松平忠昌
松平忠昌(まつだいらただまさ)
結城秀康の次男
越前福井藩3代藩主
伊予守、正四位下・参議
天崇院勝姫 清涼院岡山 ├──┬松平光長【越後高田藩】 ├───┬松平忠直 ├永見長頼──松平綱国 結城秀康 │ ├亀姫(高松宮好仁親王妃) │ ├鶴姫(九条道房室) │ └閑(小栗正矩室) │ │ │ 【越前松岡藩初代】 └松平忠昌─┬松平光通【福井藩4代】 ├松平昌親【福井藩5代・7代】 └松平昌勝───松平綱昌【福井藩6代】 ※福井藩主:結城秀康──松平忠直──松平光長──松平忠昌──松平光通──松平昌親── ※幕府では光長を数えないため1代ずつ繰り上がる。
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生涯
- 松平忠昌は、結城秀康の次男として慶長2年(1598年)摂津生玉荘にて生まれる。母は、秀康家臣中川一茂の娘、清涼院。
- 幼名は虎松(虎之助)。
- 5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門、のち永見志摩)らの家臣を附属された。
忠昌には弟が3人おり、うち次弟の松平直政は秀康の三男として生まれ、のち寛永15年には出雲18万6千石を与えられ松江松平氏の祖となった。
- 慶長12年(1607年)に祖父の徳川家康および叔父の徳川秀忠に謁見し、秀忠の側近くで養育され、英勝院(お梶、お勝)の猶子となる。上総姉ヶ崎1万石拝領。
十二年未年於駿府大御所様え御目見、上意に依而江戸え御下向、秀忠將軍被御目見、於上総邦姉ヶ崎一萬石御拝領、岡部豊後守、永見志摩守、上三川左衛門、毛受庄助、安藤治太夫其外拾餘人被指副、於駿府御勝之御方の御養子可被御付、其節江戸より本多佐渡守殿、登居被申に付、致同道被下候様被仰付、將軍之御側に而生育申候様にとの事ゆへ、大方は御城に被成御座候由。
あるいは、駿府で3年過ごした後、慶長14年(1609年)に本多佐渡が江戸に連れていき、慶長14年(1609年)に英勝院の養子となったとも言う。
大坂の役
- 武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は徳川秀忠の側で随行した。
- 大坂夏の陣前には出陣許可を得るために、慶長15年(1610年)に元服、1月8日に従五位下侍従、2月には従四位下伊予守に叙任される。
秀忠、故結城秀康ノ二子虎松ニ首服ヲ加エ、忠昌ト名ヅク、是日忠昌侍従ニ任ゼラル
- いっぽうで大坂冬の陣では、出陣の望むが、それはならなかったという。
虎松君御聞被成、毛受某と申兒々姓に被仰付、夜中ニ御前髪を落され、男に御成なされ候ニ付、前方公義への御伺も無之して、前髪御とり被成候事、近比御素忽なる御事なれハ、只大形の御咎にてハ有間敷と家中大キに氣遣なされ其段を御老中方迄申上候ニ付、早速被達上聞候所に、台徳院様ハ、一段と御機嫌宜、能似合候哉と有上意にて、正月廿七日、虎松君を被爲召、従
四 位下侍従に被任、名をも伊豫守ニ罷成候様ニとある上意にて、御諱の御一字を被下忠昌公と申候
松平忠昌の叙任年月は明らかではない。あるいは(慶長15年ではなく)慶長19年(1614年)12月27日に「自ら」加冠したという。正月12日に従四位下侍従に叙任され、諱の一字を拝領し伊予守忠昌と称したともいう。
また別の話では前髪があっては戦陣に出られないと聞き、毛受三郎と小姓に命じて前髪を落とした。その結果正月27日に従四位下侍従に所にしたのだともいう。ただし慶長14年まで家康あるいは秀忠のもとで養育されており、なおかつ遅くとも同年に英勝院の養子になったともされ、同年に元服とはちょっと動きが早すぎるのではないかと思われる。ただし慶長19年(1614年)では数え17才なので特別遅いとも思えず、やはり慶長15年の何かの戦闘前の逸話が混在したのかもしれない。
- 希望通り慶長20年(1615年)の夏の陣に出陣し、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。従四位下・侍従に任ぜられる。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。
慶長廿年、従五位下侍従源忠昌正月十一日任
6代藩主綱昌の時、発狂を理由に強制隠居処分され、この片鎌槍の大名行列の際の使用も禁じられている。これまで福井藩主の就封の領地宛行状は国主を表す「越前少将」であったが、これ以降「福井侍従」と格下げされている。同様に江戸城の詰間についても、将軍家親族が詰める大廊下から外様の国持大名と同じ大広間へと移されている。
- 同年末に常陸下妻藩主であった頼房の水戸転封の跡、下妻藩3万石へ加増移封された。
- さらに翌年の元和2年(1616年)7月には松平忠輝改易の跡、信濃川中島(松代城)12万石に加増転封される。
- さらに元和4年(1618年)3月には越後高田藩20万石へと加増転封されている。
(元和2年7月25日)松平忠昌、川中島に封ぜられ、埴科郡松城城主となる
越後は上杉謙信の領地であったが、秀吉は上杉家を海津120万石へと移し、その後、越前北之庄の堀秀治(堀秀政の子)を春日山へ入れた。秀治は関ヶ原でも功を上げるが、慶長11年(1606年)に急死した。子の堀忠俊が継ぎ、春日山から福島城へと移している。しかし執政の堀直政が死ぬと御家騒動が起こり(越後福嶋騒動)堀家は改易され、その後に家康六男の松平忠輝が川中島12万石に加えて越後で63万石を与えられて入った。
忠輝は福島城を廃して高田城を築城して「越後少将」、「高田殿」と呼ばれる。しかし大坂の役後に改易され、後には酒井家次が10万石で入るが、子の酒井忠勝は信州松代へと移り(のち出羽庄内)、その後に結城秀康の子である松平忠昌が入ることになった。やがて忠昌兄の松平忠直が改易されると、甥の松平光長と入れ替わりの形となって忠昌は越前北之庄改め福井藩50万石となり、高田へは甥の松平光長が25万石で入った。
「越後三位中将」と呼ばれた松平光長の治世は57年間に及んだが、越後騒動が5代将軍により直裁されると光長は改易となった。越後高田は延宝9年(1681年)から幕府領となり、信州他の大名が交代で城番を務める時代が続いた。これらの経緯により印象は悪化し、越後高田藩は「懲罰的な転封先」とされることが多くなっている。なお松平光長の養嗣子・松平宣富は、元禄11年(1698年)に美作津山に入った。
- 元和6年(1620年)浅野幸長の娘・寿証院と婚儀、高田の城に入った。元和9年(1623年)に死去。黄梅院殿
- 元和6年(1620年)2万石加増で25万石。※元和8年(1622年)とも
福井藩主
- 寛永元年(1624年)3月越前北ノ荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎」を継承した。※4月あるいは7月ともいう。
寛永元年甲子春三月、公(忠昌)召されて登城す。老中班列し土居大炊頭利勝予め公に越藩を襲ぐを告ぐ、其詞に云ふ
(略)
公(忠昌)仙千代(光長)君の在るを以て肯かず、利勝公制仙千代君の事に及ぼし難きを以て之を強ふ、公肯かずして云ふ、仙千代を捨てざるの台意ならば、当さに謹で命を奉ずべし、然らずんば之を奉ぜずと、茲に於て老中公をして帰邸せしむ、翌日より公病と称して出でず(時流言区々)、十五日召されて登城す、老中予め公の前に言ふ如く、台意仙千代を捨てざるを告ぐ、而して後公召されて台前に至り、本家を継がしめ、越前の国城を賜ふ、公の封ぜられし越後高田二十五万石を以て、高田君(勝姫)の御化粧田となす、高田君之を仙千代君に譲らんと請ふ、将軍家之を許す、 - 家臣の中には、大谷吉継の孫大谷重政もいた。
この時、忠直には嫡子仙千代(後の松平光長)がいたが、仙千代には越後高田藩25万9000石が与えられ、越前松平家(結城秀康後裔)本家は忠昌が継ぐこととなった。北之庄75万石は、福井50万石が忠昌(福井藩)、直政(のち信州松本を経て出雲藩)に大野5万石、直基(のち山形、姫路。前橋松平家の祖)に木本2万石、余り8万石と若狭・信濃の内6万石を幕府領とした。
忠昌は北ノ庄の「北」が敗北に通じるということで、福井城中の井戸から由来し、街の地名を「福居」と改めたとされている。さらにのち元禄時代に「福井」と改められたとされる。ただし元禄以前にすでに福居・福井が複数の文書で入り混じっている。
- 6月23日から7月2日に、(光長家臣である)荻田主馬、小栗備後、岡島壱岐、本多監物、片山主水、本多質左衛門、野本右近らが越後に移ったという。
- 寛永元年(1624年)7月(あるは6月)13日、忠直越前に移って封に付く。
- 「北之庄」を改めて「福居」となす。※福井と変えたのは7代吉品の代とされる。
- 寛永元年(1624年)8月、愛宕山へ登る。9月神明社に詣でて神職を置く。
- 寛永2年(1625年)福井城にて参賀を受ける。
- 寛永3年(1626年)8月に秀忠上洛に供奉(四条大雲寺貞安邸宅に泊)。正四位下・参議。宰相に叙任される(越前宰相)。
- 秀忠:太政大臣に転任。
- 家光:従一位に昇叙し、左大臣に転任。左近衛大将を兼任。
- 忠長:従二位権大納言
- 直政:侍従、五郎八松平直基:従四位下(大和守)、長光丸松平直良(土佐守):従四位下。
- 9月6日:二条城行幸。10日還幸。
- 寛永4年(1627年)正月初花茶入を越後に贈るという。※これが「初花肩衝」と重器であるとすると、この時期まで福井(北之庄)にあったということになるが詳細不明。
四年丁卯春、正月初花の茶入、及び重器を越後に贈る。
- 寛永5年(1628年)に東照社を勧請。
- 寛永8年(1631年)に秀忠不例の際に、神奈川より船で浅草屋敷に入っているのでこれまでに拝領していることになる。※幼少期は江戸城秀忠近くで養育されたため屋敷はないと思われる。
- 寛永8年(1631年)9月忠長高崎に蟄居
- 寛永9年(1632年)正月秀忠薨去。遺物青木来国次。※のちに子・光通が遺物として献上している
- 寛永9年(1632年)11月6日忠長自殺。29歳。
- 寛永10年(1633年)龍口屋敷拝領
- 寛永11年(1634年)霊岸島屋敷拝領
十一年正月、将軍家諸侯に海辺荒廃の地を賜ふ、公霊岸島を請うて別荘となす
- 寛永11年(1634年)家光が上洛した際に、忠昌も福井から上洛して供奉している
- (6月26日福井発、昼水落、本多富正邸、河野浦泊。河野浦から船で敦賀津、28・29日の2泊。昼疋田、今津泊。7月2日小松昼休、3日坂本、西近江を経て京都松梅院泊)。
- 7月11日将軍入洛。閏7月江戸に。8月2日忠昌京都を発つ。
- (昼坂本、和爾泊、3日大溝。海津泊、3(4?)日湯川昼、二屋泊。5日鮫波。西近江から木ノ芽坂を経て5日に福井城。)
- このときに50万5280石の領地判物を受け取っている。さらに翌年弟の松平直良が越前木本藩から越前勝山藩に移されるとそのうち2万石をも預けられのち加増された結果52万5280石となっている。※翌年ではなく寛永14年(1637年)ともいう。
- この年、酒井家を若狭に。
- 寛永12年(1635年)、直政を信州松代7万石、直基を大野5万石に、直良を勝山2万石に封ず。木之本1万石は忠昌。
- 寛永13年(1636年)兵庫禍ありとして、百工を京都より召して鉄門中(道具留門之西辺)で鎧刀干戈弓矢鉄砲などを製造せしめた。
- 寛永13年(1636年)3月11日仙菊(松平昌勝)誕生。※越前国松岡藩初代藩主。松岡松平家の祖。
- 以下年月不明飛鳥井中将雅章室、徳松(早世)、長松(早世)、毛利綱広室(松寿院、吉就生母)、土井信濃守利宣室(浄興院)
- 7月23日、世子万千代(松平光通。福井藩4代藩主)誕生。母は広橋氏(大納言兼賢の娘。道姫。慶寿院)
- 寛永14年(1637年)閏3月5日千姫誕生(高寿院。長州藩主・毛利綱広正室)
- 浅草門、及び霊岸島別荘の四辺を築く。
- 寛永14年(1637年)冬天草
- 寛永16年(1639年)9月徳丸卒
- 寛永17年(1640年)4月10日辰之介(昌親)、福松(吉品)誕生。
- 同年7月21日、忠直母清涼院、江戸で死す。
- ※中川氏、出雲守一元の娘、備前で生まれ岡山君と号す。二男一女を生み、落飾して清涼院と号す。渋谷長谷寺に葬り、のちに品川天龍寺に改葬する。
- 同年8月15日、世子・子万千代(松平光通)福井を出て江戸に至る。五歳。
- 将軍家世子竹千代誕生。家綱。
- 寛永19年(1642年)3月、福井を発つ。直良同行。三河赤坂で病。加茂で休息。ここの留まること57日という。のち癒えて江戸に着。登城。
- 同年8月13・14日執政以下の諸官を浅草邸に饗応する。
- 寛永20年(1643年)4月(正保元年3月)、直基を出羽山形8万石。直良を大野城へ。勝山は忠昌へ。
- 同年12月10日長松卒。6歳。嶺巌院。
- 同年12月28日(あるは25日)福井発、正月10日江戸へ。
- 正保2年(1645年)8月朔日、江戸の霊岸島(浅草ともする)の中屋敷にて没。享年49。17日木曽路で福井へ。浄光院に葬る。
父の遺言に従い、庶兄・仙菊(のちの松平昌勝)に5万石を分与して松岡藩を、庶弟・辰之助(のちの松平昌親)に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させている。図書寮本では、昌勝は浅草邸におり、吉品は霊岸島邸にいたという。
- 越前福井藩は、嫡男の松平光通が継いだ。
世子襲封の後、公の遺物を将軍家及世子諸君に献じ、又之を諸侯に頒つ
将軍家:刀正宗、脇指青木来国次、茶入二王
将軍世子:脇指貞宗、掛物古茂林墨蹟
亀松:脇指来国光
長松:脇指新藤五国光
千代姫君:古今後光勝、沈香箱橘
酒井讃岐守:刀長光、養老壺
松平伊豆守信綱:脇指古安吉、江之月壺
井伊掃部頭直孝:刀倫光
堀田加賀守正盛:刀来国光
安部豊後守忠秋:刀青江貞次
安部数馬正能:刀化正恒
(略)
系譜
- 継室:従一位准大臣・広橋兼賢の娘道姫
- 次男:松平光通 - 嫡男。福井藩の4代藩主。
- 側室:白石氏の幾久
- 長男:松平昌勝 - 庶長子。越前松岡藩の初代藩主。
- 側室:浦上氏の高照院
- 五男:松平昌親 - 福井藩の5代・7代藩主。正保2年(1645年)まず3代藩主で父・忠昌の遺言により、その死後2万5000石を分与されて越前吉江藩を立藩する。この時に名乗りを昌明とした。延宝2年(1674年)に4代藩主光通が自殺し、後継に指定されていたことから5代藩主となる。しかし藩内では後継問題で揉め続け、2年後には家督を兄・昌勝の長男の綱昌に譲って隠居した。しかし綱昌も安定せず、幕府は改易とするところを、秀康以来の名門ということで前藩主昌親を復帰させ、代わりに所領を半減させた上で様々な制約(領地半減、越前少将から福井侍従へ、大名行列で片鎌槍の禁止)をつけた上で福井藩を存続させた。7代藩主となった後、宝永元年(1704年)に5代将軍綱吉から一字拝領して「吉品」と改めている。また「福居」の地名を「福井」と変えたのは吉品の代とされる。
刀剣
逸話
- 正保2年(1645年)4月、この松平忠昌の江戸屋敷の向かいに屋敷を持ち、品行方正で知られた加賀藩世子の前田光高が、自邸での茶会の最中に突然死するという事件があった。
- 翌日、酒豪で知られた忠昌を心配した将軍徳川家光が忠昌に使者を遣わし、御身は大切な体であることなので酒を慎むようにと伝えたところ、忠昌は一遍の狂歌をしたため家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる 加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれど 三十一で昨日死にけり」。
越前宰相忠昌の邸光高の舘と相對す。忠昌常に大酒を好みしを以て、醫師某之を諫めたりしに、忠昌は『むかうなる加賀の筑前下戸なれど三十一で病死をぞする』との狂歌を以て之に應へたり
越前宰相忠昌卿が御館は、今の龍の口北廉にして、向ふは加賀の筑前守光高朝臣ましゝける。然るに筑前守早世有ける比、此忠昌卿日頃大酒成とて、醫師何某諌けるに、忠昌卿狂歌。むかうなる加賀の筑前下戸なれど、三十一で病死をぞする。
結城秀康の麹町屋敷は嫡男の松平忠直からその子仙千代(後の越後高田藩主松平光長)に相続されており、次男の松平忠昌は大手門至近の龍ノ口に壮麗な上屋敷を構えていた。一方加賀藩前田家も慶長10年(1605年)にこの頃龍ノ口に屋敷地を賜っており、元和2年(1616年)ごろに本郷に屋敷地を賜りこれを下屋敷とした。本郷が上屋敷となるのは、明暦の大火及び天和2年(1682年)の大火の後である。それより後、本郷が上屋敷、駒込が中屋敷、平尾が下屋敷となった。
現在この地には、丸の内永楽ビルディングが建つ。なお松平忠昌の屋敷も明暦の大火で消失してしまったが、模型復元され江戸東京博物館にて「松平忠昌上屋敷」として展示されている。
- この返事を受け取った家光は諭すのを諦めたが、忠昌は光高の4ヶ月後に亡くなった。
福井藩主
松平忠昌──光通──昌親──綱昌──由品──由邦──宗昌──宗矩──重昌──重富──治好──斉承──斉善──慶永(春嶽)──茂昭
- 5代藩主昌親は分家の吉江藩主より就任し、合わせて47.5万石となる。
- 6代藩主松平綱昌は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減(25万石)の上で再襲(吉品に改名)した。
- 吉品が就封の際、領地宛行状が国名の越前少将から城地名の福井侍従となり、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動した。
- 8代吉邦のとき越前国内の天領10万石余を預所として附属せしめられた。
- 9代宗昌のとき、享保6年(1721年)に支藩松岡藩から就任したことによる再併合により30万石に復した。
- 10代宗矩は、陸奥白河新田藩主松平知清の次男で、9代宗昌の養子となり、8代吉邦の一人娘であった勝姫を娶った。この宗矩から再び「左近衛権少将」に戻る。
- 11代重昌は一橋宗尹(吉宗の四男)の長男で、若年相続であったため預所が一旦幕府直轄となる。※11代重昌~16代慶永(春嶽)までは一橋家の流れ。
- 12代は11代重昌の異母弟・重富。
- 13代治好のとき、文政2年(1819年)にさらに2万石を加増され、徐々に家格は回復した。
- 田安徳川家から養子に入った幕末の16代藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。
福井藩の江戸藩邸
浅草屋敷
- 元和4年(1618年)拝領
- 寛永10年(1633年)に龍口を拝領したため移居。
- 邸内に銀杏岡八幡を勧請したが、のち龍口屋敷に移ったため町人地となった。
銀杏岡八幡神社略由緒では、奥州征伐で遠征した源義家がこの地で一休止し、隅田川を流れてきた銀杏の枝を地に差した。戦勝したため義家は神恩に謝し、康平5年(1062年)に八幡宮を勧請し、太刀一振を奉納したことを始まりとする。これはいわゆる「前九年の役」(1051-1062)の事を言っていると思われる。陸奥守となったのは父・源頼義で、義家も出陣しており翌康平6年(1063年)に従五位下出羽守に叙任された。
一方で、元和4年(1618年)にこの地は北之庄松平忠直に屋敷地として与えられ、邸内社として勧請したともいう。一説に元和9年(1623年)に忠直が流されたため上地されたとするが、実際にはその9年後もまだ浅草邸はあり、寛永10年(1633年)に龍口屋敷地を拝領したため移居したのだという。享保15年(1730年)に大岡越前守によりこの一帯を福井町と命名したという。
龍口上屋敷
- 龍之口北角
- 寛永10年(1633年)拝領
- 上地明暦3年(1657年)3月
松平家記録、元和四年浅草邸ヲ賜フ。寛永十年龍口邸ヲ賜ヒ、浅草邸ヨリ移居。明暦三年三月三日酒井摂津守安藤右京進屋敷ニナリ。
- 上記忠直の逸話で、「向い(の屋敷)なる 加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれど 三十一で昨日死にけり」と詠んだのはこの屋敷でのことになる。
霊岸島中屋敷
- 寛永11年(1634年)霊岸島屋敷拝領
十一年正月、将軍家諸侯に海辺荒廃の地を賜ふ、公霊岸島を請うて別荘となす
霊岸島とは、東京都中央区の新川1、2丁目にあたる地区。霊巌島ともかく。大川(隅田川)の中洲で、初めは箱崎と連結し江戸中島とよばれていた。寛永頃には已に州を新堀川(新川)で中断して箱崎と分離し、霊岸島と独立している。
地名は霊巌雄誉上人が寛永元年(1624年)にこの地に創建した霊巌寺に由来する。寛永7年(1630年)に屋敷地を拝領し、向井将監支配による御船手組の番所が置かれた。寛永11年(1634年)に越前藩が番所の北側に屋敷地を拝領し、周囲に堀をめぐらしこれを越前堀と呼んだ。寛永14年(1637年)に「浅草門、及び霊岸島別荘の四辺を築く。」とあり、この頃かと思われる。
- 忠昌はこの霊岸島中屋敷で没したという。
浅草屋敷
- 元和4年(1618年)、越後に転封された頃に浅草邸を拝領している。これは故松平忠輝の屋敷だったという。
江戸鳥越抱屋敷
- 吉江藩時代の抱屋敷。隠居した7代藩主・松平吉品が隠居所とした。
関連項目
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