浦島虎徹
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浦島虎徹(うらしまこてつ)
脇差
銘 長曽弥興里/萬治三年十二月日 同作彫之
長一尺一寸二分
- 表に浦島太郎、裏は蓮華の上に草の倶利伽羅龍の彫物が入る。
- 長は明治期には一尺一寸四分あったが磨り減っており現在は一尺一寸二分となっている。
- 平造り、庵棟、重ね薄く反りわずか。生ぶ中心、目釘孔3個。
由来
- 彫り物にちなむ。
- 一般に、岩の上で釣竿を肩にする浦島太郎が彫られているために「浦島虎徹」と呼ばれているが、彫られている人物は浦島太郎ではないとの指摘がある。
- 虎徹研究の第一人者、杉原祥造の「長曽弥虎徹の研究」では次のように記す。
此押形は故大藪久雄氏の賜る所にして、同氏の談に曰く、「明治三十四年一月廿日、東京市日本橋區本町島田利三郎邸にて刀剱會の節、刀匠日置兼次翁持参、重ね薄く反りあり、地鉄のよき事言語に絶せり、刃は濤瀾、匂深く中程に大なる乱れあり、先にて直刄になる帽子如何にもよし、表の彫物は浦島が腰蓑を着け釣竿を肩にして岩の上に立てる圖、裏は蓮華の上に草の倶利伽羅を彫る、手法共に佳」と、今此押形を見るに、人物の持てるは釣竿には無く、又足に藁沓を穿てるのみならず、龜も彫りあらざる様に思わるゝも、大藪氏は浦島なりと断言せられしを以て、姑く此説に従ひ置く
- つまり、「長曽弥虎徹の研究」所載の押形は大藪久雄氏より頂戴したものだが、大藪氏はこれを明治34年(1901年)の刀剣会の折、
日置兼次 刀匠が持参されたのを写したものだという。 - さらに、(杉原氏にとっては)彫り物の人物が持っているものは釣竿に見えず、藁ぐつを履いているのみならず特徴的な亀も描かれていない。ただし押形を採集した大藪氏が浦島太郎だと断言したため、従来通り浦島太郎ということにすると言っているのである。
昭和30年(1955年)に名刀虎徹展が行われた際に、本刀も出品されており、会場では本刀に描かれた人物が何であるかのアンケートが取られたという。回答には、竹取の翁、二十四孝の孟宗(三国時代の呉の政治家)、寒山拾得(唐代中期の2人の高僧)、寒山(同)、浦島太郎、普賢菩薩・文殊菩薩、竹林の七賢などがあったという。当時でも様々な人物に見られていたことがわかる。
- これは「昭和名物帳」でも踏襲され、同様に「浦島らしくない所もあるが、従来の呼称に従い云々」と書かれている。
島田利三郎とは日本橋本町で薬種問屋を営んでいた島久商店の8代目。刀剣蒐集で知られる。
日置兼次は江戸から明治にかけての鳥取藩お抱えの刀工。本名は榎並仁平。銘は因州兼次、日置藤原兼次作など。明治19年(1886年)に上京し伊勢神宮式年遷宮のための宝剣を靖国神社境内で作っている。
来歴
- この「浦島虎徹」は因州鳥取藩主家の池田家に伝来した。
- 因州鳥取藩は、関ヶ原の後池田恒興の三男池田長吉(輝政の弟)が6万石で入封したのに始まる。元和元年(1615年)、嗣子長幸の代に備中松山藩に転封となるが、代わりに池田輝政の嫡孫(利隆の子)である池田光政が32万石を与えられて入封する。
- さらに寛永9年(1632年)備前国岡山藩主池田忠雄(利隆の弟)が死ぬと、その子池田光仲は幼年を理由に鳥取藩へ移封され、代わりに光政が備前岡山藩主となった。
- 以後は、池田氏の分家筋が因幡伯耆32万石を治めた。ただし藩祖となる池田忠雄は輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた(家康の外孫にあたる)ことから岡山の池田宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられた。
細川忠興──細川忠利【肥後熊本藩】 ├──細川光尚 ┌─千代姫 小笠原秀政 ├─小笠原忠真【豊前小倉藩】 ├──┴─万姫 ┌松平信康──登久姫 ├──┬蜂須賀忠英【阿波徳島藩】 │ 蜂須賀至鎮 └三保姫 徳川家康─┴──督姫 ├───池田光仲【因州鳥取藩】 ├──┬─池田忠継━━━池田忠雄 ├───┬池田綱清 │ ├─池田忠雄 │ └池田仲澄──池田吉泰 │ └─振姫 徳川頼宣─┬茶々姫 池田恒興勝入斎 │ │ 【紀州家】└徳川光貞─┬徳川綱教 ├───┬─池田輝政 伊達忠宗 └徳川吉宗 善応院 │ │ │ ├────池田利隆──池田光政 │ 福正院 本多忠刻 ├──池田綱政【備前岡山藩、池田宗家】 │ ├───勝姫 │ 徳川秀忠─千姫 │ └─池田長吉──池田長幸【備中松山藩】
関連項目
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