三好氏
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三好氏(みよし し)
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概要
家紋
- 三好氏の家紋は「三階菱に五つ釘抜」とされる。これは小笠原氏の「三階菱」に、五つ釘抜を加えたものになっている。現在三好元長及び三好之長と伝わる肖像画では、いずれもこの三階菱に五つ釘抜が確認できる。※「京小笠原松皮菱釘抜」ともいう。
もともと「三階菱」は、甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光の孫・源清光の子遠光からはじまる加賀美氏が三階菱に王の字を使ったものに由来している。加賀美遠光の次男である小笠原長清が、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。
阿波守護の変遷
- 鎌倉時代の阿波国は当初佐々木高経が淡路・阿波・土佐三ヶ国の守護となって入るが、承久の乱で朝廷方について敗死すると小笠原長経の次男長房が阿波守護に任じられ、その後、鎌倉時代を通じて相伝した。三好氏はこの阿波に根付いた小笠原氏の庶流の一つで、阿波三好郡を本拠にしたことから三好氏を称する。
- 南北朝期には足利一門であった細川定禅らが足利尊氏に従い、尊氏が九州落ちした際にはその命を受けて四国の国人衆を叫号して都に上り、足利政権樹立に貢献する。
- 室町幕府開府とともに暦応4年(1341年)までに細川頼春が備後・阿波守護となった。観応の擾乱で室町幕府内部が混乱する中で、小笠原頼清は南朝方として蜂起、これを頼春の子である細川頼之が抑え、さらに同族細川清氏との戦いにおいても勝利を収めると、やがて小笠原諸氏を配下に収めて幕府管領に就任している。
- その後、阿波守護職は甥の細川義之から養子となった満久へと継承され、代々相伝した。この阿波守護の家系は細川讃州家と称されて幕府相伴衆にも列し、惣領家である京兆家に次ぐ家格を誇った。
【京兆家】 【京兆家】 細川頼春─┬頼之━━頼元 │ ├詮春【阿波守護家(阿波細川家・讃州家)】 │ │【和泉上守護家】 ├頼有……細川藤孝(細川幽斎) │ │【京兆家】 ├頼元─┬満元…【京兆家・典厩家】 │ └満国…【野州家】 │ └満之…【備中守護家】
※細川藤孝の養父については従来説のままとしている。詳細は「細川忠興」項を参照
細川氏への臣従と台頭
- 三好氏は、南北朝の初期には南朝方として北朝方の阿波細川氏と対立した時期もあったが、のち南朝が不利になり細川氏が室町幕府内で勢力を拡大するとこれに臣従する。
- 阿波細川氏(細川頼之の弟詮春の後衛。細川讃州家。下屋形、阿波屋形)の阿波守護家の被官となり阿波守護代を務めて勢力を伸ばした。
京都政変
- 細川京兆家は、12代細川政元に子がなく、澄之、澄元、高国を養子にしたことで家督争いが勃発してしまう。
【京兆家】 細川頼元──満元─┬持元─┬勝元──政元━┳澄之 ├持之 └成賢 ┣澄元──晴元──昭元 │ ┗高国─┰稙国 └持賢【典厩家】 ┗氏綱
- 細川澄之
- 関白九条政基の末子。延徳3年(1491年)に2歳で管領細川政元の養子。細川京兆家の世子が代々称した聡明丸を幼名として名乗る。
細川京兆家13代当主
重臣:香西元長、薬師寺長忠 - 細川澄元
- 細川氏の庶流である(阿波細川家成之の次男)細川義春の子で、幼名六郎。文亀3年(1503年)5月に管領細川政元の養子。
細川京兆家14代当主
家宰:三好之長 - 細川高国
- 細川一族野州家、細川政春の子。養子となった時期は不明。3番目の養子だが元服は一番早い。
細川京兆家15代当主
細川家後継争い
- 文亀2年(1502年)細川澄之は、正式に嫡子に指名され、丹波守護職となる。ところが養父との折り合いは悪く、養父細川政元は文亀3年(1503年)に澄之を廃嫡。代わりに澄元を養子に迎えて翌年元服させ、足利義澄より偏諱を賜り、澄之と名乗らせた。
政元の死と澄之の自決
- 永正4年(1507年)に細川政元の被官であり澄之派の香西元長・薬師寺長忠らが、政元を暗殺するという永正の錯乱が起こる。この時細川澄元も狙われるが三好之長の機転によって近江に逃亡。ここで細川澄之は、香西元長らに迎えられて将軍義澄から細川京兆家の後継者(13代)と認められ丹後から上洛する。
- 一方細川高国は、細川氏一族を取りまとめ、高屋城の畠山氏らをも引き込み畿内近辺の勢力を糾合することに成功する。さらに近江に逃れた細川澄元と三好之長が、遅れ馳せながら近江の国人を味方に引き入れて永正4年(1507年)8月には京に攻め上ると、敗戦が明らかになった細川澄之は自決した。享年19。
大内義興の上洛
- 続いて細川京兆家の後継(14代)と認められた細川澄元であったが、若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなる。さらに永正5年(1508年)4月、この中央政変を機と見た大内義興が、周防に逃れていた10代足利義尹を擁立し上洛を開始すると、先の細川澄之討伐では協力関係にあった細川高国が大内方に寝返ったため、澄之・高国は決裂してしまう。
- 永正5年(1508年)6月に細川高国が京都に侵攻を開始すると、河内の畠山尚順も呼応したため細川澄元は敗北し、三好之長や将軍足利義澄と共に近江へ逃れた。大内義興に擁された足利義尹(後の義稙)が入京すると、義尹により細川高国の家督継承(15代)が承認されることとなった。細川澄元と三好之長は京都侵攻を試みるが、反撃を受けて阿波に逃走する。(如意ヶ嶽の戦い)
【細川京兆家】 12代細川政元─13代細川澄之─14代細川澄元─15代細川高国
- この後、両者は一進一退を繰り返す中永正8年(1511年)には船岡山合戦で細川澄元側は大敗を喫してしまう。また三好家では澄元の祖父成之が病死、翌永正9年(1512年)1月には成之の跡を継いでいた澄元の兄之持までもが死去したため雌伏を余儀なくされる。
大内氏の帰国
- やがて領国情勢の不安と尼子氏による侵攻が始まったため永正15年(1518年)に大内義興が周防に帰国すると、細川澄元と三好之長は摂津に侵攻を開始する。山城土一揆が起こり、さらに将軍義稙も細川澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れる。
- しかし細川高国が六角定頼・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ2万を超える大軍を集めて京都に再侵攻すると、細川澄元・三好之長らは兵を集めることができず敗走する。三好之長は等持院の戦いで敗北し、子の芥川長光や三好長則、甥の新五郎らと共に身を隠すが、生命は保証するという勧降に応じて降伏するが、捕らえられて知恩院で自害させられてしまう。
- また細川澄元も摂津伊丹城に敗走したため、政権は短期間で崩壊した。細川澄元は播磨、阿波へ逃れるが失意のうちに死去。享年32。細川京兆家の家督は、澄元の子である細川晴元が継承する。
【京兆家】 細川頼元──満元─┬持元─┬勝元──政元━┳澄之 ├持之 └成賢 ┣澄元──晴元──昭元 │ ┗高国─┰稙国 └持賢【典厩家】 ┗氏綱
- また三好家の家督は、三好之長の孫で長秀の長男である元長が継承する。
- 立場を失った将軍義稙が京を出奔すると、かつての敵対者であった足利義澄の遺児である足利亀王丸(義晴)を擁立し将軍に据えられた。
細川晴元の上洛
- 7歳で家督を継いだ細川晴元であったが、やがて大永6年(1526年)に讒言に載せられた細川高国が勢力内部の分裂を招くと、三好元長に擁されて、同年10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。
- 細川高国は管領職であることを背景に、足利義晴を動かして官軍の体を保っていたため、細川晴元は阿波に逃れ失意のうちに死んだ足利義稙の子である足利義維を擁していた。大永7年(1527年)2月に桂川原の戦いで細川高国との決戦に勝利して高国を近江に追い落とすと、堺において義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を開いている。
- ところが傍流の三好政長らと対立したことから三好元長が阿波に下向してしまうと、細川高国が再起を図って挙兵。摂津に侵攻し、堺公方府を窮地に立たせた。享禄4年(1531年)になると摂津の大半と京都を高国方に制圧され、細川晴元は三好元長と和解、天王寺の戦いで高国軍を壊滅させる。尼崎で潜伏していた高国を広徳寺で自害させた。
- しかし、ここで現将軍義晴を据え置く方針の晴元と、堺公方である義維を将軍に据えたい三好元長の間で対立が始まり、さらに傍流の三好政長らの暗躍もありその溝は深まる一方であった。
- さらに元長が晴元配下での有望株であった飯盛山城の木沢長政を攻めると関係悪化は決定的なものとなるが、ここで晴元が山科本願寺に協力を依頼したため、元長軍は一向一揆軍に背後を突かれ敗走してしまう。堺の顕本寺に逃げ込んだ三好元長であったが、10万ともいう一向一揆軍に囲まれ、足利義維を逃がすと自害してしまう。享年32。自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。
三好長慶の進撃
- 元長の子三好長慶は、天文2年(1533年)に細川晴元と本願寺証如との和睦を仲介を契機として畿内政界への復帰を果たす。しかしこの時期、摂津および河内の一向一揆、山城の法華一揆、野州家細川高国の弟細川晴国などの勢力が蠢いていたことから晴元は、長慶ではなく三好政長を重用することになる。
- 天文8年(1539年)6月、長慶に対して河内十七箇所の代官職を望み、将軍足利義晴の内談衆がこれを認めたことから双方の争いが激化する。京都西郊で小競り合いをおこなうも、将軍家と六角定頼の調停により和睦し、三好長慶はかつて父元長が支配していた摂津武庫郡越水城へと入城する。
【三好家系図】 源義光………小笠原貞宗─小笠原政長─小笠原長興─三好義長─┐ │ ┌────────────────────────────┘ │ └長之─┬之長─┬長秀─┬元長───────┬三好長慶─┰三好義興 ┌義兼 │ │ │ │ ┗三好義継─┼義茂 │ │ └康長─康俊─俊長 │ └長元 │ │ (笑岩入道) │【阿波三好家】 │ │ ├三好義賢─┬三好長治 │ │ │(実休) └三好正安(一存養子 存保) │ ├頼澄──政成 │ │ ├芥川長光──孫十郎 │【安宅】 │ │ ├安宅冬康─┬安宅信康 │ └長則──長逸─┬長将 │ └安宅清康(河内守) │ └長勝 │ │ │【十河】 │ └十河一存┬┰十河重存(長慶養子 義続) │ │┗十河存保 │【勝時流】 └─十河存之(存保家老) ├越後守長尚─┬新五郎 │ ├勝長 │ └政長─┬政康(下野守、釣竿斎) │ (宗三)└政勝(一任斎、為三入道) │ └遠江守勝宗(一秀) ※三好氏系図については諸説あり。
三好一族の名物
- 三好四兄弟を始めとする一族は、それぞれ名物を所持していた。
- また武将でありながら数寄者として知られ、堺の商人との親交もあった。
三好長慶
従四位下筑前守
修理大夫
聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門
三好実休(三好義賢)
- 三好四兄弟の次男
- 戦国武将ながら数寄者で知られ、堺の商人ともたびたび茶会を開いている。「朱銘長義」を所蔵する妙國寺を開基。
- 「実休光忠」に名を残すほか、名物を蒐集したことで知られる。
実休は稀代の物数寄者にて天下の珍物をあつむ、所謂正宗の剃刀、貞宗の小刀、定家爲家兩筆一番七首の和歌等、其外珍物員を不知となり
(翁草)
安宅冬康
十河一存
- 三好四兄弟の末弟
- 「池田光忠」
三好宗三(三好政長)
号 半隠軒宗三
- 戦国武将ながら数寄者で知られ、堺の商人ともたびたび茶会を開いている。
- 「宗三左文字(義元左文字)」
- 「九十九髪茄子(作物茄子)」、「松島の茶壷(東山御物)」、「新田肩衝」、曜変天目、「伊勢天目」、「青磁竹の子茶入」
- 刀剣書「永禄銘尽」
三好下野守(三好政康)
号 釣竿斎宗渭
三好三人衆
- 刀剣鑑定を本阿弥光心とその子本阿弥光刹に学ぶ。
- 細川玄旨(幽斎)、宮木入道、松永右衛門佐(久通)、篠原油雲斎、岩主慶友などが釣竿斎の刀剣鑑定の弟子とされる。
- 刀剣書「三好下野入道聞書」。政康の口述を幽斎が筆記したとされる。
三好政勝(為三入道)
- 政長宗三の三男で、下野守政康の弟。天文5年(1536年)生れ。
- 父の死後は兄の政康とともに行動し、三人衆や康長とともに反織田勢として動く。織田軍に敗れると阿波に退却し、兄政康の死後家督を継いだ。
- 永禄13年(1570年)中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦するが、やがて信長に降伏。比叡山攻略戦には織田方で出陣している。摂津国豊島郡を宛行われるが、旧領である榎並と交換して旧領回復した。元亀3年(1572年)松永弾正と細川昭元(細川京兆家19代)の抗争では信長が庇護していた昭元を攻めており、その後しばらく記録から姿を消す。
- 本能寺の変後は秀吉に仕えており、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では肥前名護屋城の本丸番衆の馬廻衆「三好為三」として登場するが、以降は息子ではないかとされる。
- 秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原では秀忠軍で上田城攻めに参加、のち1400石を加増され、河内三郡のうちで2020石を領す。慶長9年(1604年)因幡守。大坂の陣では鷹狩の許可や、茶器を拝領するなどしている。秀忠の御伽衆となり、寛永9年(1632年)に96歳で死去という。
真田十勇士の「三好伊三入道」のモデルとされるが、以上の経歴で分かる通り、真田家とは特に関係がないどころか、上田城攻めに参加している。
三好山城守(三好康長、笑岩入道)
- 長慶の叔父で、阿波岩倉城、河内高屋城主。
- 茶会記に登場
- 信長に降り、その後は長宗我部攻めで功をあげる。秀吉に仕え、秀次(後の関白)を養子にする。
秀次は秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男として生まれる。始め宮部継潤の人質となった後養子となり、宮部次兵衛尉吉継と名乗る。のち三好康長の養子となり孫七郎信吉と改める。その後羽柴姓に復姓して秀次と改め、さらに秀吉の養子となる。
- 一説に、この三好康長が亡くなる際に、娘に「天書一紙短刀吉光作」を託したという。
茶会記に登場する三好一族
- 「天王寺屋会記」の天文18年(1549年)の三好宗三會で曜変天目が登場する。
同二月十一日朝 宗三御會
人數 紹鴎 達(天王寺屋宗達) 江州源六
一、床 船 つりて 天目ようへん 貝臺 船之花 金仙花
(天王寺屋会記)
この頃既に、三好政長(宗三)は宗家である三好長慶と対立を強めており、前年末に政長の拠点である河内十七箇所へ進軍し三好政勝の篭もる榎並城を包囲している。6月には摂津江口城において激突し、討ち死にしている。宗三が所持していた道具は三好宗家に移ったものとみられる。
- 同じ「天王寺屋会記」の天文20年(1551年)に登場。
同八月六日朝 垪道會 人數 達 好 宗可宿ニテ
一、天目 ようへん也 うちほし有 前ハ木戸脇ニ在 其後宗三ニ在同十月二日晩 垪道會 人數 達 可
一、天目 ようへん也 茶之口切ニて
右此壺 じやかつ藥(蛇蝎薬)うへにアリ 口付能候 總ノ藥あめ色也 土もよし うすゝとしたるしゆアリ 一方ヨリ出候也 茶九文目入 壺ハ十九文めアリ 合廿八文め也
この垪道は茶人垪和道祐のことで、細川晴元の奉行人。
堺の町々の入口に設けられていた木戸があり、この木戸の脇に住んでいた富家が「木戸脇」と呼ばれたといい、木戸彌三左衛門同人であるともいう。つまり、元はこの木戸脇なる人物所持のものが宗三に渡ったという来歴を記している。後半の文目とは匁(重量)のこと。
- 「今井宗久日記」の天正8年(1580年)
天正八年十月十一日 三好山城守會 ヨウヘン(今井宗久日記)
三好山城守は三好康長(笑岩入道)のこと。これが上記宗三が所持したものと同物かは不明。
- 「唐物凡数」に採録されている「仙茶集」に永禄~天正期の諸国の名物が記されており、そこに同物と思しき三好家所蔵の曜変天目が登場する。
阿波分
一、周光茶碗
一、曜変ノ天目
同時に記される「一、周光茶碗」とは珠光茶碗であるとされ、これはもと村田珠光が所持していたものを千利休が入手し、それを三好実休が千貫で購入し、のち信長が入手する。信長はこれを天正4年(1576年)安土城築城の褒美としていったんは普請奉行であった丹羽長秀に与えるが、後に惜しくなったのか取り上げ、代わりに「鉋切長光」を与えている。さらに後、本能寺の変直前には嶋井宗室(宗叱)を正客として茶器を披露しており、その38点の中にこの珠光茶碗も含まれる。
ちなみに「阿波分」の次には「アタキ」と記された人物がおり、ここには「松本茶碗」が記されている。この松本茶碗とは大内氏が所持していたもので、のち「安宅」冬康を経て、堺の住吉屋宗無(松永弾正の子という)から五千貫で信長に購入され、こちらも本能寺で焼けたという。
要するにこの「仙茶集」の記述内容は十分に信用に足るということがわかる。これらのことから、曜変天目茶碗が永禄~天正年間に阿波三好家(当時の当主は長慶の弟の三好実休)に存在した可能性は髙い。
関連項目
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