矢目行光
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矢目行光(やめゆきみつ)
短刀
刃長九寸一分
- 「行光」二字銘。
- 平造り、中心うぶ、ひょうたん形の目釘孔1個。
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由来
- 差表区より二寸上の棟よりに、「矢目」つまり矢の根の痕があるのにちなむ。
- この矢目は、徳川頼宣が大坂の役で敵から受けたものという。
徳川頼宣は冬の陣では天王寺付近に布陣、夏の陣でも天王寺・岡山の戦いで後詰として参陣しており、敵との直接戦闘はないためこの逸話は誤伝とされている。
しかし、紀州家の記録では家康本陣の後ろを尾張義直の軍勢が、さらにその後を頼宣の軍勢が進んでいたとする。頼宣は途中からわずかばかりの供回りを率い尾張勢を追い越して本陣に至ったという。
来歴
徳川頼宣
- 由来からすると、大坂の役のころは駿府藩主であった徳川頼宣所持。
徳川頼宣は慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石、慶長11年(1606年)に元服、慶長14年(1609年)12月に駿府50万石へと転封されている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で初陣。元和5年(1619年)に紀伊国和歌山55万5千石に転封し、紀州徳川家の祖となった。
- 慶安2年(1649年)付けの百枚の折紙がついている。
- のち紀州藩2代藩主徳川光貞に相伝される。
徳川光貞は承応2年(1653年)8月に正三位・権中納言、寛文7年(1667年)に家督相続、元禄3年(1690年)5月に権大納言、従二位。
佐竹家
- 贈られた時期は不明だが、後年紀州家から秋田城主佐竹家に贈られている。
- 出羽久保田藩3代藩主の佐竹義処の長男、修理大夫義苗の夫人は紀州大納言光貞の娘・育姫(8代将軍徳川吉宗の姉にあたる人物)で、元禄元年(1688年)に婚約している。その関係で徳川光貞より婿引出として修理大夫佐竹義苗へ贈られたとみられる。祝儀は翌元禄2年(1689年)正月。
┌徳川吉宗 徳川光貞─┴霊岳院育姫 松平直政──宝明院鶴姫 │ 【佐竹南家】佐竹義章──光聚院 ├────佐竹義苗━━義格 伊達晴宗娘 ├───┬佐竹義処──佐竹義格━━義峯 佐竹義昭 ├──┬佐竹義宣━━佐竹義隆 └佐竹義長──佐竹義峯━━義真 ├──佐竹義重 ├蘆名義広 └──佐竹義寘──佐竹義都──佐竹義堅──佐竹義真 岩城重隆娘 ├岩城貞隆──佐竹義隆 └佐竹義直 【久保田藩】 佐竹義宣─佐竹義隆─佐竹義処─佐竹義格─佐竹義峯─佐竹義真
なお徳川光貞は承応2年(1653年)に正三位・権中納言、寛文7年(1667年)に紀州藩主、元禄3年(1690年)5月に権大納言に転任し同月従二位昇叙。祝儀はその前年正月に行われている。
- 見つかりました。百枚の行光なので恐らくこれだと思われます。
此節從中納言様
若殿様江被爲進候御道具
一、吉房御刀一腰 代金弐拾五枚折紙寸弐尺三寸弐歩、二字銘表裏樋ア有リ御拵扇子御紋
一、行光御脇指一腰 代金百枚之云伝二字銘寸九寸三歩御拵右同断
御同人様より
大殿様江被爲進候御道具
一、左安廣御刀一腰 代金三拾枚折紙有御拵右同断
なお佐竹義苗の生母は松平直政の娘の宝明院鶴姫。しかし義苗は元禄12年(1699年)29歳で父に先立って亡くなっている。次弟・相馬叙胤はすでに陸奥相馬中村藩の養子となっていたため、末弟・義格が嫡子となり、のち家督を継いだ。
義苗の正室・育姫は元禄6年(1693年)19歳にて没、墓は池上本門寺の紀伊徳川家墓所にある。「元禄七甲戌年七月十三日 一、来月十三日より十四朝江戸ニ而 霊岳院様御法事於池上ニ御執行依之 御名代之御使者ニ須田主膳今日被仰付候」
- 明和4年(1767年)9月、本阿弥光蘇が秋田に行き佐竹家の蔵刀を鑑定している。
- その時の記録によると偽銘であったため研ぎ直して相州貞宗百五十枚と極め直したという。
名物 矢目行光
長さ九寸一分
但似銘なり。表まちより一寸上に矢目あり。両方ふくらより上、帽子かへりあらし。元砥より甚美事になり、貞宗に変る。百五十枚。
- 以後も佐竹家に伝来。
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