小狐丸影
小狐丸影(こぎつねまるかげ)
太刀
銘 宗近
鞘書「小狐丸影」
刃長二尺二寸二分余、反り一寸一分半
- 刃紋直刃、目釘孔2個
- 長は諸説あり。刀剣談では二尺二寸七分余り
太刀銘にて拵えはなく棒鞘である、此神主は吉田日向守と云ふ者だが、其家にも何の頃よりか当社にあるとも知らぬ由、刀の長二尺二寸七分余二字銘にて宗近、但鞘の上に小狐丸影と記してある
- 江戸時代に越前足羽郡安波賀村の春日明神社にて発見され、将軍吉宗の台覧に供すも戻され、のち明治期に九条家に買い戻された「小狐丸影」。
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来歴
九条家での紛失
- 天下に名高い摂関家の「小狐丸」は、鎌倉期にはすでに失われており、九条家では代わりに打たせたものを使っていたという。
一説に建仁寺の大統院にあったがさらに紛失したともいう。
- 同家によれば、九条家では鎌倉より前のころ二人兄弟がおり、兄が病を得て盲となったために弟に家督を継がしめた。それを不満とした兄の子が小狐丸を盗み出奔したため、仕方なく名人に打たせたもので代用したという。
昔鎌倉以前歟、私先祖ニ子二人アリ。尤男也。男子二人ノ内、兄ノ方病身ニテ瞽ニ相成候故、次男ヘ九条家ヲ相続為致候ヲ、兄モ甚不平ニシテ、兄ノ子アリ親ノ為ニ是モ不平ニテ、(略)イサ伯父ノ留守ヲ見込、兄ノ子小狐丸ヲ盗テ逃走スト。仍之九条家ニ於、不得止新ニ名人ニ命シ、小狐丸ヲ為打、今ニ所持セリ。
神主吉田家
安波賀 春日神社の神主吉田家の伝来では、この刀は江戸で安価にて買い求めたもので、元は公家で所有していたものだという。以前安波賀社へ参詣の節、神主吉田氏ニ承候処ニてハ、吉田氏の祖先、江戸にて安價にて買求メ候由。尤以前ハ公家の所有なりと申伝へ候云々相噺。
享保4年の調査
- 徳川吉宗の治世に、小狐丸が越前にあるという風聞を耳にした幕府は、享保4年(1719年)2月、老中久世大和守重之より越前福井藩に対して調査を命じている。元は九条家の依頼であるともいう。
堂上方より元所持の小狐丸、当時越前春日社ニ有之候趣ゆへ、御尋有之候様、徳川家へ依頼の由、不得止寺社奉行ヨリ尋有之候事に相成候由
- その結果、同年3月越前足羽郡安波賀村、春日明神社において二尺二寸二分余りの宗近銘で、棒鞘に「小狐丸影」と書かれた刀が見つかったという。影というのは影打ちを指し、何らかの関係があるとされた。
- 吉宗は、同年4月この「小狐丸影」を江戸に取り寄せて直に実見するが、その後同月29日に戻している。
越前國足羽郡安波賀村春日大明神の神寶小狐丸影、唐劍、享保四年己享二月十二日久世大和守殿より書付を以て御尋ねの趣。
覺
小狐與申太刀古は攝家方に被致所持、其後建仁寺大統庵に有之候處紛失候、以後越前國に有之由先年風聞候、右之太刀共神社等に納置候義無之哉、其外領内在家迄被致吟味相知候はゞ承度候、右太刀今程所に無之候共前に越前國中に有之たる儀候はゞ、其赴以後の様子も承度候、小狐之太刀世上に宗近と申ならはし候得ともこの小狐宗近に而は無之候、右太刀猫切共唱候、先は小狐與申由に候以上。右に付
覺
先頃仰出候小狐太刀之儀伊豫守少将吉邦領内吟味仕候處、領分足羽郡之内安波賀村に春日明神之社御座候、往古より奉納物之由申傳候、而宗近與銘有之刀有之候則太刀銘棒鞘にて御座候由右社之神主吉田宮内少輔與申候、親は吉田日向守與申候、右日向守書付置候處、右棒鞘之上に小狐丸影與書付有之候由、則右太刀之恰好等委細書付差越候に付、差上申候、右之太刀如何様之譯に而何方より奉納之事に候哉、右太刀之儀に而何に而も承傳候事は無御座候哉與吟味仕候得とも其段は曾て相知不申候由申越候、此外領内不残吟味仕候得共外には無御座候由申越右之趣御序に宜被仰上可被下候以上。
三月廿六日 御名
留守居覺
一、宗近刀 一腰
二字銘宗近 但太刀銘
長サ二尺二寸二分餘、帽子長サ七分、元幅八分半、重ね鎺元にて二分餘、切先横手際巾四分、重ね横手際にて一分、反り物打にて一寸一分半、忠作り四寸八分半、目釘穴二ツ、以上。
右棒鞘の上に小狐丸影と書付有之。
右小狐丸影取寄可差出旨大和守殿より被仰渡候に付、四月廿六日被差出旨大和守殿より被仰渡候に付、四月廿六日被差出候處、上覧相済候由に而同廿九日御返有之
影打ち(陰打ち)とは、特に大事な依頼を受けた際に複数打ち(製作し)、その中で一番出来の良い物を”真打ち”として依頼主に納め、手元に残したものを”影打ち”と呼んだ。通常、影打ちには銘を入れない。陰、影、控え打ち
- なお、松平春嶽の「
眞雪草紙 」によれば、寺社奉行からもたとえ正真の小狐丸であっても「小狐丸影」とせよとの内々の指示があったという。乍ら内々寺社奉行よりも、たとひ眞の子狐丸にもせよ、小狐丸影と認、書付差出候様諭示有之候趣之
享保4年の寺社奉行は牧野因幡守英成。丹後国田辺藩3代藩主。享保9年(1724年)から京都所司代。
寛保3年のお手入れ
- 享保名物帳の一本の「昔之名剣御所之剣」の項に、この小狐丸影と同寸の宗近が登場する。
小鍛冶、二尺二寸二分、帯表に宗近と斗。
右寛保三年十月三日御研ぎに下り依之寸尺知るなり小鍛治
長二尺二寸二分半 表に宗近の二字
天明七年鑑定後出されずも御目録にあり
寛保三亥十月三日御砥に下る
明治10年九条家へ譲渡
- 明治維新の後、九条家では松平春嶽(16代越前福井藩主)の手を介し、この「小狐丸影」を
安波賀 春日神社の神主吉田氏から買い戻している。この間の詳しい話は春嶽の「眞雪草紙 」の小狐丸刀の項に書かれている。
- 幕末になり、神主吉田運吉氏の家に代々所持していたこの「小狐丸影」を春嶽自身が実見する。その後、春嶽は明治10年(1877年)西南戦争の際に、京都御所で九条道孝(最後の藤氏長者。奥羽鎮撫総督。昭和天皇の外祖父)と話す機会があったので、「小狐丸」のことを話題に出したという。
明治十年丁丑 主上畝火山御参詣、又孝明天皇陵へ御参拝、西南の役西郷隆盛動乱の節、西京へ御駐輦中、慶永も供奉して西京に滞留、九条公(道孝)も同じく西京滞在中、日々参 内、於宮中春嶽公へ申入候、越前安波賀の社に小狐丸といふ名刀有之候趣承り居候、只今も保存して有之候哉、尋問被致。余九条公へ私も毎度一見いたし承知仕居候。只今に所持有之候と相噺。
- すると九条道孝はぜひそれを買い戻させて欲しいということになり、神主吉田氏も当時困窮していたこともあって金百圓での売買が行われ、小狐丸(影)は九条家に戻ったという。
金子ニて御買求メの儀ニ候ハゞ御世話可申上と相約シ、其後家令武田正規へも談し、吉田氏へ掛合、当時吉田氏も大ニ零落の體故、永世伝来と申譯にも至兼可申間、九条公へ献上し、九条公より金子頂戴にて、田地等買求候ハゞ、双方に為と段々説得し、吉田氏も致承知、終ニ小狐丸刀ヲ吉田氏より九条家へ呈上し、従九条家金百圓ヲ被下、全く小狐丸ハもとの九条家へ復したり。
- 春嶽自身が実見し取次をした話となっている。また公家日記を見ても、寛喜3年(1231年)当たりまでは当主が「小狐丸」を佩いた記事があるが、その後は曖昧になっている。おそらくこの前後に「小狐丸を盗テ逃走す」事件があったものと思われる。
- 福井県のまとめた資料においても上記取次が確認できる。
(明治10年)十二月六日越前国安波賀春日神社社掌吉田常吉、先祖より伝来之太刀一振小狐丸九条道孝殿往古御所持之処、紛失有之所在不分明、然ルニ今般吉田常吉所持之旨正二位様御承知ニ相成、御懇請ニ付、則正二位様常吉御示諭之上、御家従沢木禄平帰県之際受取来候ニ付、本日御家令武田正規御使者ニ而、左之御書面御添御渡相成候
松平春嶽(慶永)からの書状
越前国安波賀春日神社神主吉田常吉、祖先伝来小狐丸太刀壱振、享保中ヨリ有事故影ト称御懇請ニ付、拙者常吉江示談候処、今般廻送候間差出候、御落手可被下候也
明治十年十二月六日 正二位松平慶永御印
従一位九条道孝殿九条道孝からの返書
九条殿御答書
越前国安波賀春日神社神主吉田常吉、先祖伝来小狐丸太刀一振者、拙家往昔ヨリ因縁之次第有之、懇望仕居候儀内情御依頼申述候処、格別之御懇篤之御取斗ヲ以、同氏ニ御示談相成、迅速御廻送之条、深重辱次第ニ御座候、永々当家之宝剣無疑念、大慶此事ニ存候、厚奉謝度御請書如斯御座候也
明治十年十二月十三日 従一位九条道孝御印
正二位松平慶永殿- 明治10年(1877年)12月6日に春嶽より廻送し、12月13日には九条家より迅速に取次をしてくれたことへの丁寧な礼状が届いている。
「家従沢木禄平」は100石取りの福井藩士。明治2年(1869年)から家従仰せ付け。のち近習となっている。明治2年(1869年)御家従被仰付候事。
「家令武田正規」氏とは、もと岐阜県に出仕していた人物で、のち越前松平家の家令となった人物。
- 明治10年(1877年)12月6日に春嶽より廻送し、12月13日には九条家より迅速に取次をしてくれたことへの丁寧な礼状が届いている。
- この刀は九条家に戦後まで伝来し、刃長や反りは同家の記録と一致し、銘も「宗近作」とあるが明らかに新刀に見えたという。
但し享保の記録では「二字銘宗近 但太刀銘」、寛保3年の記録でも「表に宗近の二字」と記されており、もしこの時点で「宗近作」の三字銘であったとすると、別物になっていた可能性もある。
伝来の整理
- 九条道孝および神主吉田氏の話がすべて正しいと仮定して伝来を整理すると、次のようになる。
- 元永元年(1118年)ころより「小狐丸」は藤原北家嫡流に伝来
- 鎌倉より前に紛失(盗難)
- 江戸時代に神主吉田氏祖先が購入
- 享保年間に「小狐丸影」として吉宗台覧
- 明治時代、松平春嶽取次で九条家買い戻し
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