上杉謙信
上杉謙信(うえすぎけんしん)
戦国時代の越後の戦国大名
従五位下、弾正少弼
長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎
不識庵謙信
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生涯
- 越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の子として享禄3年(1530年)に春日山城で生まれる。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前(青岩院)。
- 幼名虎千代。
幼年期
- 天文5年(1536年)父長尾為景は隠居し、兄の晴景が家督を継いだ。この頃、虎千代は城下の林泉寺で住職の天室光育の教育を受けている。
- 天文11年(1542年)父の長尾為景が病没すると敵対勢力が春日山城に迫るが、兄の晴景は病弱で器量がなかったため翌天文12年(1543年)8月15日、虎千代(謙信)は元服して長尾景虎と名乗り、三条城次いで栃尾城に入り揚北衆を牽制、翌天文13年(1544年)には謀反を起こした豪族を栃尾城の戦いで破っている。
守護代[長尾景虎]
- 天文17年(1548年)ごろには兄の晴景を廃して景虎を擁立する動きが盛んになり、同年末には越後国守護・上杉定実の調停のもと、景虎(謙信)は兄晴景の養子となり、家督を継ぎ守護代となって春日山城に入った。
上杉定実については「宇佐美長光」の項を参照。
- 天文19年(1550年)2月、室町幕府より「毛氈の鞍覆」および「白傘の袋」の免許を受ける。
天文十九年卯月十七日
白傘袋毛氈鞍覆御免之節爲白傘、毛氈鞍覆禮、太刀一腰、鵝眼二千疋到來、神妙、猶晴光可申候也、
二月廿八日 (足利義藤花押)
長尾平三とのへ
- 天文21年(1552年)、関東管領上杉憲政は、後北条氏の北条氏康に上野を攻められると、この年の正月に平井城を棄てて景虎を頼り、越後に落ち延びてきた。
憲政モ公(謙信)ノ御志ヲ感シ、彌家督ヲ與奪セラル、上杉ノ系圖、京都將軍數代ノ御教書、並ニ重代天國ノ太刀、行平ノ脇差ヲ譲ラル
憲政家運ノ傾ケル事ヲ述テ、永享ノ亂ニ朝廷ヨリ下シ賜フ處ノ、錦ノ御旗、關東管領職補任ノ綸旨、及ビ大織冠鎌足以來ノ系圖、御所作リ麻呂ノ太刀、竹ニ雲雀ニ幕マテヲ、景虎ヘ附属有テ、上杉ノ名氏ニ一字ヲ副テ譲ラレシカハ、
- 謙信は沼田城を攻める北条軍を撃退し、平井城・平井金山城の奪還に成功する。
- 同年4月23日、従五位下・弾正少弼に叙任されている。
二十六日、景虎ヲ弾正少弼トナシ、従五位下ニ叙ス、是日、大覚寺義俊之ヲ景虎ニ報ズ
第一次川中島の戦い(布施の戦い)
- この年、武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、信濃守護小笠原長時が、さらに翌天文22年(1553年)には村上義清が景虎を頼り越後に落ち延びている。越後の援軍を得た村上義清は、一時的に葛尾城を奪還するが、武田軍の再度の侵攻を受けて越後に落ち延びる。
- ここで景虎は武田晴信討伐を決意し、天文22年(1553年)8月自ら軍勢を率いて信濃に出陣、布施の戦いで武田軍を撃破している。さらに荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とすが、上洛を予定していたため9月には越後へ引き上げている(第一次川中島の戦い)。
一般に「川中島の戦い」と呼ばれる戦いは第一次~第五次まであったとするのが通説となっているが、その他にも合戦はあったとされる。ここでは一般的な第何次の呼称に加えて合戦名を付記する形式を取るものとする。
第1回上洛
- 天文22年(1553年)9月、叙位任官の御礼のため初めての上洛を果たしている。後奈良天皇に拝謁して御剣(瓜実の剣)と天盃を下賜され、「私的戦乱平定の綸旨」(平景虎於住国并隣国挿敵心之輩、所被治罰也)を賜っている。
是秋、景虎京都ニ上リテ参内ス、仍リテ景虎ニ天盃御劔ヲ賜ヒ、勅シテ、越後及ビ隣國ノ敵ヲ討タシメ給フ
瓜実御剣、長尾景虎時分、内宣旨添。右ハ天文二十二年、輝虎二十四歳初上洛之節拝領
(歴代年譜 斉憲公)
- このときに後奈良天皇より「武尊公」という称号を頂いている。
謙信第一回上洛の際深く武士の精神の汚れたるを慨し、参内の節意見を上奏し、爲めに一篇の古記録(即ち舊典の御巻物)を拝覧するの榮を荷ひしかば、一旦歸國の上、自己の意見を以て一冊を綴り、這度再度上洛に際し、忝しく上覧に供へしに、主上御感斜ならず、其書をば武仙と名づけ給ひ、謙信に武尊公の名號を下し賜ひたり、謙信深く畏み、謹みて自ら其名を用ひしと無かりきとぞ。
のち上杉鷹山も「當家の儀は武尊公の末葉、誠に英名を日本に輝かし.武威を關八州に振ひ、關東管領に至り給ひ、誠に隠れなき家柄、誰にも恥づることあるまじ。」と述べている。
- さらに13代将軍足利義輝にも拝謁している。
- この時に堺を遊覧した他、高野山を詣で、さらに京都に戻った景虎は大徳寺91世の徹岫宗九のもとに参禅して在俗のまま受戒し、「宗心」の戒名を授けられた。
越之後州、平氏景虎公、授衣鉢法號、三歸五戒、曰宗心、
天文廿二年癸丑朧月八日
前大徳寺岫九(花押朱印)
第二次川中島の戦い(犀川の戦い)
- 天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田と通じて謀反を起こすがこれを鎮圧。北条高広は帰参を許されている。
- さらに武田晴信(信玄)は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いたため、景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙する。
- この時は小競り合いのみであり、5ヶ月後に晴信が今川義元に仲介を依頼し、武田方の旭山城を破却し、武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという条件で和睦している。
出家隠居宣言・第三次川中島の戦い(上野原の戦い)
- 弘治2年(1556年)、景虎は突如出家・隠居することを宣言し、同年6月には天室光育に遺書を託して(「歴代古案」)、春日山城をあとにして高野山に向かう。大熊朝秀が武田に通じて反旗を翻すと、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念して越後に帰国し、朝秀を打ち破っている(駒帰の戦い)。
(三月)廿三日、景虎隠遁セントシ、其意ヲ諸将ニ示ス、爲メニ諸公事停止ス
(八月)十七日、長尾政景等、景虎ノ退隠ヲ諫止ス、仍リテ景虎意ヲ翻シ、是日、誓書ヲ政景ニ納ル
- 弘治3年(1557年)2月、武田晴信(信玄)は盟約を反故にして長尾方の城を攻略したため、景虎は雪解けを待って4月に信濃に出陣する。この時も戦線は膠着し、夏の終わりには越後へ引き上げている。
第2回上洛
- 弘治4年(1558年)、将軍義輝から上洛要請があり、これを受諾する。
- 翌永禄2年(1559年)4月3日、二度目となる上洛を行う。同月20日西近江から坂本に至る。将軍家よりの御内緒を得て27日に入洛。将軍家に拝謁している。※このときの奏者は細川藤孝(幽斎)であったという。
(四月)二十一日、景虎、越後ヲ發シテ京都ニ上リ、近江坂本ニ著ス、是日、足利義輝使ヲ遣シテ上洛ヲ促ス、尋デ、景虎入洛シ、義輝ニ謁シテ物ヲ獻ズ
- この時、従四位下・少将に叙任されている。
- その後足利義輝に拝謁し、条書を提出して忠誠を誓っている。またこの時に国綱の太刀を拝領する。
一、就今度参洛、本国之事、縦如何体之禍乱雖致出来候、相応有御用等、於被召留者、国之儀一向捨置、無二可奉守 上意様御前之由
永禄二年秋九月三日、將軍家踏舞ノ興行有テ、景虎公ヲ營内ニ召シ、見物ヲナサシム、雅興終テ饗膳ヲ賜ル、夜陰ニ及ンテ、前嗣公(近衛前久)モ來リ玉フ、其興美ヲ盡シ、酒宴刻ヲ移シテ退出シ玉フ、冬十月十二日、將軍家ヨリ上使トシテ大館左衛門佐ヲ以テ、粟田口藤林國綱ノ御太刀、玉潤カ畫ケル平砂落雁ノ掛物、其外器物ヲ賜ル
- さらに足利義輝からは「文の裏書」、「塗輿」、「菊桐の紋章」、「朱柄の傘」、「屋形号」の使用許可を得た。これらは、天文19年に許可を得ていた「毛氈の鞍覆」、「白傘袋」と併せて上杉七免許と呼ばれている。
裏書事、免之条、加分別可存其旨候、猶晴光可申候也
塗輿免之条、可存其旨候、猶晴光可申候也
永禄二年六月廿六日(義輝花押)
長尾弾正少弼とのへ
このうち、「文の裏書」は三管領家一族にのみ許されたものであり、また「塗輿」は将軍、三管領家、相伴衆にのみ許されたものであるため、これをもって越後長尾家は、三管領家並みの家格を保障されたとする。
- なお、この時に足利義輝から、長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう依頼を受けるが、これは実現には程遠いものであった。
二十六日甲子
是ヨリ先、長尾景虎、三好長慶松永久秀ノ異志アルヲ察シ密ニ将軍義輝ニ謁シテ後事ヲ約シ是日越後ニ還ル尋テ諸将士賀儀ヲ表ス
(大日本史料)十月輝虎歸國ノ御暇乞ノ爲公方家ヘ拝謁、密ニ申上候ハ夏ノ初ヨリ在京ニテ見及候ニ三好松永カ眷甚以テ無禮ナリ、行々ハ公方ヲ蔑如ニシ若ハ謀叛逆心可仕相有之候間、若遺變ノ氣色見ヘ候ハヽ、早々御内書ヲ可被下候、早々上洛仕リ、三好松永以下追罰可仕旨御約束申上ル、公方家御悦喜無限、密々ノ御約諾有テ御手ツカラ藤林國綱ノ御太刀一腰王潤平砂落雁ノ御掛物ヲ被下、輝虎頂戴シテ洛中ヲ發ス、江州屋形六角定頼、越前朝倉孝景等輝虎ヲ道中ニテ馳走同廿六日越後ニ歸着
(北越軍記)
六角定頼は天文21年(1552年)没、朝倉孝景は天文17年(1548年)没で永禄2年(1559年)にはどちらもいないとの原注あり。
- この二度目の上洛でも比叡山のほか、摂津堺に至って高野山を詣でている。また堺に逗留した際に宿の主人の無礼を咎めて切り捨てたという。堺衆数千人に宿を囲まれたため、景虎は宿に火をかけて京都に逃げ戻ったという。
永禄二年七月ハ、洛外ノ名所、舊跡、神社、拂閣、無殘見物、禁裏ヨリ種々御恩賜、公方ヨリ御馳走、八月ハ、大坂天王寺、住吉、堺津見物、世傳堺摂津ニテ輝虎旅宿ノ主人革踏皮ヲハキ、目見ニ出、其禮無禮ナリトテ、輝虎其宿主ヲ手討、堺ノ人數千人起テ輝虎旅宿ヲ圍ム、輝虎則家ニ火ヲ懸、切テ出、追散シテ後靜ニ歸洛、其火延テ堺津數千軒焼失、九月頃ニ比叡山・日吉山王ヘ参詣、
- この上洛で摂津に逗留していた際に、三好氏が若江三人衆を襲わせている。その時、「夢切り国宗」を揮って三好勢を追い払ったという。ただし同じ国宗作の「戒杖刀」にも同様の高野山詣での際に所持したというエピソードが伝わっている。
- 6月29日近江坂本にいた時に腫物を患ってしまうが、この時に足利義輝は大館輝氏を使いとして見舞いがあり、大友宗麟の献上した鉄放薬を送っている。10月28日越後に帰国。
この上洛の際の逸話として、越後に戻る前の挨拶で三好・松永らに叛意ありとして、将軍家の命があれば討伐する旨を言上するが、義輝はこれを退けたため景虎はやむなく帰国したという。義輝は、永禄8年(1565年)5月19日に三好松永から二条御所(二条御所武衛陣)に襲撃を受け、抗戦するものの討ち死にする(永禄の変)。
さらにこの上洛の帰途、近江日吉山権現に詣でているが、その際に寺童・岩鶴丸を召し抱えている。美貌と才能を景虎に愛されて重用され、のち奉行職などを務めた。これが後の河田長親である。
越中出兵
- 永禄3年(1560年)3月、越中の椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、すぐに長職の居城・富山城を落城させている。さらに長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させ、椎名康胤を援けた。
(三月)二十六日、能登守護畠山義綱ノ將越中椎名康胤、神保良春ト相惡シ、景虎之ヲ和解ス、既にして良春、武田信玄ニ應ジ、景虎ノ信濃ニ入ルヲ窺ヒテ、其背後ヲ衝カントス、仍リテ景虎、良春ヲ撃タントシテ、是日、越中ニ入ル
三十日、景虎、神保良春ヲ越中富山城ニ攻メ、良春城ヲ棄テ、増山城ヲ保ツ、景虎ノヲ攻メントス、良春叉遁ル、尋デ、景虎、越中ノ守備ヲ巖ニシテ越後ニ歸ル
関東出陣
- 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が討たれ甲相駿三国同盟が崩れると、景虎は北条氏康討伐のため三国峠を越えて上野に入る。諸城を陥落させながら厩橋城に入り、そのまま越年する。
(四月)廿八日、常陸佐竹義昭、景虎ニ、關東ノ形勢ヲ報ジ、且ツ、兵ヲ出サンコトヲ請フ、是日、景虎之ニ答ヘ、併セテ越中ノ戦捷等ヲ告グ
(八月)廿九日、景虎、上野ニ出陣ス
- 関東諸将に対して北条討伐の檄を飛ばして参陣を求め、年が明けると同時に武蔵へ進撃を開始。小田原城に迫って2月には鎌倉を落としている。
- さらに関東管領上杉憲政を擁し、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら、旧上杉家家臣団を中心とする10万余の大軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲する(小田原城の戦い)
- しかし武田信玄が川中島で軍事行動を起こして背後を牽制、海津城を築いて前線基地とし信濃善光寺平での勢力圏を拡大する。さらに佐竹義昭らが撤兵を要求したこともあり、包囲を解いて越後に帰国した。6月28日厩橋を立ち、7月2日越後着。
(六月)二十八日、政虎、上野厩橋ヲ發シ、是日、軍ヲ越後ニ斑ス
関東管領[上杉政虎]
- この間、上杉憲政の要請を受けて永禄4年(1561年)閏3月16日に山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めた。
- この時上杉憲政から、朝廷より拝領の錦の御旗、管領補任の綸旨、上杉家系図とともに、「麻呂の太刀」を贈られた。※この時ではなく、天文21年(1552年)であるともいう。
- 4月21日には関東管領として鎌倉の鶴岡八幡宮を参詣し、「仁王般若経」を奉納する。
四年三月、上杉輝虎、鶴岡八幡宮ニ参詣シ、管領ノ拝賀ヲ遂ンガ爲、小田原退治ト稱シ、先當城ニ發向ス、北條方ニハ、籠城ノ用意ニテ、悉ク城内に引入シカバ、輝虎蓮池門マデ押寄、魁將太田三樂斎資正ヲシテ、城ヲ攻シム、城兵松田尾張守、小笠原播磨守以下打テ出、相戦フト雖、利ナクシテ城中ニ引退ク、輝虎軈テ退陣シテ、鎌倉ニ赴ケリ
(閏三月)十六日、景虎、憲政ノ譲ヲ受ケテ上杉氏ヲ冒シ、關東管領ト爲リ、名ヲ政虎ト改メ、鶴岡八幡宮ニ奉賽ス、諸將誓書ヲ景虎ニ納ル、是日、景虎簗田政信ニ誓書ヲ與ヘテ古河公方擁立ヲ約ス
(四月)一日、政虎、鎌倉ニ在リテ能樂ヲ張ル
- 以後は「謙信」で通す。
第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)[上杉輝虎]
- 永禄4年(1561年)8月、謙信は川中島へ出陣、妻女山へ布陣する。甲陽軍鑑によれば、この時武田方の軍師山本勘助発案による啄木鳥の戦法を見破った謙信は逆に武田軍を打ち破り、武田信繁・山本勘助・両角虎定・初鹿野源五郎・三枝守直ら多くの敵将を討ち取り大打撃を与えた。詳細は「武田信繁」の項参照
- 永禄4年(1561年)12月には、将軍足利義輝の一字を賜り、諱を輝虎と改めている。
- 永禄5年(1562年)には清胤法印を越後に招いた上で、越後国分寺を再興している。
頸城郡国分寺五智如来堂供養アリ。(略)当月中旬ヨリ国分寺ノ五智如来堂ヲ再興シ玉フ。(略)供養ノ導師ハ高野山無量光院ノ住持清胤法印ヲ招請シ玉フ。此時勅使トシテ勧修寺殿下向シ玉ヒ、供養ノ規式、経営ノ作法、美尽セリ。
- 永禄7年(1564年)、上田長尾家当主・長尾政景が溺死すると、次男卯松(長尾顕景、後の景勝)を養子に迎えている。
景勝は謙信の姉仙洞院の子であり、甥にあたる。この時、仙洞院も春日山城へ迎えられている。仙洞院の長女は上杉景虎(北条三郎、氏康七男)に嫁いだため、御館の乱では娘婿である上杉景虎の春日山城退去に従い景虎の正室である娘ともに御館に籠もるが、戦後には春日山城に戻った。その後は景勝の庇護を受け、慶長3年(1598年)の会津転封、慶長6年(1601年)の米沢転封にも随行している。
越相同盟[上杉謙信]
- その後も上野を始めとした関東および越中への出兵を繰り返す。
- 永禄11年(1568年)には信玄と断交した北条氏康が講和を提案すると、最終的にこれを受諾している。
- 元亀元年(1570年)には氏康子の北条三郎を養子に迎え、「景虎」の名を与えている。同年12月には法号「不識庵謙信」を称した。
- しかし元亀2年(1571年)10月に氏康が死ぬと、翌年1月に北条氏政が同盟を破棄して信玄と再び和睦、謙信は再び北条氏と敵対することになる。
- 上洛を目指した信玄は、謙信を牽制するために越中の一向一揆を煽動、これにより謙信はしばらく越中攻略に専念することとなった。
- この時、上洛経路であった三河遠江の徳川家では上杉家に対して助力嘆願のため「徳用守家」を贈り同盟を申し出ている。
- 天正元年(1573年)3月、上洛途上の信玄が病没すると越中を制圧し、遂に越中を自国領としている。
- 天正2年(1574年)3月、織田信長が狩野永徳筆による「洛中洛外図屏風」(上杉本)を謙信に贈っている。
同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市兵衛遣子越府、被賠屏風一双、畫工狩野源四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日畫之、花洛盡、被及書札、
- 天正2年(1574年)12月にも清胤法印を越後に招いており、同月19日に謙信は清胤法印を師として剃髪し法体となった。
管領御剃髪、護摩灌頂執行有テ法印大和尚ニ任セラル
去年極月十九、令法体
- 天正3年(1575年)2月11日、長尾顕景の加冠の儀を執り行い、「弾正少弼景勝」と名乗らせている。
織田信長との戦い・越中平定
- 天正4年(1576年)、信長により追放され毛利氏に身を寄せていた足利義昭は反信長勢力を糾合し、信長包囲網が築き上げられる。
- 信長は天正2年(1574年)に長島一向一揆をなで斬りにし、さらに天正3年(1575年)には越前一向一揆を平定する。このため、越中一向一揆を指導していた本願寺顕如は謙信に援助を求めることとなり、これにより謙信にも上洛への道が見え始める。
能登侵攻・手取川の戦い
- 天正4年(1576年)9月、越中に侵攻した謙信は、一向一揆支配下の富山城・栂尾城・増山城・守山城・湯山城を次々に攻め落とし、越中守護代・椎名康胤の蓮沼城を陥落させ、越中を平定した。
- ついで謙信は能登平定を伺うが、この頃織田信長も能登に手を伸ばしつつあり、能登の覇権を巡っての七尾城の戦いが起こる(第一次七尾城の戦い)。
- 11月、謙信は能登に侵攻すると諸城を落とし七尾城を囲むが、北条氏が関東で策動したこともあり天正5年(1577年)には春日山城へ帰っている。
- 同年閏7月に再び能登へ侵攻すると七尾城を囲み(第二次七尾城の戦い)、遊佐続光を調略するとついに七尾城は陥落した。加賀国境に近い能登末森城も攻略し、能登を支配下に収める。
- 七尾城に籠る長続連の援軍要請を受けていた信長は、柴田勝家を総大将とする3万の大軍を組織し、8月には越前北ノ庄城へ集結、9月に手取川を渡河して陣を張るが、織田軍侵攻の報を受けた謙信は手取川近くの松任城へ進出する。
- ここでようやく七尾城陥落と、謙信の松任城入城を知った織田軍は撤退を開始するが、謙信はこれを追撃し撃破した(手取川の戦い)。
最期
- 天正5年(1577年)12月18日春日山城に戻った謙信は、次の遠征に向け大動員令を発するが、その出陣予定日であった翌年3月15日の6日前、天正6年(1578年)3月9日に厠で倒れて昏睡状態に陥り、13日に急死した。享年49。
上杉弾正少弼藤輝虎本姓平氏、長尾信濃守平爲景男 天正六年三月十三日卒、年四十九、不識院心光謙信
(高野山過去帳)
- 家督を継ぐことになった景勝は、死因を「虫気」としており、諸方に形見分けの文書を送っている。
態用一書候、爰元之儀
可心 元候、去十三日、謙信不慮之虫氣不被執直遠行、力落令察候、因茲遺言之由候之而、實城へ可移之由、各強而理候条、任其意候、然而、信關諸堺無異儀候、可心易候、扨亦、吾分事、謙信在世中別而懇意、不可有忘失儀肝要候、當代取分可加如意之条、其心得尤ニ候、猶喜四郎可申候、穴賢々々、
追啓、謙信為遺言
刀一腰次吉作、秘
蔵尤候、以上、
三月廿四日 景勝〈花押〉
小島六郎左衛門 とのへ
- 生涯不犯を貫いたため実子はなく、4人の養子を迎えた。
- その死後、家督を巡って御館の乱が勃発し、血で血を洗う内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなった。
刀剣
- 謙信は多くの刀剣を蒐集したことで知られる。
- 「上杉家伝来の刀」、「上杉家御手選三十五腰」の項参照。
肖像画
- 謙信は死の直前である天正6年(1578年)2月、京都から画工を招いた上で、寿像を描かせている。謙信が死んだ日に寿像も完成し、のち景勝は、謙信の遺言に従いこの寿像を高野山無量光院へ納めた。
存生納都率天上絵像於法印之所定
- この無量光院の寿像は火災により失われてしまったが、写しがいくつか描かれており、現在は上杉神社、林泉寺(上越市)、法音寺(米沢市)などに残っている。
覺上公 所納、明治戊子 罹災焼亡、丙申 四月敬齋公 登山弔祭先塋、遂詣院見大僧都津村敎榮、示所齎先公畫像冩眞三種曰、此種畫像多蔵於家、未知孰是、貴僧請就中選最相肖者、敎榮改容熟視、採其一、再拝曰、此尊像面目鬚眉毫無所差、但、嘗所藏爲御雲昇天之圖、此少異耳願自今安置於佛壇、夙夜奉供以傳無彊、公悦乃賜焉、卽此畫也、謹按家譜、天正六年二月先公 在春日山、命藏田五郎左衛門、召畫工於京師、畫壽影、及畫成偶薨、遺言贈無量光院大阿闍梨清胤法印、法印曾住越後法幢寺、先公所尊崇者云、今徽敎榮之言、此畫亦成於同工筆不可疑家保當日扈従、因奉命紀其事如此 明治三十一戊戌年五月、家扶柿崎家保謹記
(不識公畫像記)
烏帽子形白綾頭巾
- 現代で謙信と言えば、一般的には有名な肖像画の
裏頭 (黒い頭巾)姿のものか、あるいは白頭巾を着用した馬上姿がよく描かれる。この謙信が着用したという烏帽子形白綾頭巾 は現存する。 - 上杉神社所蔵で、国の重要文化財(伝謙信・景勝所用服飾品)のひとつ。最後の藩主である上杉茂憲が、(服飾類の)劣化が進んでいたために公開を禁止した自筆の文書が残っており、白頭巾の存在は地元でもよく知られていなかった。
- 2024年9月、その白頭巾を含めた小袖や帷子、織田信長が贈ったというマント(赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套)など4点が初めて修理に出されたことがニュースになった(白頭巾の修理は初。マントは1963年以来という)。修理は京都国立博物館内の文化財保存修理所で行うという。先が尖った烏帽子部分は高さ54cm、垂れた部分の長さは96cm。絹製で、表面に松竹梅の模様があるという。修理は2028年に終わり返還される予定になっている。
- なお修理後は曾孫にあたる第17代上杉家当主である上杉邦憲氏が封印を解き、公開する予定であるという。
- 服飾類〈(伝上杉謙信・上杉景勝所用)/〉|国指定文化財等データベース
附指定: 一、白地麻大帷子片袖 一、頭巾 一、頚懸 一、革緒残闕 一、檜扇 一、赤角打紐 ※一つ書は省略。
- 服飾類〈(伝上杉謙信・上杉景勝所用)/〉|国指定文化財等データベース
「義」の人
- 謙信が「義」を重んじたことはつとに有名である。
- ただし謙信自身は「筋目」という言葉を使っており、書状の各所で「筋目」が登場する。
総体景虎事、依怙不携弓箭候。只々以筋目、何方へも致合力迄候
(佐竹義昭宛書状)輝虎守筋目不致非分事
(弥彦神社祈願文)
現代日本語でも「義」の意味に「筋道・条理」的な意味も含まれる。しかし多くの現代日本人は「義」という言葉を道義や義理など「他人に対して守るべき正しい道。物事の道理にかなっていること。」という意味で使っており、謙信に対してもそのような武将であったという(つまり義理人情に厚い的な)認識を持っていることが多いと思われる。有名な「塩留め」の逸話も、宿敵のライバルとされる甲斐武田の窮地に塩を贈るという、まさにその感覚に合うような意味・内容になっている。
- この「筋目」とは筋道あるいは条理を意味しており、謙信の場合、「天賜の御旗」と「隣国挿敵心之輩所被治罰也」という綸旨を根拠としている。
- このうち天賜の御旗は、謙信の父・長尾為景が天文4年(1535年)に後奈良天皇より賜った綸旨によって新調した御旗を指す。紺地に赤で日の丸を染め抜いたもので、「天賜之御旗」として最重要視された。
- また後者は、天文22年(1553年)に謙信が上洛した際に、後奈良天皇より賜った「平景虎於住国并隣国挿敵心之輩所被治罰也」という綸旨のことを指す。
- 謙信は御旗と綸旨を掲げ、朝廷と幕府の権威回復を目的として他国への進攻を行った。
宗教
- 謙信は幼いころから曹洞宗の古刹林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九のもとに参禅し、「宗心」の戒名を与えられている。
越之後州平氏景虎公授衣鉢法号三帰五戒日宗心
- 晩年には真言宗に傾倒し、天正2年(1574年)12月高野山金剛峯寺法印で無量光院住職であった清胤法印を招き伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
政虎公往年ヨリ真言ノ密教ニ御帰依有テ、今年五仏ノ秘法伝授也
(謙信年譜)清胤ト申ス住持戒行兼備之僧ニテ 謙信公無比之御帰依、御年二十二三之時清胤弟子ト御成、出家受戒御約諾有之。三十四五之御時右清胤ヲ受戒之師ト仰キ真言秘密金胎両部秘印明、多聞天、摩利支天等大事悉ク御伝授。
(高野山無量光院旧記抜書)一、上杉輝虎公帰依清胤法印、創建精舎於越府号法幢寺。
令住請法印。且公剃髪而改名謙信、
存生納都率天上絵像於法印之所定。
第三世前検校執行法印大和尚清胤慶長五年十月十日入寂。世寿七十九
字舜学房。越後国人。覺融之神足而継融師主当院。
上杉謙信聞胤之道徳就而剃髪入道為師資之約。
更建立一宇精舎、屈清胤始祖。
(先師過去傳)
後段には清胤法印のことが書かれている。これによれば越後の生まれであるという。若くして高野山金剛峯寺に入り、天文年間末期に同寺無量光院の第3世となっている。
文化人
- 謙信は和歌に通じ、かつ達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。
- 特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。
- 琵琶を奏でる趣味もあった。
墓所
- 天正6年(1578年)に没した謙信は、春日山城内の不識院内に埋葬された。甲冑を着用し、瓶棺に納められたという。
- 慶長3年(1598年)に会津に転封すると謙信の棺は移され、さらに慶長6年(1601年)に米沢に転封すると今度は米沢城へと移された。
- 当初は本丸西南の宝物蔵に納められたが、慶長14年(1609年)には本丸東南隅に廟堂を建立し、そちらへと移された。
- 廟堂内陣の本壇の周りには、正面に長光、右に国綱、左に国光、助宗の四振りの謙信愛用の太刀が配置された。
- 御堂西側に御堂を管理する霊仙寺が建立され、さらに堀を隔てて二の丸には御堂に奉仕する二十箇寺が置かれた(二の丸二十一箇寺)。これらは、法音寺、大乗寺、蔵王堂などからなる
能化衆 十一箇寺、さらに御堂衆と呼ばれる九箇寺、霊仙寺からなっている。能化衆は越後・信濃・関東から随伴した寺であり、御堂衆は法音寺の末寺として米沢で新たに建立されたものである。
関連項目
- 七星剣
- 三好氏
- 三本寺吉光
- 上杉家伝来の刀
- 上杉家御手選三十五腰
- 上杉江
- 上杉神社
- 二条城
- 五虎退吉光
- 人名
- 佐竹義重
- 公家
- 典厩割
- 吉光
- 国綱
- 城和泉正宗
- 塩留めの太刀
- 夢切り
- 大太刀
- 大徳寺
- 大青江
- 太刀
- 宇佐美長光
- 小早川隆景
- 小豆長光
- 山鳥毛
- 平蜘蛛
- 後家兼光
- 徳用守家
- 忍者
- 戒杖刀
- 本庄正宗
- 松平忠昌
- 柏太刀
- 樊噲一文字
- 正宗
- 武田信繁
- 武辺咄聞書に登場する名物兜
- 水神切兼光
- 波泳ぎ兼光
- 源来国次
- 源氏
- 瓜実の剣
- 真田幸村
- 社格
- 福岡一文字派
- 禡祭剣
- 童子切安綱
- 竹俣兼光
- 粟田口
- 紅葉山信国
- 織田信長
- 般若太刀
- 茶臼割
- 蛇切丸
- 行平
- 謙信助宗
- 謙信景光
- 赤小豆粥
- 足利義輝
- 重要文化財
- 長光
- 長尾顕長
- 長左文字
- 青江
- 飛雀
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- 鯨友成
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