計33人の子を残すに至った。
  • 幕閣への接近も怠りなく、寛政の改革に関与した三老中である松平定信、本多忠籌、松平信明(いわゆる寛政の三忠臣)と姻戚関係を結んでいる。
    静山の正室(先妻)は松平信明の妹・鶴年、松平定信の長女が継嗣・松浦熈の正室、本多忠籌の正室は静山の叔母に当たる人物である。
  • なおかつ朝廷にも接近しており、四女・季子は中納言園基茂、七女・節子は中納言姉小路公遂、十一女の愛子は大納言中山忠能へと嫁がせている。このうち愛子が産んだ長女・中山慶子(一位局)は、のちに孝明天皇の皇子祐宮(後の明治天皇)を産んだため、静山は明治天皇の曾祖父となった。
    愛子は明治天皇の4歳時までその養育を任されており、さらに明治天皇の皇子明宮嘉仁親王(大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わっている。

 隠居

  • 静山は47歳となった文化3年(1806年)に三男・熈(平戸藩10代)に家督を譲って隠居し、以後82歳で死ぬまでの35年ほどを武芸と文筆活動に明け暮れた。
  • それも尋常な活動ではなく、武芸面では隠居後の53歳で心形刀流剣法家伝、さらに68歳で弓の日置流射学免許を許されるほどの力の入れようであった。これだけではなく、弓術を幼いころから始めていたほか、剣術では田宮流および新陰術の免許皆伝、柔術は関口流、馬術は悪馬新当流、砲術は武衛流などを修めている。
  • さらに文筆活動においても高名な「甲子夜話(かっしやわ)」を始めとして、「平戸考」、「日光道之記」、「百人一首解」、「江東歌集」、「常静子剣談」など多数の著作を残している。また自ら詩歌・書画を残した他、当時の文人墨客とも深く関わっている。
  • 天保12年(1841年)、82歳で没。

 逸話

  • 現在伝わる著名な格言などに静山の書物が出典となっているものが多数ある。
  • 有名なものでは、下記がある。
    • 「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」(常静子剣談)

      予日、勝に不思議の勝あり、負に不思議の負なし、問、如何なれば不思議の勝と云ふ、曰、遵道守術ときは其心必不勇と雖ども得勝、是心を顧るときは則不思議とす、故に云ふ、又問、如何なれば不思議の負なしと云ふ、曰、背道違術、然るときは其敗無疑、故に云爾、客乃伏す、

    • いわゆる三英傑(信長秀吉家康)のほととぎすの話。

      夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
       なかぬなら殺してしまへ時鳥(ほととぎす) 織田右府
       鳴かずともなかして見せふ杜鵑(ほととぎす) 豊太閤
       なかぬなら鳴まで待よ郭公(ほととぎす) 大権現様
      このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
       なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす (徳川家斉という
       なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

  • 心なきものは何事にも気づかない

    新庄駿河守直規と云しは予が縁家にして活達直情なる人なりし。寛政中、擢げられて大番頭となる。其話に、大坂在番に往きて御城中に居るに、深夜など騒々然と音あり。松風かと戸を開て聞けば、さにはあらで正しく人馬喧噪乱争の声を遠く聞く如し。暫にして止む。時々比の如き事あり。相伝ふ、当時戦没の人、魂気残れるなりとぞ。
    予、奇聞と思ひ、その後在番せし人に問へば其事知らずと云。駿州は虚誕を云ふ人に非ず。心無き輩は何事も気の付ぬにや。

    新庄直規は常陸麻生藩の11代藩主。寛政6年(1794年)から寛政11年(1799年)まで大番頭、大坂城・二条城・駿府城の勤番職も歴任した。

 甲子夜話(かっしやわ)

  • 引退した後、幕府の儒官・大学頭家の林述斎との付き合いが深くなった。文政4年(1821年)、林述斎が別荘を訪れて鍛冶場などを見学し、その後話が盛り上がった。その話の中で「武功雑話」(平戸藩4代松浦鎮信による)の話となり、林述斎から「個人の善業、嘉言はこれを記し後世に伝えるべきである」と勧められて始めた随筆集。
  • 文政4年(1821年)11月の甲子の夜に執筆を開始したために「甲子夜話」と名付けられた。

    この夜話を書初めしは文政四年辛巳の仲冬にして、歳月流るるが如く、はや十有三の星霜を歴たり。然るに其十念丁亥、一簣(いつき)の止を爲して百巻とす。其季夏続篇を始め、覆進(ふくしん)の功を遂げ、今(ここ)天保癸巳の李冬に至て又二百巻を成す。されども尚志を降さず、明年甲午の孟春より三篇を起さんとす。
    (未完甲子夜話)

  • 文政4年(1821年)から亡くなる直前まで20年間にわたって書き続けており、正編100巻、続編100巻、三編78巻に及び、江戸時代を代表する随筆集である。
    1. 甲子夜話:※正篇(三冊)
    2. 甲子夜話続篇(三冊)
    3. 未完甲子夜話(三冊)
    • 様々な事に興味を持ち、それを詳しく書き留めている。大田南畝などとも交流があった。

 法号について

  • 法号「豊功院静山流水居士」を自ら生前に決めており、その「静山」「流水」の由来について自ら詳しく記している。

    予が(あらかじ)め設る法号を豊功院静山流水居士と云。
    夫れ僧家には上を院号、中を道号、下を法諱と云。この静山と云は、(すぎに)し文化三年冬十一月十三日、退隠のことを其時の閣老松平豆州(※老中・松平信明。寛政の遺老の一人)に願請しが、四日を経て十八日に肥州(※三男・松浦熈)と予が名代とを召て(ゆるし)を蒙れり。かねて志を決したれば、其夕に総髪(そうかみ)して名を静山と(かう)ることを請申せしに、翌十九日、允蒙れる。
    予が退隠、此年に起こりしに非ず、五、六年前より思興(おもいおこ)りたるなれど、臣等の志を与にして家政を謀れる輩の月時に止めしかば、忍難くして延せしが、斯年に及び意中慨歎のことありて決然と乞骸(きつがい)せしを、豆州は予が故妻の兄(先妻・鶴年の兄が信明)なれば素より我が志は知ぬ。林子(※林述斎)も通家のことなればとて、林子に託して願を留められける。(略)
    爾後、書を林子に贈て、退隠の願も允れなば即官服は脱去るべし、而て壱州の称あるべからず、似合たる称を(えら)み給れ、と云遣たり。答に静山の号を撰み越て、君の願いはさることなれど、運よく渡り給はず再び仕を為せらるべし、其時は別号とせられ、又素願遂げられなば乃致仕後の名とせらるべし、と懇々と書き送られしを、後の形見と思ひつつ坐右の筺に蔵め置きしが、寅災に焼亡しぬ。静山の称の由縁はかくの如し。

    又、流水の称は、生母修禅尼(※実父・松浦政信の側室・母袋友子)、老後は浄門に帰依し給ひて念仏の業止む時なし。或日予に語られしは、徳本(とくほん)※徳本上人)とて尊き行者あり、新堀の西福寺に来て、人に十念を授け給ふ、君も結縁(けちえん)の為め、往て授り給へ、と。
    予此時はや退隠の後なれば即(いか)んと思しが、如何に致仕の身なればとて、もとの位官は終身離るべからず。行者尊しと雖も、(なん)稠人(ちゅうじん)の中に於て下坐合掌して身を汚んや。しかし西福は壇家のことなれば、とて、其頃阿部備州(※老中・阿部正精)閣老なりしかば此事を語りしに、備州答に、如何さま無用に為さるべし。昔より金石交じりなば憚りなく申す、と聞へしかば、是を尼君に告んと思ひしが、いやいや己が見解を以て母情に戻るべからず、尼君の故旧なる典海師は今三縁(※増上寺の山号三縁山)の僧正なれば、ここに詣り十念を受けんと決し、此事と備州の答とを併せて尼君に申伸(もうしのべ)ければ尼君殊に歓喜ありて善くぞ志し給ひし、はやはや往き給へ、とあれば即使して増上寺に申入れ、文化十二年五月廿日、三縁山の方丈にて法式をととのへ、受戒せしなり、其文に曰、
     浄土布薩頓教一乗戒者、宗門一大事因縁也(略)令伝授弟子静山流水居士畢。文化十二乙亥五月、増上寺五十六主伝燈仏子 大僧正教誉(※56世教誉典海
     此証状を持帰て、明日(あくるひ)尼君に示ける。此時尼君は病に(しみ)て殊に(いたわ)り深かりしが、臥床を出て合掌落涙し給ひ、予が志を感賞せられき。是や末期の喜にて有けん、其月廿五日、安心往生を遂げ給ぬ。かく生前の悦を見しは予に於ても亦、哀の中の喜とは是をぞ謂ふべき。
     流水の称、これに因れり、時に予、五十六歳。

  • つまり、「静山」は退隠の5・6年前に林述斎に選んでもらっていたもの(手紙は寅年の火災で焼けた)。「流水」は文化12年(1815年)5月に生母の師であった増上寺56世教誉典海に付けてもらったものだという。
    • ※実際には「豊功院殿静山流水大居士」を遺贈されている。

 日本刀

 所持刀など

灯台切
寛政11年(1799年)の日光東照宮参拝時にこの脇差を指している。

余この日の装束は、青き直垂に三星の紋を白くつけて、腰刀は燈臺切といへる法印公(※松浦鎮信)より相傳せし、正則がうちたるに

寒暈刀
松浦家に伝わる刀。甲子夜話にも記す。

莖に寒暈の金字を嵌るゝは信純の時已に爲せし者と覺ゆ。

藤原友重の短刀
中山信敬の仲介で付き合いのあった水戸治保(水戸藩6代。信敬の実兄)の形見として、嗣子・治紀(水戸藩7代)からもらったものだという。中身八寸四分。
関の兼元
中身九寸余の兼元作の短刀を常に所持したという。柄は白鮫、家紋である梶葉の銀目貫付き。鞘は黒の刻み。小刀は貫級刀をつけ、下緒は紅色の長いものを付けた。若いときから愛用していたが、林述斎が肖像に賛をしてくれたお礼として、天保7年(1836年)に本阿弥平十郎の折紙を添え広東縞の袋に入れて贈っている。
延寿国吉作の刀
寛政10年(1798年)に将軍家斉が湯島聖堂を新廟再建及び学問所拡張工事を行った際に、松浦静山は二万両(総高、当年分は四千両)を寄付した。この功を賞して、寛政12年(1800年)3月15日に延寿国吉作の刀が下賜された。長さ二尺五寸五厘、国吉と金象嵌、金子十五枚の折紙付き。よほど嬉しかったのか「賜刀記」を綴り、また畏れ多いため佩用せず宝蔵したという。

清在職ノトキ聖𠪄ノ助役ヲ勤シハ、寛政辛酉ナリ、
 延寿国吉
 正 真 長サ弐尺五寸半 但銘象嵌入
 代金子拾五枚
 寛政拾弐年申
   弥生三日  本阿弥

  • その他、甲子夜話に登場している刀。

    一、刀脇指 十一腰
    ・井上和泉守国貞
    ・備州長船住祐定
    ・無銘(正則脇指) この脇指は小臣某の家傳なりしが、前に記せし挺丸(寒暈刀)の刀と同作にして稍々霊異あるを聞きて、彼の太刀と同じく添指に為んとて望たりしなり
    ・土肥眞了 これは市店に質物として有りと云ふを聞て買置しなり
    ・宇津脇指 これは先世より傳へし物なり
    ・無銘(小脇指)
    ・備中守藤原清宣(脇指) これは罪を得し臣の物なりしを、故ありて取置しなり
    祐定太刀(樋有) これは市店にありし儀剣なり。蒔絵の金鞘にして其装尤も好し、刃も亦見つべければ購藏せしなり
    ・長船祐定
    ・筑前住源信国吉次刀
    ・無銘古刀(樋有) この三刀は聊か好む所ありて求めしなり。

 所見など

  • 剣術の達人であった静山は、日本刀においても数々の刀剣の逸話に登場する。
静御前の薙刀
江戸浅草寺蔵に「静御前の薙刀がある」という噂を聞きつけ、家臣をやってまで調べている。結果、婚礼薙刀であったことが判明している。
布袋国広
(夢香梅里多の刻字有)儒官の林述斎から見せられ、彫りや銘を確認している。

 作刀

  • 江戸藩邸に鍛冶場を設け、自らも焼刃渡しを行い、銘には「江東庭打」と切った。花野打ちとも。

    予、平生剣技を(このむ)(あまり)、退隠の後より荘の居辺に秋草を植え叢をなし、其中に小盧を構え、裏に就て鍛打(きたえうち)を為しめ、自から其刀を(やきば)す。
    研磨なくんば非ず。因て又側に小舎を(たて)、封邑の研者を召て自淬(じさい)のものを磨がしむ。故に毎々(つねづね)官の研匠本阿弥本阿弥成重。平十郎)なる者に就て其善悪を正す。
    一日、平十郎来訪ふ。予、幸として相見る。廻事刀剣の論に(およ)ぶ。平十郎、予が自淬の真なるを賞す。予云ふ、是は(しばら)()け、予(かつ)淬法(さいほう)を知らず、唯一心以てす。平十郎拍掌して曰、鍛冶の作すものは自ら卑し、貴者の為す所は又自から高し。是、其気象の発見(はつげん)する者也。徳苗(とくびょう)徳川吉宗)の御時、吹上御園中に於て御自淬の御物あり。其神彩明徹、歴代鍛者の比ならず、と。
    予、是まで君上御代々の御事を聞く事少なからず。又奥仕の人々に知己ありて徳苗の御事績をも多く聞奉れり。然るにこの御自淬に至ては始めて聞けり。然るときは、予が輩は僅に西鄙(せいひ)を領するの大名、徳苗は御躬(おんみ)天下の権を執給(とりたま)ひ、かかる御武事の(おわ)す事、予が輩に於て益々志を逞ふすべし。平十郎は官の研匠、曽て()とすべからず。
    平十又曰、刀は鍛(よき)なりと雖ども淬佳ならざれば賞用に足らず、と。知る()き也。

  • あちこちから声がかかり、将軍御側衆・新見伊賀守、大御所御側衆・大久保駿河守に贈っている。
  • 鍛刀の相手は、水心子一門が務めたという。

 平戸藩の江戸藩邸

 元誓願寺前上屋敷

上屋敷 元誓願寺前
拝領 不詳
上地 明暦3年(1657年)
坪数不詳

  • 寛永以降明暦までの地図に載る。

 浅草鳥越上屋敷

上屋敷 浅草鳥越
唱替 明暦3年(1657年)
相対替囲込 寛政7年(1795年)8月晦日
坪数不詳

  • 松浦家記録ほか

    江戸開府の頃、壱岐守隆信に第宅を神田お玉ヶ池清厳寺通りに授け、又下屋敷を下谷鳥越七曲にあたう。神田邸火災。寛永18年(1641年)肥前守鎮信下屋敷鳥越邸を修築して之に居り、後遂に本邸とす。即ち今の浅草向柳原邸是なり。

    寛政7年(1795年)地続山村三郎兵衛屋敷相対替にて松平壹岐守屋敷え囲込、一屋敷に成。

    寛政7年(1795年)晦日山村三郎兵衛拝領屋敷浅草鳥越380坪松浦壹岐守え、壹岐守下屋敷本所中之郷五千坪之内百坪山村三郎兵衛え、相対替。

 浅草鳥越下屋敷

 本所椎木下屋敷

 深川下屋敷

 本所牛島下屋敷

 本所牛島抱屋敷

 平戸新田

  • 平戸新田藩は平戸藩の支藩。平戸館山藩とも。
  • 平戸藩5代藩主棟の弟・昌(4代藩主松浦重信の次男)が1万石を分与され、平戸新田藩が立藩した。明治3年(1870年)、本藩に併合され廃藩となった。
  • 本所七不思議のひとつ、「落葉なき椎」はこの平戸新田藩の本所大川端上屋敷内(横網町)にあったとされる。

 北本所上屋敷

上屋敷 北本所
拝領 元禄6年(1693年)8月2日
上地 元禄10年(1697年)12月
2500坪

 本所大川端上屋敷

上屋敷 本所大川端 本所區横網町二丁目
拝領 元禄10年(1697年)12月
2500坪


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